色に触る
──その時、目に入ったものは白黒だった。
大量の金、それと引き換えに解放された俺の命はいつの間にか色を失っていて、すべてのものがどうでも良くなってしまった。
湿気ったパン、薄いスープ、窓の無い部屋、縛り付けられた足と机。
身じろぎ一つに許可が要り、睡眠時間も管理される。
そういう生活から解放されたのは、おおよそ二か月後だった。
結局のところ、金を惜しんだ両親の支払いが滞っていたらしい。
最後の時、誘拐犯は俺を見て嘲りと恨みと、僅かな憐れみの目を向けていた。
加害者から向けられる憐み。余計なお世話も良い所なのだが、今になって見ればその気持ちはわかる。
不当な対価を得て満足した誘拐犯は、きっと自分の小さくささくれ立った良心から目を背けきれなかったのだ。
俺は、終始、どうしようもなく、道具だった。
それから犯人が捕まったり補償金が出たり取材が殺到したりと色々あって、旅に出て、今に至るのだが。
俺の目が映す世界は、
あの時から変わらず、白黒の色彩だった。
グレイディア世界短編 タイトル「色に触る」
街は忙しない。人々の喧騒は絶え間なく続く。
目よりも耳に頼って生きているので、彼彼女等の会話はよくわかる。
あの化粧品が安い。昨日の仕事の上司が怖い。あの本の新刊が出る。
魔法技術の進歩。明日の学校。今日の食事、昨日の後悔。
他愛もない会話で微笑ましくなるのが通常なのだろうけど、俺にとっては苦痛でしかない。
そういう、自分にとって心底どうでもいい情報で頭の中が埋め尽くされて、内側から破裂しそうになるんだ。
気分が悪くなると、視界の白黒の濃度が高くなっていく。人の影が濃くなっていく。
そんな状況、白黒の濃くなった景色の中では人の表情など分からない。元より分かりたい訳でも無いが……
自分のつま先に目を向ける。
地面と自分のつま先が段々と輪郭を溶かして行き、次第に人の肩とすれ違う回数が増えてくる。
無意識に避け合う人々の波は、まるでそういう催し物であるかのように不規則に見えてただ規則的に進んで行く。
まるで一体の生き物のようにくねくねと動くその波。
人混みは慣れない。
心地の良い物ではない。
嫌気が差す自分の置かれた状況に結論付けて、さっさと別の場所へ足を進める。
滅多にないのだが、こういう時、視界から白が完全に溶けてしまう事があるのだ。
そうすればもう真っ黒だ。何も見えない。そうなったらただの盲目で、冗談じゃない位不便になる。
自分の気分が最低を迎える前に、俺はさっさと裏路地へと足を進めた。
裏路地の匂いは、生ゴミの匂い。血の匂い。カビの匂い。
空気は澱んでいて、手を少し動かせば汚れた酸素が纏わり付いて持ち上がるような感覚すらある。
溜息をついた後、吸った息から感じる空気の味も、どこか苦々しい。口を閉じる。
辺りからわずかに聞こえる民家の生活音や、大通りの喧騒、ただそれを背景にするかのように、目の前の排水管から水滴がぽつぽつと垂れる音がする。
そのどれもが普通の人にとって心地の良い物ではないのだろうと分かっていながらも。
不思議と、気分が落ち着いてしまう。
これ位の仄暗さが安心できるのだ。そのどれもが白黒に見えて然るべきもので溢れているから。
黒いゴミ袋にどれほどの色がある?灰色の排水管にどれほどの色がある?灯りを通さないすりガラスにどれだけの色がある?
差し込む陽光が真っ白で、それ以外が真っ黒で。
そもそも最初っからそれほどに色も興味も価値もない。そういう方がハッキリしていて本当に落ち着く。
色が見えないのだから、最初から色が無い場所に居ればいいのだ。
俺が長い間一人で考え、行きついた結論が、それだった。
気分が安定して、少しずつ鮮明になってきた白黒の視界で、足を進めていく。
途中に無気力な乞食や、そのまま何もせずに朽ちて行ったであろう何かの骨なんかが転がっている裏通り。
落ち着く場所とは言え、自分の気持ちとは関係なく命の危険がある場所でもあるのだから気は抜けない。
奥に進むにつれて、多くなる水滴の音。遠ざかる喧騒。
カラスが鳴いた。下卑た人の低い声。
裏路地がさらに枝分かれを始めて、一周回って少し騒がしくなってきた時、ふいに
「お兄さん」
と呼ばれた。
それはこの裏路地に相応しくない、透き通っていて綺麗な声だった。
女性の声、それも少女の優しい声だった。
あんまりにも澄んでいて、心を安心させる声。
一瞬。ほんの一瞬だけ、視界の白黒が色付いた気すらもした。
そんなものは気のせいに過ぎないのだけれど、まぁほんの少し視界の透明度が上がったのは確かだった。
──いや、これは。汚れた娼婦や売人蔓延る暗い裏路地で聴ける様なものじゃないな。
少し経って淫魔の類の可能性に行きついて、ぎゅっと頬を噛みナイフを構えたが、誰も居ない。
気のせいだったか、俺は遂に幻聴が聞こえるまで落ちぶれてしまったか。
少し自嘲気味に笑って、ナイフをしまう。そして前に向き直って──
「お兄さん、足元の確認がまだですね」
──声の出どころにナイフを抜き向けた。
「怖い」
「お互い様じゃないか」
その少女の顔は、腰元にあった。
「先端、少し刺さっている」
「護身と脅迫だからな」
ナイフの先から、血の筋が流れる。
「声かけた相手が悪かったね」
「誰でも一緒だろ」
「悲しいね」
誰でも一緒だろう、とは本心だった。
その姿は、なぜ生きられているのか皆目見当もつかない物で。
その声は、白黒の世界をかき乱すほどに美しいのだ。
「……何でそんな姿なんだ」
「色々あったんです」
その少女には、四肢が無かった。
彼女は壁にもたれかかっていた。静かに白い髪が降りていて、また白い瞳が俺を見つめる。
膝から先の無い太もも、肘から先の無い二の腕を付けて、奇妙に自分の体のバランスを保っている。
質素な白いワンピースには黒くすすけた汚れが張りついていて、取れそうにも無い。
その声は相変わらずとても澄んでいて、今日でも一番視界が鮮明になるのだけれど、それよりも。
視界が晴れれば晴れる程に分かって行く。彼女の白い肌にはケロイドが走っている。
手足の付け根、顔から鼻にかけて亀裂の様な火傷の跡が痛々しい。思わず目を逸らした。
同時にナイフも下げた。この姿では危害を加えられることも無いだろう。額の傷から少しずつ血が流れる。
「俺に何の用だ」
「私の人生を少しだけ買いませんか。私は所謂娼婦なので」
彼女は少し微笑んで肘から先の無い二の腕を自分の胸にくっつけた。
……ああ。
結局、そういう事か。きっと彼女は借金のカタか何かで四肢でも取られてここで娼婦をやらされている。
ありふれた話で、到底一介の人間がどうこうできる話でも無い。
する義理も無い。自業自得の馬鹿馬鹿しい話だ。対応するに値しない。
自分のやりたい事すら出来なくなったらもうおしまいだと、俺は思う。
「その顔は、勘違いしていると思うんですけれど。」
彼女は扱いづらそうな身体を少しだけ前に傾けて、俺に微笑みかける。
それはこちらをからかう様で居て値踏みしている、そんな視線。
「私は望んでこの仕事をやっているんですよね。娼婦っていうか、まぁ、自分の人生の時間を売るお仕事。
私は、どう扱われるのかが楽しみなんです。
人によって様々なんですよ。ひどい事から優しい事まで。
でもね、結構多いんです。私に相談とかお話してくれる方。
私はそっちの方が好きなんです。別に娼婦として行為をしたい訳でもないですよ。
まぁ、だから。」
ぽす、と彼女は再び壁に身体をくっつける。
そして、少し──いや、かなり──寂しそうに微笑む。
「そんなに私を憐れんだ目で見ないで下さいよ、お兄さん」
彼女の白い髪が揺れる、少し小首を傾げて目を閉じる。
そういった儚げな動作の一々も作り物だと考えてしまい、どうにもいけ好かない。
それに俺は。
「俺は、憐れんでない。馬鹿馬鹿しいと思ったまでだ」
「嘘つきは癖になりますよ」
「うるさい」
「騒がしくは無いと思いますよ」
「聞き心地が悪い言葉を並べるなって言ってるんだ」
「でも耳当たり良い言葉なんて貴方の為にならないと思いませんか?」
「娼婦に心配される謂れは無い」
「あれ、今なら安くしますよ。お兄さんとはお話がしてみたいですから」
「誰が買うか」
「私を買う人は意外と居ますよ。例えばあの豪邸の──」
「どうでもいい、減らず口を叩くな」
「……だって、口と頭だけはありますから。」
「……笑えない冗談だ」
小悪魔めいた笑みで次々に生意気な言葉を放つ少女。
彼女の印象はいつしかしたたかな少女というものに変わっていて、こちらも遠慮が無くなってきた。
その距離感は、意外にも心地よいもので、彼女の口車にまんまと乗せられているのが分かった。
他人の掌の上で踊るのは不本意だが、なんとなく、少しだけ興味が湧いた。
少しだけ付き合ってやろう。お金は無駄に有り余っているのだから。
「少しだけ買ってやろう」
彼女の目の前にあぐらで座り込んで、金を置き、肘をつき彼女を見据える。
恐らく、話すこと自体には、お金は必要ない。彼女はこのまま話し続けられるのだと思う。
ただこれを払うのは相手への義理だ。それと、少しの侘びだ。
──憐みは、嫌いだからだ。
「ありがとうございます、お兄さん。これで心置きなくお話できますね」
と、明るく言うと、彼女が二の腕を後ろの壁にトンと叩きつけ、太ももと尻だけでこちらに寄ってきた。
しばらく、よちよちという音が似合いそうなたどたどしい歩き方を続けて、最後に俺の胸に顔を預ける形で倒れ掛かってきた。
彼女の身体から漂う、裏路地に場違いな花の香りが鼻につく。
「何のつもりだ」
「抱き抱えてください」
「やっぱりただの娼婦じゃないか、破廉恥な」
「いえいえいえ、違います」
彼女が腕をぐりぐりと動かす。
まるで何かを押そうとしている様だが、まるで上手く行かず宙をかすっているままだ。
「……単純に、貴方に近づこうとして、失敗しただけです」
「抱きかかえる理由にはならない」
「こんな体勢になった相手と赤面や動揺せずに応答できる自信がないので、抱えてください。荷物のように」
「そっちの方が気恥ずかしくないか?」
「私の職業を何だと思っているんですか?」
「そうか……」
「早くしてください、いたたまれません」
渋々、彼女の脇に手を入れて後頭部が目の前に来るように抱きかかえる。
人間を抱えるにしては軽すぎるその体重に何かを思いそうになる。腹立たしい。
彼女の花の香りが、さらに近くなる。苛立たしい。
それに、自分よりほのかに暖かい体温を感じる。恨めしい。
「何から話しましょうか。名前、趣味、年齢、種族、なんでも話しましょう。まずは会話はそこからです。」
「ティミド。趣味は無い。20歳、人類種」
「……何か怒ってます?」
「少しな」
「お怖い。私の名前はカルマ。趣味は旅の話を聴く事。聞いておいてなんですが、年齢は数えた事ないです。人類種です。
せっかくですから、機嫌を直して。趣味の話でもしましょうか」
彼女はそう言うと、無い腕を俺の肘先に合わせて、顔を少し傾け、振り向かせた。
今度もからかうような視線を装って、だけれどこちらを労わる。
自分自身、何に怒っているかもわからない不機嫌に身を任せる現状は、なにかとても幼いものに感じた。
そして、彼女に優位に立たれているように感じた。それはそれで、好ましくない。
幾分か気を落ち着け、彼女の目を見て、腕を離す。
「わかった。とはいえ、趣味が無いのは本当の事だ」
「うん、そうですよね。じゃあ私の趣味をここで実行しても良いですか?」
いつの間にか前を向いて楽しげに足をふらふらとさせる彼女が、あっけらかんとこちらに問いかける。
だがこっちはたまったものじゃない。
色を失ってから、景色を見るのは俺にとって、残酷な事でしかなかった。
話せることなど何もない。
「言う程旅はしていないし、それに……」
「暗い言葉を重ねないでください。良い事無いですよ。じゃあ私の質問です。
この街に来るまでに、どんな道を歩いてきましたか?」
「どんな道?」
「はい。ある人は言いました。山を越えて、平原を歩いて、森を進んで、川を渡った、その道は険しかった、と。
ある時は無種族の小種の群れに襲われ、森林族の狼種に襲われ、海竜族を食べた、と。
それを話してくれればいいんです。私はそれを聴くだけでワクワクします。」
「そう、か……そうだな」
しぶしぶ、思い返してみる。
だがこの街に来るまでに特に変わった事はしていない。
金は無駄にある。馬車を使って、面白いものは無いかと旅に旅を重ねているだけだった。
だから風景は知らない。というか、風景は見ない。
見たくても──いつだって、白黒だった。
俺から見えるものはすべて味気ない。幼い頃とはもう違う。あの頃の色は俺にはない。
彼女はそれを知らない。
だというなら単刀直入に言ってしまうのが手っ取り早いだろう。
膝の上でゆっくりと左右に揺れて楽しみを身体で表現する彼女。
こんな事を言って諦めさせるのは少し酷かもしれないとは思った。だがどうしようもない。
「……カルマ」
「なんでしょうか?」
「俺は、色が見えないんだ
全ての色が白と黒に見える。何を見ても白と黒で表されるだけ。
綺麗な物を語れるほど見てきたわけじゃないんだよ
障がい者なんだよ。もう、色が見えない。」
彼女の動きが一瞬止まって、それからまた動き出した。
「ふんふん、それで?どんな道を辿ってきましたか?」
「いや、だから、俺は色が見えない、全部白黒なんだ。
それに、金だけはあるから馬車で全部済ませた。語れるものはほとんど無い」
「そんな事無いですよ」
「は?」
「……馬車、私も乗ってみたいですね。
そもそも馬ってどういう格好をしているのか?どれほど筋肉があるのか?格好いいのか?不細工なのか。
車ってなんでしょうね。車輪で進むものだとは知っています。実は……ちょっとだけ乗った事もあります。
だけれど、どんな形をしているのだろうか。遠くから全貌を見た事は無いです。それに走ってたのも短時間でしたし。
馬は何故人の言う事を聞くのか?車は何故人を乗せても動くのか?その乗っている感覚はどういうものなのか?
すごく早く走るというのなら、風の匂いなんかも気になります。音も風を切る感覚も。
何より、景色はどういう姿を見せるんでしょうね。私にはわからない。
だからなんでも気になる。
どこまでも、感じるものはあります」
カルマは言葉を続ける、花の香りが広がる、体重が胸に寄り掛かる。
「ティミドさん、どうです、話してみてくれませんか?
きっと失っているのは、色だけじゃないと思うんですよね
心はまだ豊かですか?なんで裏路地に来たんですか?
視界は白黒でも心は色付かせていないといけない」
「私たちは、受け入れはしても、諦めてはいけないんです
諦めたら、終わってしまうから」
風が鳴くような声に乗って、俺を叱咤激励するような言葉を投げかけるカルマに、言葉を失った。
一瞬、カルマの髪が、肌が、輝いた。肌色、銀色、赤色。
景色の灰色が深みを持って、裏路地に色が吹いた。
──そんな、気がした。きっと気がしただけだ。
「偉そうな事言いましたけど、ほら、私もちょっとだけ不自由なので、ちょっとだけ分かるんです。
ささ、ゆっくりと聞かせてください。ティミドさんが見た景色を」
息を呑み、言葉を詰まらせる間も、カルマは足をぐりぐりと退屈そうに動かしながらも待っていてくれた。
やがて、俺は。
「……馬車は、快適とはとても言えなかった。」
「うん」
「絶え間なく縦揺れの振動が身体を揺さぶって、たまに天井に頭をぶつけるから痛い。
カルマは馬車をどういうものと思っているか分からないが、景色は全く見えないぞ。無理すれば後ろの入り口から見られるが、最悪落ちて死ぬ。
前を走る馬は臭いし、遮幕があるとはいえ砂ぼこりは入ってくるし、もちろん馬車は荷物が乗ってる。ぶつかれば弁償だ。
荷物も薬品か割れ物か食品か交易品かで乗りやすさも変わってくる。割れ物だったらただ普通に割れただけでもこっちの所為にされるしな。
それにたまに途中まで乗せて行ってくれという旅すがらの男が入ってきたりして、三人以上になるといよいよ大変だった。
寝れないんだ。だって座ってないとそもそもそれほどスペースが取れないからな。乗ってきたやつも俺もどっちも苦行。
それを笑い飛ばすような仲間が居る訳でも無い。」
「はい」
「でも、自分が動いている感覚は、楽しかった」
「ですよね」
「俺は止まったままで、馬の後ろに付いていて、何もしないでも動いているんだ。
なんかおかしいだろ?
たまに後ろの幕が外れる時がある。命の危険や荷物の心配も感じるけれど、同時に景色を望むことができる。
ただ広く広く続く草原だったり、荒涼とした高原だったり。
色があればどれほどいいか。どんなに楽しめて、心が動くか。
それを考えて泣いた事もあった。」
「そうですね、少し分かります」
「俺は──俺は、本当は旅の景色が大好きなんだ。だけど、それが見られない。
見てこなかった、見ようとしてこなかった。
昔のように、絵が描きたい。
正直、最悪だ。
色が見えないのを良いことに色んな事に諦めを付けるようになった。
他人に興味を持っても意味がないと断じた。
音はひたすら騒がしく、俺の邪魔な物だと疎ましく感じるようにした。
何にも期待しなくなった。何にも心を動かそうとしなくなった。
諦めていた」
感じない様にしていた事。考えないようにしていた事。
気付けば、口から溢れ出ていた。眼下のカルマの頭を抱えながら、甘えるように吐露していた。
涙さえも、溜まり始めていた。
「──ふふふ、でも、楽しいですね。」
カルマは、ふっと花が咲くように柔らかく笑った。
前に抱え込むように笑っていたので表情は見えない。けれどカルマは確かに、優しく笑っていた。
やがて、カルマが俺の腕に触れ、言葉を続ける。
「今、こうやって話してくれている。
その方が格好いいですよ、お兄さん。もっと自分の気持ちに素直になってみて。
格好悪い方が、格好いいんです。そういうものです。
私は、人がそうやって笑顔になって行くのが嬉しくて、楽しいんです
ティミドさんはきっとこれからずっと笑顔になれます。格好良くなりますよ」
カルマはくすくすと笑って、触れていた俺の手を叩いた。
本当に嬉しそうで、はしゃぐ子供のようだった。
自分の情けない涙がカルマの首筋に垂れているのが見える。
カルマは何でもない様に言った。「そのまま居ればまた笑えるようになれる」と。
それが、どうしようもなく心強い言葉であり、自分を見透かされた言葉であり、どうにも心が落ち着かない。
視界が、本当に、鮮明になっていく。
あの"色に触れた"一瞬から、白黒の景色は鋭い位のコントラストを放っている。
すぐにでも色が帰って来る気さえ、膝の上の少女から伝わってくる気さえする。
やがて、涙が止まり、嗚咽が収まり、俺は口を開く。
「カルマ。俺も一つ質問していいか?」
「はい、良いですよ。」
「カルマの望みって何なんだ」
「そうですね、ティミドさんにこれだけ語らせたのだから、私も話しましょう」
「道理だ」
「……私の夢は、ですね」
カルマは俺の胸に全体重をかけて、両腕両腿を目一杯広げて言う。
「世界中を、歩き回る事なんです。
色んな景色、聴いた事、すべて、すべて、自分のこの目で見て、頭で考えて、心で感じるんです。
義肢を付けて、もっと綺麗な服を着て、自分の意志で歩く。
色んな人の話を聴く。色んなものを見て回る。私が私を再構築していく。
世界を見るんです。
今まで教えてもらった様々な世界を。この目で。」
カルマは話している内に、自分の胸に腕を当てた。
「……できない事はないんですよ?こう見えて商売上手なので、義肢2本分の費用は溜まっています。
でも、どうしても、私は一つ……」
「何かあるのか?」
「あ──ああいえ、なんでもありません。私の夢は世界中を歩く事、それだけです」
「続きを、聞いてみたい」
「……これ以上は、相談してもしょうがない事なので」
「諦めるなって俺に言ったのだから、そこで止まるなよ」
「でも、ダメです。これは──」
「暗い言葉を重ねるな」
「私は……」
「俺にも聞かせてくれ」
カルマは身体を動かして、こちらの腕に腕を触れ合わす。
少し横を向いた彼女の顔、その耳が真っ赤になっているのが見える。
「……寂しいんです」
「寂しい?」
「いや違います!そういうお誘いじゃないんですよ!
えっと、ですね。……単純に。そういう事じゃなくて、寂しいんです。」
カルマは、今までの余裕をなくして、俯いて、喋りだす。
「見て回りたい、歩き回りたい、諦めてない。けれど私たち、いえ、私は受け入れなければならない。
私は、義肢を付けても結局、普通の人間になれる風体ではない。
だから私は、隣に誰かに居てほしいんです。
結局、娼婦とかやってるんだと思います。
一人で、ずっと、役立たずの身体で。
誰かの嘘を齧りながら、ずっと」
彼女の様子がだんだん暗くなっていく。
それは先ほどまでの冗談めかした様子でもなく唐突に何かのスイッチが入ったかのように、急に。
少しずつ暗くなるその声を聴いてこちらの気分も落ち込んで、今まで晴れていた視界も黒く狭まって行く。
白と黒の均衡が壊れていく。
「寂しい、寂しい、寂しい、寂しい、寂しい。
私はこれから、ずっと寂しいんです。
前も別れた。此度も別れる。次も別れる。
心にしか残らない。
私は、未だここにしか居れないのに。
動いてもそうなる未来が容易に想像できて」
太腿に、ぽつ、ぽつ、と。排水管の滴る水とは違う雫が落ちてくる。
それもまた、俺の感情をぐちゃぐちゃにする。腹立たしい。
言葉が、どこかなぜか不快だ。俺の頭をつつき回すように。
俺は、カルマと出会って間もないし、どうでもいい相手だ。なのに、こんなにも腹立たしい。
「愛されたい、それが私の本心です、ごめんなさい。
これ以上吐く事なんてない。
ごめんなさい。
ごめんなさい、ごめん、ごめんなさい、ごめ、んなさい
許してください、すいません、ごめんなさい」
相手は娼婦、これも演技か。最近の娼婦ってのは進んでいる。凄いな。
十中八九そうだ。こんな話演技だ。
そもそも第一どうでも良いんだ、この少女の事など。出会って幾日どころか数時間。どれほどの繋がりがあると言えるか。
意味もない、価値もない、泣いてる相手に手を差し伸べるほど、出来た人間でも無い──
──なんて、思う自分が、心から腹立たしい。むかむかする。
俺の思っている事に間違いは無いだろう。出会って数時間、こんなにも心を動かされる方がおかしいに決まっている。
第一、言ってしまえばこの会話すらもたかだか金銭の関係であり心から通わせている会話じゃない。
なのに、カルマがこんなにも報われていないのが視界の白黒がちらつき崩れる程腹立たしい。
自分が本心を吐露して、カルマが本心を吐露して、それだけか?
もうどうなってもいいや、とかいう放棄や、
彼女の涙から溢るる色が悲しい位綺麗だ、とかいう感情や、
一時の娼婦に全てを投げ打つなんて馬鹿だ、とかいう正論を吹き飛ばして、
好き、というこの短期間で芽吹いた心があるのだ。
それを認めない自分も居る。それに苛立っている。
多分。
あの瞬間、諦めない事を説かれた瞬間に色が見えた気がしたのは──いや。
あの一瞬、確かに「色に触った」のは。
本当に心を絆されて、彼女に恋を覚えたからだったのだろう。
自分の色覚障害が心因的なのには気付いていた。見えなくなった瞬間は忘れもしないあの日々の最後だ、容易に想像がつく。
──こんな形で、自分の正解があるなんて思いもしなかった。
俺は、カルマとならば、色に近づけるらしい。
この想いに利己的な下心もあるという事実がまた俺に苛立ちを覚えさせる一つなのだろう。
純粋に彼女と出会いたかった、時を過ごしたかった。利己的でなく彼女に恋を伝えて愛にいきたかった。
そういう、どうしようもない理想の残滓が俺を苛立たせている。
ならば、もう俺がとるべき行動は一つだと思った。
カルマの頭を優しく撫でると、怯えた動物のように体を跳ねさせた。
「あ、ああ、何でしょうね。お客さんに話す事じゃないですね。私としたことが、距離感を間違えました」
「カルマ」
「すいません、すぐどきますね、申し訳ございません」
「お前を買う」
「……もう良いです、十分お話できました。ありがとうございます」
「うるさい」
「私は肉塊です、これ以上──」
「少し黙ってくれ」
カルマの身体を──できるだけ優しく、火傷痕にも触れるか怪しい、ゆっくりとした動作で腕を回す。
少しずつ、力を入れて彼女の身体を確かめる。
無い四肢、ひび割れた様な身体。
「……え?」
人を受け入れる心、愛されたい本心。
カルマの事を好きな自分をも許し、彼女を優しく抱きしめた。
回した腕の上に雫が一、二滴垂れ、それからゆっくりカルマが横を向き、目を合わせる。
唇を噛み締めた。
──人の表情なんてどうでもいい。そう思っていた。
相手の感情を分かろうとすると、苦しくなるからで。
自分の苦しみで精いっぱいな俺は他人の苦しみまで考える事は無い、そう言い聞かせていた。
そういう俺をひっくるめて諦めるな、と激励したカルマは。
からかうような視線の面影も無く、怯えた目をこちらに向けていた。
何よりも弱く、苦しそうで、不安に満ちた、ただ一人の壊れかけの少女でしかなかった。
「あ、はは……するんですかね」
「そうじゃない」
「何でもいいです、お金は返しますよ」
「そんなものどうでもいい」
「このままやってしまえばいいですよ。気持ちよくなれます」
「違う……」
回している片方の腕を、カルマの腕に添える。
カルマは、過敏に怯えて反応する。
カルマの腕は自分の身体よりもほんのりと温かい。
「カルマ」
「何を、言うつもりですか」
「これから、カルマの傍に居たい」
「……え?」
カルマは信じられない、という顔を向ける。
俺だって、信じられないような思いだ。
「この……」
「この短期間に何を馬鹿な事をって思ってるだろ。俺だって、多少思う。
けれど、今、カルマを好きになったっていう本心がある。
諦めない方が良いと思った。
結局俺は開けっぴろげにこうやって伝えるしかできない。だから全部もう思ってる事伝えてしまおうと思った」
彼女は触れられた腕を振りほどくようなこともせず、ただ硬直している。
その横顔から感情を読み取るのは、難しかった。唇を噛み締めている。
「……私を憐れんでいるんでしょう?」
「最初に見抜いてきたのはそっちだ。そして、今はどうだと思う」
「私は、本当に……自分勝手で、ティミドじゃなくても、良い。誰でも良い」
「俺はカルマが良い。一緒に居る事で変化する事もあるだろう」
「私は悪女ですよ。裏切るかもしれない、それにティミドに言った夢すら曲げて途中で諦めるかもしれない」
「俺が傍で見てる」
「お金を貯めるためだったら何でもするよ?」
「傍で見ている」
「わ、私は……ダメだから……」
「どっちなんだ。」
カルマは、それでも不安な色を消さないで、言う。
「私の傍に居るのは、大変だよ。
きっと嫌になる。だって、想像を絶しているから。
……それでも、ティミドは私と居てくれるんですか。
私の、心よりも近いところに居てくれるんですか」
「約束する」
「約、束……」
カルマの目から流れる涙が少しずつ大粒になっていく。
息を少しずつ整えながらカルマは言った。
「……お金、どうするつもりですか」
「色々あって腐ってるからな。使い時だろう。」
「生半可な金額じゃありませんよ?こう見えても商売上手なので」
「……この手紙、どっかしまうところに入れて渡してみてくれ」
そう言って、渡す。俺と腐るほどのお金を繋ぐための、大事な一枚。
それは──王都グレイディアからの無期限融資という馬鹿げた物。
誘拐一つ受けるだけでこんな大金を貰った。
思えば、そういう「苦痛」に「対価」で受け取ったところから、心の垣根は壊され始めたのかもしれない。
俺が欲しかったのは、人からの心だった。そんな事はどうでもいい。
今、こういう出会いがあって役立つのならそれで良い。
「読んでも良いですか?」
「いや……流石に、カルマに秘密にしたい事だ」
「……隠し事は嫌です」
「しょうがないだろ」
「私だって、ティミドの事知りたいんですよ」
「……俺の話は、商人に聞いてくれ。自分から言うのは流石に嫌だ」
「分かった」
「……良い話じゃないぞ」
「ティミドの事もっと知れるなら、なんでもいいよ」
カルマが、小さな声で甘える様にそんな事を言うため、面食らってしまった。
耳まで真っ赤にしたカルマは俺の腕に顔をうずめ、泣き止んだ今もすんすんと鼻を鳴らす。
もうそれ以上何も言えなかった。
長い時間が過ぎ、気付けば日もかなり傾いてもう夕暮れと言っても差し支えない時間になっていた。
多少色んな意味での衝撃も和らいだので、声をかける。
「……そろそろ日が沈む頃合いか?」
「そうですね」
「こ、これからはよろしくな」
「うん」
「今日は荷物もあるし、用意もしないといけないから一旦帰る。
明日朝一番にまた会うぞ」
「わかりました。……絶対来てください」
「おう」
約束を交わす。きっと、この絶対は彼女にとってとても重い物なんだと思う。
カルマを膝の上から降ろして、壁に寄り添わせる。
泣きはらした目にはもう不安の色は無いが、ただ最初の時とは違う、伺うような目線。
なんというか、こう、苛立ちの代わりに体が熱くなる。
たまに覗く、思ったよりも少女らしい彼女の口調も、まぁ、悪くはない。
好意っていうのは正常な判断力を鈍らせる。
敬語の方が心地よい筈なのに、どこか嬉しく感じる自分さえいた。
可愛いとか、好きとか、自分の感情の中に存在しない筈の言葉が、彼女を思い出す度に踊っていた。
日の出前にでも来てしまおう。
---
辺りに夜のとばりが降りる。当然街頭などない裏路地だから、青黒い空とともに真っ黒な闇に包まれる。
ぽつぽつぽつと排水管の水滴の音が闇の中で重なるものだから幻想的にすら見える、というのは流石に冗談だけど。
客はこれ以上来ないみたいだ。本当に珍しい日だと思う。来客一人なんて、いつもだったら主に心配される。
──怒涛の一日だった。
出会い頭にナイフを刺された事も吹っ飛ぶ位の勢いがあった。
私は狸にでも化かされたのだろうか。
ずっと不安だった。
毎日消費に絶え間は無いけれど、結局は同じ場所同じところで同じ事をする日々。
私は、ティミドに嘘をついた。
「──娼婦以外の仕事なんて、これが初めてだったんだ」
言い表せない感情が胸の中に沸いた時、胸に腕を当てるのはいつしか癖になっていた。
私は、痛覚を感じない。全身に焼きを入れられた時に時に捨てたらしい。
そんなのもあって、まぁ、普通に考えたら拷問みたいな日々を送っていた。お金には困らなかったけど。
私がティミドにあんな風に声をかけたのは、ただの偶然だった。
夢のように運がいい。それ以外の言葉が見当たらなくて救われる。
でもきっと、いつだって夢にしてしまえるのだと思う。
私はまだティミド──彼を、信用しきれていないのだと思う。
彼の言葉は、本当に嬉しくて──嬉しくて──どうしようもなかった。
嘘だ、という感慨しか今浮かばない。
私は何をされるのだろうか。
だって、私には奴隷としての価値もさほど無く、処理用具としての生を送ってきた。
動物程に強くも無い。ただ義肢を集めても、きっと私はこのままで。
……それに、視界は白黒だと言っていたけれど、それも本当か分からない。
わからない。わからない。ティミドという男性が、私にはなにも。
だから、知りたい。ティミドを知れるのなら何だっていいんだ。
「……好きになるのが怖いな」
少し感傷的に、年並みの感慨に浸りすぎたのかもしれない。それでも空を見上げてまだ想ってしまう。
頭上の星が白赤黄色、様々な色に輝いている。
彼に夜空はどう見えるのかな。
私には、唯一日々の幸せを彩る夜空。大通りや幸せな街並みのほうが見えない、私だけに輝く夜空の星々。
彼にとっての夜空とは、一体何なのだろうか──
「おいガキ、稼ぎは幾つだ」
馴染みの禿面が夜星に照らされてやってきた。
まるで月の扉の写し鏡みたいな、つるっつるの頭。私の主だ。
余計な装飾を抜きにしたそっけない質問──を装った、暖かさに満ちた声音。
それはまぁ、嫌いじゃなかった。
きっと今日の事を伝えたらとても驚かれるのだろう。胸にしまった手紙に触れる。
「一つだけだよ」
「一つ!?お前らしくねぇな、しっかりしろよ」
「そんな日もあるよ」
「まぁお前の義体購入が遅くなるだけだからな!問題ねぇよがはは!!」
「騒がしい」
「あいあい」
軽い調子で今日の成果の低さも受け入れ、隣に座る。
実は、お互いに名前も知らない関係だ。知っても良いことなんて無いだろうとお互い不干渉を決めている。
いや、正確には多分、私の名前は知っているんだろうけど、禿爺は呼ぼうとしない。
深く関わり合っても良いことが無いから。
彼の奴隷商としての振る舞いは、仲間に笑われるらしい。私はそんな禿爺を嫌いにはなれなかった。
「食え」
「……あ、そうだったね、忘れてた。ありがとう」
「何だ……考え事か、ガキらしくもない」
「ガキらしいよ、今回はね」
「へぇ、まぁどうでも良いがな。便所はどうする」
「まだいいや。水頂戴」
「へいへい、お嬢様」
禿爺は低い声を寒さに震わせながら私の応対をすんなりとこなしていく。
慣れた手つきで、手早く済ませていく。
棒状のレーション、ストローを刺した容器、また胸元を照らすために無言で差し出した光石。
今は寄ってきた虫を片っ端から指で潰して遊んでいるのが減点対象だけれど。
何をとっても完璧だけれど、ここまで色々な事をスムーズにできるようになるまで時間がかかったのも事実だった。
それに、何度も禿爺を困らせた。その度に少しばつの悪そうな笑みを浮かべて「次はそうする」なんて言うのだ。
多分。介護者としてこれ以上は無かったんじゃないかな。
そんな禿爺から離れてでも、旅をする必要はあるのだろうか。
でもティミドは、こんな私でも傍にいてくれると言って。
「……禿爺」
「その呼び方やめねぇか」
「私の胸に手を入れて」
「はぁ!?ああ……ったく、紛らわしい言い方やめろ。
あいよ、手紙か?報告義務はないぞ」
「あるよ、これは」
「そうか、じゃ読むぞ」
「私にも読ませてね」
「あ?内容知らないのか?なのに俺に見せる?変わってるな」
「色々あったんだ」
「へぇ」
流れるような短い応対。それが彼の会話の形式だった。
……全てを過去形で考えてしまっている私は、一体。
とにかく、手紙の内容を聴くことにする。
まずそれから始まると思っている。
「どれどれ……はぁ……はぁ?……うわぁ!!んだこれ!?厄ネタっつか……何だこれ!?」
「読んでも良い?」
「え、えぇ……良いのかこれ、いや何だこれ」
「許可は取ったよ」
「……覚悟しとけよ」
「わかった」
光石の元に差し出された手紙。私は恐る恐る目を向ける。
ティミドの持っていた、お金に直結するという、そして隠したいという一枚。
これを読めば、私もティミドの事情を少しでも聴けるのだろうか。
そんな淡い期待を持って、目を通した──
『……
今回発生した誘拐事件においては、発生自体が非常に悔やまれる我が種族全体の落ち度でございます。
またティミド様に置かれましては色覚障害との診断を受け、心を病んでいる事でしょう。御悼み申し上げます。
我々人類王種が貴家庭に対してできる事は微々たる物であり、また心身的な援助ができないのをお許しください。
せめてもの保障として、この度貴家庭に置かれましては一人ずつにこの手紙と、権利証を差し上げます。
付属の権利証を各役場に差し出せば無期限で月額金貨百枚の融資をお送りいたします他、土地の利用などあらゆる待遇が無料になります(王都を除く)
再発行は出来かねますのでご了承ください。
代わり、今後この事件の事を悪戯に世間に晒すのを控えるようにご協力お願いします。
そのような伝聞が見られた場合、生命の保障はしかねません。
また、この手紙を紛失なされた場合、即座に付属の連絡晶石で御連絡頂ければ位置情報を送信致します。
王都グレイディア 人類族王種 第一軍部隊 アスピラ=シオン=デセスペラ 』
──だが、その期待は、予想以上の重量で、圧し折られてしまった。
誘拐事件、金貨百枚、土地の援助、事件の隠蔽、生命の保障……?
加えて最後の言葉。
王種第一部隊。シオン=デセスペラ家。御伽噺の存在だと思っていた。
王の血を引く家計、簡潔に言えば世界最強に食い込める程の少数精鋭殲滅部隊。
おかしな事に、私が知ったのは絵本だ。それも、全人類の歴史、ごくごく基本的な一番最初の教育教材レベルの順番、当然の常識だった。
脳が混乱する。なんだ、これは。
「で、だ。お前どうしたんだこれ」
「ちょっと待って、私もいっぱいいっぱいだ」
禿爺が頭に手を当てて、眉間に皺を寄せながら渋そうに言う。
「まぁ、要約すると。
ティミドって奴が誘拐されて、それがどうやらマズい事件だったらしい。
色覚障害とやらの侘びは気持ち程度だろう。とにかく、隠蔽する代わりに金と権利を差し出すって事だ。
無闇に言いふらせば御伽噺みてーなのが飛んできて、わざわざその息の根を止める、と。」
「そうだね、多分そうだと思う」
「そもそもな、権利証だけ渡せば良いだろうに、わざわざこの手紙まで渡した意味は何だと思うガキンチョ」
「さ、さぁ」
禿爺は混乱もそこそこに自分の考えをまとめ上げ会話に移ろうとしている。
私は未だ混乱覚めやらぬ中だったのだが、とりあえず話す事にする。
なんとなく、私のなかでティミドが読んでいいと言った理由が固まりつつある。
「とりあえず、経緯を話してくれ。何がどうなってこれがこっちに渡ってきたのか俺にはさっぱりわからない」
「経緯……分かった」
初見の通りすがりである彼を騙して対話という事から始めてみた事。
彼は色が見えない状態だと言っていたから、私の出来る限り、励ましたこと。
「諦めちゃダメだ」と「格好悪いのが格好いい」と、偉そうな言葉も話した。
そして、私の夢を語った後、私の本心を打ち明けた事。
まぁそれは、目の前の禿爺に初めて本心を打ち明ける事にもなった訳なんだけれども。
「私は、こう、ね。いつもこの仕事してて、一期一会を繰り返して
寂しかったんだ、怖かった。愛されたかった。
ずっと一人だった、耐えられなかった」
「ああ、そうだよな」
「うん、そうなんだ。義肢、手に入れても私はきっと……今までと違った私になる事なんてできない。
こういう事繰り返して、普通の少女にもなれず、ずっと暗い所で生きるだけだと思ったんだ
泣いてしまった。お客さんの前なのにね」
「……ああ」
「禿爺?」
「続けろ」
「うん」
禿爺が俯き、ちょうど光石の灯りが当たらない所に顔を沈める。
禿爺が、私の肩に手を回す。少し驚いた。
それは恋人や客とは違った温もりや質感を持っていて、私が今まで感じていた、けれど他に感じたことが無い物だった。
嫌らしさでも優しさでも無い、安心できるような大きな腕だった。
私はそれをあまり深く考え過ぎない様に、話を続ける。
「……彼は、私の本心を聴いて『俺が傍に居て良いか』って言ってくれた。
それがまだ、何でだかわからない。短い時間で、そんな事を」
「お前は……馬鹿だなぁ」
「なんで?」
「……感情の育て方は時間より密度なんだよ、きっとお前の言葉がその男に響いたんだろうよ」
「いや別に大した事言ってないよ」
「うーむ、このままじゃ押し問答になるな。まぁとにかく経緯を続けろ。大体読めたけど」
「遮ったのは禿爺の癖に」
「良いから」
禿爺が俯いたまま、毛の生えた大きな手で私の頭に手を置き、ゆっくり、でも強引で乱暴に動かす。
ヘタクソだと思った。自然と涙が溢れてきた。
今日は良く泣いてしまう。自分が泣き虫だと思った事なんて無いのに、初めての事だった。
──ふと、私の涙はどれも温もりに触れた時に流れているんだと気づいた。
私たちは不干渉だから。そんな事おくびにも出さないけれど。
涙だって、俯いた禿爺には見えてないのだから。
「……それで。お金の話持ちかけたらこれを渡された。
彼が私には読んで欲しくないって言ってたけれど、強引に許可をねだった。
それで、なんか内容が凄かったなって。
明日彼はここに来るって話です。多分」
「あーそうか」
「……禿爺?」
「旅立つ前最後の時って事か、今は」
「いや禿爺が拒否すれば幾らでも続けられるし」
「お前は馬鹿だな」
その声は、暖かくて。
頭の上のおっきな手は、二回ぽんぽんと跳ねると、手紙を丁寧にしまっていった。
それから、俯いていた顔をおもむろに上げた。その表情は今まで見たことが無い、柔和な笑顔だった。
私は、禿爺に──
「最後の話になるかもなぁ。
さて、権利証を渡した理由は分かった。
手紙を添えた理由もそれと同じだな。まぁ、その話も後にするけどな。
ただお前に読まれなくない、けど読んでいいぞって言った理由は分かるか?」
「……私は、私を肯定した発言をするのが怖いんだけど」
「笑わねぇよ」
私は彼の好きに値する人間だったとして。
だとしたら、答えはでてくる。ただそれを信じられないだけだった。
私は、空っぽだったから。
「彼は、私を知りたかったんだね。
そして、彼は同じように、私が彼を知りたがっている事に気付いた。
お互いに知り合いたかった、それに気付いたんじゃないかな。
だから、自分の弱い所で、見せるのは嫌だけど見ても良いっていう風に言ってくれた
って思ったんだけど……」
「まぁ大まかにいうとそうだな。壮っ大なクソノロケだ」
本当にうんざりした表情ではなく、眩しい物を見る様に笑顔を浮かべる。
今日の禿爺は、いつもより多弁すぎて、優しすぎて、それが、私には辛い。
これが最後なのだという気になってしまう。
「あとな。そもそも、金策だったらこの月額の金貨百枚渡せば良いと思わねぇか?
それをしなかった理由を答えられるか」
そんな私の心中を察する事も無く、禿爺は言葉を続けていく。
もう私は、限界だった。
──これ以上、大切にされたらおかしくなってしまう。
「もうわからない!
彼は私の価値を見誤りすぎなんだ!私は空っぽじゃないか。
捨てられて、拾われて、物にされて。今までの人生に意味なんて無い!
何も知らないで生きてきた、言葉を覚えたのも、喋れるようになったのもつい最近だ!
私は、何もない、何もないのに……」
「よし。ガキ、歯ぁ食いしばれ」
そして、脳天から下に向けて、視界が揺れた。
禿爺から殴られたのは、初めてだった。気付けば胸倉を掴まれていた。
「……黙ったな?じゃあ俺の意見を聞け。
今までなんで育ててきたと思っているんだ?あのクズ男が死んで、ボロ肉でしかなかったお前を。
『カルマ』を、今まで、なんで育ててきたと思ってる?
俺はな、お前を見て憐れだと思ったからだよ。
文字通り何もないんだからな。
正直あのクズの子じゃなかったら捨ててるね。自我が危ういなんて商品にならねぇ。
憐れに憐れが重なって、いっそ救ってやろうって思ったんだよ」
「でもな、そっから文字を与えて本を読ませて話をして。
お前に『今やってる商売は最悪だ』って教えたのも俺だな。
それから『義肢で外に行け』って言ったのも俺だな。
俺は奴隷商だが変人でな。『人間の奴隷』にしか興味無いんだよ。意味わからねぇか?
道具は要らねぇ、俺が扱うのは人間なんだよ。奴隷としてしか生きられなかった道具を人間にする事なんだよ。
ちゃんと自我を持った、このクソみたいな裏路地からいつでも飛び立てる人間を売りてぇんだよ」
「んでな、お前の話聴いて感動したよ、『世界』が『夢』になったか、ってさ
寂しさは薄れるさ。今のお前の頭で旅に出てみろよ、すぐどうにでもなるってな
お前は手こずったからな──やっと、人間になったかってよ。
心から、安堵したんだ」
「でもな──今、後悔した!
やっとお前はお前になったんだ。
誰も、お前を憐れとは思わねぇんだよ!なのに!
お前がお前を憐れだと思ってたら救い様が無ぇだろ!
彼に何を言った!?諦めちゃダメなんだろ!?
格好悪いのが格好いいんじゃねぇのか!?自分を俯瞰して見ろよ!」
「自己否定してる今のお前が一ッ番ッ!格好悪いんだよ!!」
「私は、私は」
「お前はただのクソガキの『カルマ』だよ、空っぽなんかじゃねぇ、二度と忘れんなよ」
「はい」
胸倉からゆっくりと手が離され、壁にもたれかかる。
頭に手が乗せられる。先ほどとは違う、上手で、優しくて、ゆっくりとした掌。
「これが最後だ」と悟った。
「……考えろ。休むな。捨てるな。諦めるな。
で、明日以降。二度と此処に戻って来るな。壁に寄っかかった姿見せたら殺すからな。
アレを渡された理由は最後まで考えろ。気付いたら程々にしょうもない事だ」
「お父さん」
「お前は、馬鹿だなぁ。
……我が娘よ、二度とその達磨姿見せんなよ」
「ありがとう」
最後に、私の目の前に体を寄せて、にぃっと笑った。
禿爺は去っていった。
私はここに居る。一人の人間として、色付いた瞬間だと、何となく思った。
---
「……ルマ」
体が揺らされている。
何か乱暴だ。いつもと違う揺れ方で。
それは、きっと禿爺ではない揺らし方で──
「カルマ、おはようだ」
「てぃみど……」
寝ぼけ眼を瞬かせる。目の前にティミドが居て、思わずのけぞってしまった。後頭部を壁にぶつける。
あの別れから、幾分も経っていない気がした。寝ていたみたい。
「カルマ……目の部分が……泣いてる?腫れてるのか?」
「え」
ティミドが細い目を凝らせて顔を傾げて観察する。
少し恥ずかしくなったので腕を振って距離をとって横を向いた。白い髪が鼻にかかる。
驚いたような、心配する様なティミドの声音が続いていく。
「どうした、まさか商人に嫌がらせをされたか」
「いやそんなことは無いよ、大丈夫です」
「そうか」
明らかに深く知りたそうな顔をしたティミドが、横を向き頬を掻く。
というか。
「……まだ夜、明けてないじゃないですか?」
辺りは紺色の、光に満たない空。星が見えつつうっすらと光が弱くなるようなそんな頃合い。
そもそもティミドはこんな時間に外に出て目が見えているのか。
と思ったけれど、その手には伸縮式のステッキが握られていた。
「あー……気が逸った。しょうがないだろう。
とにかく、用意するものはこんな感じで良いか?」
ばつが悪そうに横を向き、頭を掻くティミド。
私は呆れるような、少しうれしいようなため息一つ吐く。
照れ隠しか何か、ティミドは無駄と思える位大きな大きな革袋から物を取り出そうとする。昨日は無かったものだ。
なにやら自分の袋の整理が下手であたふたしているティミドをよそに、光石を叩いて光らせ顔を動かし辺りを伺う──と。
よく見慣れた、禿爺が使っていた薄汚れた袋が目に入った。
「ティミド、そこの袋の中見てみてください」
「分かった」
そうしてその袋の中身を取り出していく。
すると、スティックのレーションが何本か、そしていつも使ってる飲み物容器、簡易的なトイレ。
また底に金貨45枚程があった。義足二本分とちょっと。
禿爺の最後の置き土産を、寝ている間に渡されたのだろう。
まぁ、微妙に締まらない最後なのも、らしいといえばらしい。
「これは、奴隷商──」
「私の、お父さん」
「……そうか。じゃあ、有難く使わせてもらおう」
ティミドはそれをそのまま懐のベルトに下げる。
その後、大きな袋を広げる。何のつもりだろう。
ゆっくりこっちに近づいて、私の前にしゃがみ込み、手を脇の下に入れる。まさか。
「……入れてもいいか、カルマ」
「!?私その袋の中に入るの!?ティミドに背負われるって事!?」
「……それ以外何も思いつかなかった、義肢買うまで待ってくれないか……?」
「え、ええ……」
荷物扱いじゃない!?という文句を飲み込む。
実際これ以外にお金のあまりかからない代案が浮かばない。複雑な気分。
「わ、わかりました、良いけど……良いけど……」
渋々、入れられて、背負われる。
皮がひんやりと肌を包む。でもきっと多分ティミドと私の熱ですぐに丁度良くなるのだと思う。
ティミドの首筋がすぐ目の前にあって、体ごとずらせば前が見えると言った風だ。
バランスを取るのに少しコツが要りそうだけれど、それも義肢を買うまでの辛抱だと大人しく受け入れる。
足が宙に浮く感覚はどうやっても慣れない。
そして、ティミドが立ち上がる。
景色ががらりと、音を立てて変わった。
風が空を切る音。冷え切った中に少し温もりの気配を感じる夜明け前の、特別な空気。
また、窓や屋根が近く、今まで大きなものに見えていたどれもが変わっていく。
これが、世界を歩く時に見える風景。
「……普段、ティミドや普通の人はこんなに高い目線で生きているんですね」
「そうだ」
「私は、旅に出れる事が嬉しいよ、ティミド」
「それは良かった」
ティミドが少し安心したように息を吐く。
そういえば、ティミドに言っておきたい事や聴きたい事があった。
「ティミドは、何で私が良いと思ったの?」
「綺麗だと思ったからだ」
間髪入れずに即答された。綺麗だから、綺麗だから……?
思わず、腕でティミドの頭をぺしぺしと叩く。
流石にそれは無い、と思う。
「寝言は寝て言ってくださいね!」
「いや、声が。それは本当だ。それに」
ティミドの横に顔を出している私に、頑張って目線を合わせる。
そして、初めて見る、ティミドの、ティミドらしい笑顔というのを見る。
普段の少し硬い印象の顔がほころぶ、優しい笑顔。
私の心を安心させながら騒がせる、私にとって複雑な笑顔を浮かべながらティミドは、
「カルマの言葉で一瞬、色に触れたんだ」
なんて言う。
色に触れたって?と小さく呟くとティミドは柔らかい声音で言葉を続けた。
「景色が色付いて、近づいて、鮮やかになって、俺がここに居るって確かに分かった。
全部が自分の物みたいに近くなったんだ。手を伸ばせば届くような。
そういうのを触れるという表現に感じた。だから、色に触る」
「ああ──」
昨日のティミドの告白の言葉や、優しい抱擁。
禿爺の力強い言葉や、最後の、屈託ない闊達な笑顔。
「色に触るって、なんだか分かる気がするよ」
思わずはにかんだ。
自分でもびっくりするくらい、優しい声が出た。
自分が自分と肯定される瞬間、色が彩られる瞬間。
良かった、と小さく呟いたティミドが、ゆっくりと足を進めていく。
私もそれに合わせてバランスを取ったり身を任せたりしながら歩みに合わせる。
人気のない早朝の大通りに差し掛かり、ふと、空を見上げると。
東雲色と紫色、また黄色や赤と様々な色合いの曉が登っていた。
ティミドにそれを伝える。彼も見えないであろう目でその空の方へ向く。
「綺麗だよね、ティミド」
私は、そう信じて、ティミドに問いかける。
すると、ティミドは少し口端を上げて、ああ、と呟き一言。
「また色に触れたよ」
と、心から幸せそうな笑顔で言った。