67.曰く、影の人と黒の人。
「大事なお姫様が脱走してるけど、いいのか」
それは、唐突にかけられた声。
影から湧き出たかのように現れた青年が、カウンターで本を読んでいたジークの背後に、音もなく立っていた。
「ええ、夜遊びなんてできるようになったんですねぇ」
「……追う?」
「大丈夫ですよ。ちゃんと強いですから」
少なくとも、そこら辺の不良より強いと思いますよ、と、突然現れた黒衣の青年に驚くことなく、ジークは穏やかに微笑んだ。
分厚い紙の束の中には、小さな栞が挟まれて。パタン、と本が閉じられる。
椅子ごとくるりと振り返って、ジークは青年と対面した。
「……あまり勝手に出歩かれても困る」
灰がかった青髪は、鬣を思わせるウルフカット。長い襟足が、くるくると跳ねている。
白い面にぽつぽつと散らばる黒子が、彼を色っぽくみせていた。
ピッタリとした黒のボディースーツは、青年の細くもしっかりと筋肉が付いた身体を、損なうことなく見せている。
「遊びたいお年頃なんですから、夜遊びぐらいさせてあげればいいんです」
緑色の垂れ目がちな瞳が、困惑したように目の前の人を見つめた。
そんなに過保護に見えていたのだろうか、とジークは苦笑する。虫も殺せぬ深窓の令嬢ではあるまいし、あの子はちゃんと戦えるというのに。
「……最近はそんなに治安が悪いんですか?」
「前よりも」
溜め息が、静かなカウンターに響く。
諦めと呆れを含んだそれは、ゆっくりと長く空気を震わせた。
「やはり…… "何か" は起こっているんですね」
「さぁ」
「長く続いた国はコレだから面倒ですね」
「過去も今もどうでもいい。……次が一番であればそれで」
ふい、と青年は顔を逸らす。
椅子を進めれば無言で首を横に振られてしまった。
フラれちゃいましたね、と微笑って、ジークはまたカウンターへと身体を向ける。
最近、この国を含め周辺国家が──それは即ち世界全体がと言うに等しいのだが──随分きな臭くなってきているという話は耳にしていた。
ジークたちが拠点としているこの国──アウルム王国は、今でこそ大陸一番の大国だが、先代……つまり前王までは弱小国家であった。
今あるこの国を作り上げたのは、覇王と呼ばれた現王──レオンハルトである。
腐敗した貴族は粛清され、周辺小国は数多の手練手管で取り込まれ、惰性の民衆たちはこれを歓迎した。
覇王たる彼の、圧倒的カリスマで作り上げられた国家は強いが、若さ故に未だ歪だ。
その歪さは、周囲との軋轢を生む。
……当然だ。それまで箸にも棒にもかかることのなかった国が、突然力を付けたのだ。
隣国、周辺諸国は、いつ取り込まれるかと恐ろしかろう。
列強も、ただでさえ激戦の覇権争いに、突如として新参が殴り込んできたのだから危機感を覚えているだろう。
世界のパワーバランスは、この一国によって徐々に狂い始めた。
覇王レオンハルトは良き王だ。
民草を第一に、臣下からの信頼も厚く、政治も外交も上手い。
だが、どんなに王が良かろうと、政治が良かろうと、必ずしも世界のバランスにとって良いとは言えぬのが難しい。
なぁなぁでバランスを保っていた、平和ボケした国々は、レオンハルトによって見事に引っ掻き回された。
外が騒げば内も無事ではいられまい。
治安が徐々に乱れるのも、きな臭いだの何だのと噂されるのも、ある種仕方のないことではあるのだけれど。
……ソレと、ソレにジークたちが関わるということは、また別のお話だ。
「あんまり、巻き込まれたくはないのですけれど……」
「冗談は寝てから言え」
「至極素直に本心ですよ」
「知らないな」
背中越しに交わされる会話は、若干の棘を含みながらも軽い。
青年の希薄な気配は、影に飲まれて更に薄れる。
用がないとわかった以上、余計なことをせず、影に徹しようという事なのだろう。
また一人に戻った空間で、ジークの手は再び本の元へと向かう。
地頭の良いあの子のことだ、きっと何か、面白くも面倒臭い問題を引っ提げて帰ってくるに違いない。
「……退屈は、しませんね」
開かれた本で文字が踊る。
白い花の栞は、ジークの手に弄ばれて、再び己の役目が来るのを静かに待っていた。
レオンハルトって覇王の威厳を持った名前ですよね!!!(????)
気がついたら国家の話してて笑いました(作者とは)
ここまで読んでいただきありがとうございました。





