偽《グッドウィル》
小さな手が指を掴んだ。
全体的に丸くて柔らかい。
それなのに指を掴む力は想像以上に強い。
閉じられた目が薄く開く。
「ああ、」
ため息が漏れる、赤子は愛される為に可愛く産まれると聞いたことがある。
「母さん、元気だよ、元気な男の子だ」
ケイは新たに母となった女性をそう呼べるようになっていた。
子供を産んだばかりの彼女は憔悴しきっていて、その視線は宙を彷徨っていた。
「ねえ、彼は…?」
うわ言のような言葉に、ケイは一瞬躊躇い、首を振った。
「まだ、だよ、今忙しいらしいけど、仕事が片付いたら来るって言ってたから」
真実だ、だが、果たして父はこの為に仕事を急ぎ片付けるような人だろうか。
「そう、ね……」
母はそう躊躇いがちに頷いた、残念そうというよりも、理解っていたというような表情。
ケイは始めて今の母の為に祈った。せめて、今日だけはこの人の願いが叶って欲しいと。
しかし、そうはならなかった。
マコトが産まれて暫くして、母は仕事に復帰した。
家政婦を雇い子育てを代行、悪いことじゃない、普通のことだ。
でも、ケイには理解っていた。
マコトが産まれても、母は父の感心を引くことは出来なかった。
マコトが産まれた意味を彼女は持たなかった。
産まれたばかりの小さな命をケイは幾度も抱きしめる。
ただ産まれ落ちただけで、一人になってしまったこの子を守れるのは僕だけだ。
そう気づいた夜、訳もなく涙を流していた。
ケイは兄として11も歳の離れたマコトにできる事をなんでもした。
食事から、洗濯、下の世話まで、保育園に入った時は家政婦の人に断りを入れ朝は自分で送り出した。
マコトは成長していく、寝返りを打った時、ハイハイを始めた時、始めて立ち上がった時、始めて喋った時。
「にいちゃん」「兄ちゃん」「ケイ兄ちゃん」
マコトが、弟が、自分の名を呼ぶ時、自分の人生の気づきもしなかった空白が埋められていく気がした。
幼稚園で虐められていると知った時、少しでしゃばった真似もした。
そのせいで生まれてはじめて赤の他人に叱られた。
それでも良かった。
弟の為なら。
ケイは中学でも高校でも兎に角モテたし、友達も多かったが、マコトの事になると誘いを全て断った。
その度にブラコンだと笑われたが、それもどこか誇らしかった。
自分の中の一番がある、それが、確かだと思えたから。
結果として家族というものに対して、ケイはマコトの事しか見ていなかった。
父は自分を養育する義務を果たす事にしか興味がないと、理解っていたし。
母は父しか見ていないとも、理解していた。
個々人でそれぞれの幸福を求めていればそれで良いと思っていた。
だからこそ、自らが暮らす家庭の中で、最も苦しんでいた者に気づく事ができなかった。
その日の夜は、帰り道に見上げた秋の空に満月が登っていたのを覚えいている。
家に帰ると、珍しく母が居た。
頬が赤く染まり、リビングのテーブルに幾つもの空き瓶が転がっている。
椅子に深く座り、半分寝ているような、座った目をしていた。
「母さん、そんなにお酒飲むと体に悪いよ、明日も仕事でしょ……?」
ケイは至極当たり前の事を、母に言ったつもりだった。
だが、それを聞いた母は甲高い声で笑った。
「仕事、アハハハ!仕事ね!」
聞いたこともない彼女の狂った声、赤く腫れた目――泣いていたのだろう――がこちらを見る。
口は笑っていたが、その中に渦巻く感情までは推し量れない。
「ねえ、ケイくん、今日って何の日か覚えている……?」
ケイはその問に狼狽え、視線をカレンダーに移す。今日の日にマルが母の筆跡で書いてある。
それに気づき、咄嗟に答える。
「結婚記念日、だよね、母さん」
それを聞いた母は再び笑い出した。
「そう、そうなのよ!」
おかしくて仕方ないとでも言いたげなその話し方に、ケイは何が起こったか察し口を開いた。
「仕方ないよ、父さんは忙しいから……」
母は笑いを、止めた。
まずい事をいったのだと、ケイは直感した。
「そうね、彼は忙しいわよね、毎年、この日、私は待っていたのに、毎年忙しいの」
張り詰めた空気の中、身じろぎ一つとれなくなっていた。
「今年はね、ディナーでもどうかって誘ってみたの、そしたらね彼なんて言ったと思う」
ケイは一言も発せない、だが、今思えばここで何かを言うべきだった。
「仕事の邪魔だって!アハハハハハハハハハ!私って!私って何!なんなの!彼の!」
笑いながら泣いていた。
口に出してしまった言葉で今まで積み重なってきた小さな傷が全て開くように感情が爆発していく。
硬直していたケイは見てはいけないものだと感じ咄嗟に目を逸らす。
暫くの間続いた笑い声が止まると、唐突に手が握られた。
目の前に赤い笑みを浮かべた女性の顔がある。
相手は当然、母だった。
ケイはえっと間の抜けた声を上げ、リカはその手を引き彼をソファーに押し倒した。
気づいた時には、ケイは仰向けに寝転がり、その上にリカが跨るように座っている。
「ねえ、ケイくん、貴方、逞しくなって、彼に似てきたわね」
そう言って見下ろす笑みは妖艶で、出会ってから5年経った今でも美人だった。
リカの手が、ケイの学ランのボタンを外していく。
「ねえ、リカさん、止めましょう、今なら、」
その口を、柔らかいものが押し止める。
「やめてよ、そういうの」
離れた唇から、艶のある声が出る。
ケイは、もう、彼女は母親という役割から降りるつもりなのだと、そう理解した。
ケイは考えた、これで、この家庭はもう取り返しの付かない崩壊を迎えるだろう。
僕はもう良い、家庭というものに執着はない。
彼女もまた、母という役割から降りるならばそれで良い。
父もまた、最低限の養育さえ行えれば良いだろう。
だが、そうして崩壊した家庭に残された、弟は……
そう考えると、今、ケイが彼女を受け入れ、関係を秘密にさえしつづければ事実として崩壊していても、少なくともマコトが独り立ちできるまでの時間は稼げるだろう。
父にバレた場合どうなるか。
最初の母の時は相手が悪かった。
僕ならば内密に処理できる、そう判断するだろう、そういう合理的判断をするとケイは知っていた。
(僕がリカさんの情夫となり、家庭として最低限の形を保ち続ける、それでもいいか)
ケイは自分を蹂躙しようとする、リカから目を逸らした。
だが、リビングから玄関をつなぐ扉の隙間、視線の先に、弟が居た。
寝ぼけ眼をこすりながら小さな声で、呟いた。
「……兄ちゃん?」
「うああああああああああああああああああ!!!」
ケイは叫んで、自分の上にいた女を突き飛ばした。
乱れた着衣も気にせず、走り、弟の手を掴み、玄関へ向かう。
背後から、ケイくん!と声がするが、そんなものは無視した。
見られたくない、こんな汚い姿を弟には、その感情が理性的な打算全てを吹き飛ばしていた。
裸足のまま玄関を飛び出す。
「兄ちゃん!……兄ちゃん!」
手を引いている弟相手に必死に笑みを作り、ケイは言った。
「大丈夫だ、どんな事になっても、絶対に兄ちゃんがマコトを守るから」
大きな月にケイはそう誓った、その筈だった。