堕落《エンゼルフォール》
夜更けにケイとマコトは警察に保護された。
家から逃げ出したあと、ケイは真っ先にそれを目的にした。
これでもうこの問題は隠すことが出来ない、リカの起こした事は未遂とはいえ未成年への淫行、一方的にケイがそれを証言し有利な立場を作る。
(父さんなら、また、なんとかする筈だ、癪だけどそれが有利になる情報を増やす)
ケイはひたすら冷静に、再び起こるであろう離婚調停に対しカードを用意していく。
隣で不安そうにしているマコトの頭を撫で、大丈夫だよ、と笑顔で伝える。
彼は父の有能さを信用していた。だからこそ、見落としていた。
「マコトは、リカさんが引き取る…?父さん、どういうこと?」
その発言を父から聞いた時、耳を疑った。
「言ったとおりの意味だ、離婚調停に対しての準備はあちらの方がずっと前から進めていたようだ」
普段の父と母の冷え切った関係、それを一番自覚し続けていたのは母だった。
あの日の夜こそが、母の家庭を続けるか否かの最後の試験だった。
そして、全てが上手く行かなかった今、集め続けていた札を切った。
ケイは忘れていた。母は父が伴侶たると認めた女性だった。
その相手に、準備の段階で付けられている大差を覆す事は並大抵の事ではない、おおよそ、過度なストレスにより正常な精神状態ではなかった等、ケイに対しての行為も未遂な点を強調しかなり矮小化して扱われている。
そして、そこに残ったのは事実として、母に冷たく接する父の行動の記録だ。
「リカはマコトの親権を希望している。それを認める事が一番、安く済む」
「安く…って!アイツはマコトの事なんてどうでも……ッ!」
違う、とケイは気づいた。
これは、マコトへの愛情でも、父への当てつけでもなく、あの夜を拒んだケイへの復讐。
父は、ケイの肩を叩いた。
「ケイ、すまなかった」
産まれて初めて、父が自分に謝罪した。
日々が過ぎていく
仕事一本だった筈の父も少しだけ疲れたのか、家に居る時間が増え、学校や、趣味、部活の話をした。
剣道部に入ったと言ったら、家に日本刀――それも証明書付きの本物――を飾りだした時は笑ってしまった。
父と二人の生活はずっと穏やかで、それでも一つだけ、苦痛としか言えない事があった。
定期的に届く、マコトからの手紙だ。
最初に読んだ一通は、兄ちゃんに会いたいだとかそんな事ばかり書いてあった。
すぐにでも飛び出したかったが、父はそんなケイに対し、
「行っても何も出来ない、お互い辛くなるだけだ」
そう言って、諭した。
返事もまた、書くべきでないと、どうせ子供だ、直ぐに飽きるとも。
ケイは積み重なる手紙を読む事を辞めた。
マコトを失い抜け殻になったケイは空虚な日常を楽しく演じる術を得た。
父もまた、壊れかけた大人だった。
父は有能だった、父は天才だった、父は絶望的に他人に寄り添う事が下手な人間だった。
二人の女性に裏切られ、また、その裏切りの原因を作り傷つけていたのは自分だと知らしめられる事がどれほどの悲哀か。
それに気づくと、ケイも勘違いに気づいた。
何故、一人目の母の時にケイの親権を勝ち取ったのか。
何故、今になってケイとの距離を近づけたのか。
それは、父が築けた家庭の中で唯一父を裏切らなかった人間がケイだけだったからだ。
あまりにもなんでも出来る人だから、余りにも他人との距離が不器用だと誰も気づかない。
それは今の今までのケイでもそうだった。
思えば悲しすぎる理由で、ケイはこの小さく弱い父を見捨てることは出来なかった。
翌年の夏の始まり、マコトからの手紙が止まった。
最初にやってきた感情は安堵だった。
マコトが自分を忘れてくれればそれでいいと。
次にやってきた感情は寂寥感。
それでも、ケイの中にはマコトが居た。
父は、これでいいんだとケイを慰めた。
ケイもそれに頷いた。
それが間違いだと気付かされたのはある日の朝刊の第一面だった。
「ノーザンライツタワーで、大規模な【魔法】犯罪?」
主犯と見られるシマハラという男が、悪魔崇拝者達を集め、大規模なサバトを計画し実行したらしい、警察側にもそれなりの被害が出た上に、主犯のシマハラはビルの屋上から転落死、配下の悪魔崇拝者達は殆どが捕まるか、死亡する近年まれに見る大捕物だったと記事には書いてあった。
興味を惹かれ開いた第二面には彼等が行っていた事の詳細が書いてあった。シマハラは信者達から自らの子供を差し出させ、街の各所の工房で天使の堕落の材料として拷問を加えていたらしい、そしてその子供達にも少なからず被害が出ており、捜索の過程で身元不明の死体も数多く見つかっているとも。
「この街でこんな事件が起こるなんて怖いね」
ケイは苦笑いしながら朝食を摂る父に話しかける。父は、ああ、と頷き、会話はそれっきりだった。
興味を持ってしまったそれが間違いだった。
学校の休み時間にケイは調べた、この事件の詳細を。
そしてたどり着いた悪魔崇拝者達の死者の名簿で、手が止まる。
「リカ…さん?」
それはノーザンライツタワーでの戦闘で発生した死者の一人だった。
記事には書いてあった。
タワーに集められたのは、我が子を生贄に捧げる程の熱心な信者達だったと。
ドクンドクンと胸が高鳴る。
血流は全身に濁流のように流れているのに頭からは血の気が引いていく。
家に帰ったケイは、積み上がった手紙を狂ったように開いては読んでいった。
そこにはあった。
ケイに会いたいというマコトの言葉、
日に日におかしくなっていく母の様子が、
最後の手紙に書いてあった。
『明日引っ越しします。落ち着いたらまた手紙を書きます。』
その手紙から一ヶ月以上が経っていた。
ケイは吐いた。
もはや、胃の中身は残っていない、残るは胃液と胃そのものしかない、それでも吐き続けた。
シグナルは送られていた。それを、見過ごしていたのはケイ自身だった。
ケイはそれから、眠れなくなった。
夜が、怖くて仕方なかった。
夢の中でもしマコトが出てきたら、マコトになんて言うべきか、答えがない。
全て忘れてしまいたい、いや、忘れてはいけない、考えがループする。
父の手前、昼は優等生の顔を続けた。
だが、夜は眠れぬ時間を持て余し街に出た。
何日もそれを繰り返したある日、ガラの悪い人達に絡まれている同じ高校の生徒を見つけた。
ぼんやりした頭でケイはそれを助けた。
只管に拳を振るい、蹴り足で膝を砕いた。
容赦はしなかった。
こういうヤツがマコトを巻き込んだのだと思うと止まらなかった。
「ストップ!ストップ!」
顔がぼやけているが、助けようとしてたヤツだった。
「助かった助かった!でもやりすぎだ!ホラ!いい所つれてってやるから落ち着けって!な?」
ケイは手を引かれるまま、ある店に連れ込まれた。
繁華街の外れに位置するバーだった。
「ほら、マスター、オミキをミストで頼むわ!」
調子のいい青年がそう言って出てきたグラスをケイに差し出してくる。
「今日は、オレの奢りだ、心配すんな、オレ達がここに来るのはバレやしねえ、オヤジがちょいっとアレでね」
青年は拳を握って額に当てる、なんとなくその仕草が気に食わなかったケイは、出されたグラスを掴み、その顔を隠すように一気に飲み干した。
あっ、と声が聞こえた。
ケイの視界が揺らぐ、強烈な酩酊感。
椅子から後ろに転げ落ち、それと同時に見上げた天井にぐるぐると、顔が見える。
父
一人目の母
二人目の母
そしてマコト
誰も彼もが緑や青、赤、黄、光そのものような極彩色が回り。
万華鏡のように重なり、光が混ざりすぎてドス黒く嗤う。
現像を失敗したフィルムのような黒の中に口と目だけがギラギラと光る。
まるで邪悪な曼荼羅。
悪魔達の笑みが何重にも重なって、こちらを見ている。
「僕のせいじゃない」
ケイは叫んだ、声は聞こえない筈なのに、責められている気がした。
お前らが、お前らが悪いんだ!呂律の回らない口で叫んだ。
『本当にそうなの?』
気づくと曼荼羅は消えていた。
傍らに虹色のマコトが立っていた。
「そうなんだ、そうなんだよマコト、僕は頑張ったんだよ」
ドロドロに溶けているマコトが床に広がり、つるつると滑る。
ケイはなんとか転ばないよう四つん這いに見上げ、マコトにそう言い訳した。
その背後のリビングのテーブルにマコトとケイが居た。
まだ小さい、幼いマコトとケイだ。
大きなテレビで映画を見ている。
声が聞こえる。
『兄ちゃん怖いよ』
マコトがケイにくっつく、確かホラー映画だった。
『大丈夫だよ、これは映画だから本当には起こらないよ』
ケイは笑ってマコトにそう言った。
『で、でも……』
それでも怖がるマコトにケイは穏やかな笑顔で言った。
『大丈夫、本当に居たとしても、ブギーマンは悪い子の場所にしか来ないからマコトは大丈夫』
『本当?』
『本当』『本当』『本当』『本当』『本当』『本当』『本当』『本当』
スクラッチのように嘘つきの声が繰り返される。
もうやめてくれという声は、喉から出てこない、なんでだ、何かが口を塞いでいる。
そうするとテレビから手が伸びて、嘘つきの子供の頭を掴み、くしゃりと潰した。
ヘドロのような色の脳漿が地面に飛び散る、マコトはそれを見てケラケラ笑ってる。
ケイは噛みちぎらんとしていた自分の右腕から口を離し大笑いした。
「ブギーマンが来る」
笑いながら叫んだ
「ブギーマンが来る!」
そうだ、罪があるならば罰してくれる筈だ。
「何も出来なかった僕を食べに来るんだ!」
ケイはあはははははははと腹を抱えて笑った。
そうだそうだ、幸せな夢なんて僕が見る筈がない、それならば、夢を恐れる必要なんて無い。
早くマコトの場所に行きたい、いや、同じ場所じゃないかな、でもここよりも、地獄の方が近いだろう。
そうだ、僕ならば地獄のような夢を見るに決まっている。
周囲の困惑の目も他所にケイはその晩床で笑い転げ、朝まで熟睡した。
それが、街を巻き込む最悪の悪夢の始まりとも知らずに。