49.曰く、幽霊屋敷の遭遇。
話が通じないのではない、聞かない──聞く必要がないだけなのだと、肌で感じた。
背後に立つと私を抱え込むようにして、首に何か冷たい、ナイフのようなものを当てた人。
その気配は氷のように冷やかに無機質で、きっと人ひとりの命など物の数にも入れていない。
湿った水音が規則的に部屋を穢す。
そうやって未だ目の前で繰り広げられる惨劇は、映画のワンシーンのように現実味がない。
薄く開けていたドアは大きく開かれ、部屋の惨状が顕になっていた。
「アンジュ、もうおしまいよ」
先程とは違う、柔らかい声が誰かを──それは多分、目の前の人影なのだけれど──を呼ぶ。
その細く白い背に刻んだ天使の羽を羽ばたかせるように、上裸の小さな身体がもう一度上下した。
「──アンジュ」
少女とも、少年ともつかないその人は、その声にようやく振り向いた。
ぱちりと瞬いた瞳は、炎に照らされた、それは夕日差す海の色。
大きさも配置も計算された人形のような、作り物めいて完成された美。
きっと神様が特別に手をかけて作り上げたに違いない、あまりにも脆く儚い美しさをシキミは見た。
初めてではない、一度見たことがある彼は────あの時の天使君だ。
アイスをぶつけて、パフェを突いていた、幼い子供のようだった彼。
その彼が雪のような肌に鮮血を飛び散らせて、出会ったときと同じように、花が咲かんばかりに微笑っていた。
「──んぐ、うぅ…………!」
「なにしてるの? りん」
「鼠が入り込んでたのよ。油断したわ」
その言葉に天使君が不思議そうに首を傾げる。
硝子玉のような瞳に、怯えた私の影が小さく映り込んでいた。
「……? あ、お姉さん?」
「ンン……!」
「やっぱり! お姉さんまた会ったね……!」
銀色のナイフを放り出し、真っ赤な返り血を滴らせながら近づいてくる彼の無邪気さは、さっきまで繰り広げられていた惨劇などまるで無かったかのように錯覚させる。
「アンジュ、知り合いなの?」
「りん、あのお姉さんだよ、 "鳩ノ巣" の」
だから離してあげてよ、と言う少年のお願いを、聞こうかどうか迷っているのだろう。シキミを抑える腕の力が、少し弱まった。
「……でも、アンジュ………」
「やだ。ね、お願い、りん」
私を挟んで行われる、静かな視線の攻防は、どうやらりんさんの負けに終わったらしい。
小さな溜め息と共に、また少し力が緩んだ。
きっと「殺していいよ」と言われたならば、私を拘束する彼は躊躇なく、今すぐ私を死体に変えるだろう。
シキミは、今この場所で己の命を握る目の前の天使を、命乞いの必死さで以って凝っと見つめるしかない。
「アンジュ、珍しく我儘ね。そんなに気に入った?」
「いい子って、言ってくれたもの」
「……そう。それなら仕方ないわね……それに」
言葉と共にゆっくりと手が離され、支えを失ったシキミは部屋の中へと頽れた。
目の前に天使君の小さな黒い靴が、艶やかなエナメルに水滴を纏わせて眼前に広がる。
「──随分と怖い騎士を引き連れているのね、お姫様」
腰が抜けたらしく、無様に床を這いつくばりながら、振り向いたシキミはゆっくりと顔を上げた。
「其処に転がっているお姫様は返していただいても……?」
まるで執事のような、白いシャツに黒ベスト。
肩から掛けられたロングコートは、裏社会を思わせるのに上品だ。
すらりと長い脚に華を添える黒いピンヒールは、真っ赤な靴底が毒々しいまでの色気を放っている。
あの時遠目からちらと見ただけの、氷のような冷たい美しさを持ったその人の──背後。
二つの銀色と薄紫の光が、その命を刈り取ろうと牙を向けていた。
背後のことなど気にもかけていないかのように、ごく自然なふるまいの、女口調のよく似合う彼は、夜明け色の不思議な瞳でへたり込んだシキミを面白そうに見つめている。
なんとなく湿っぽいカーペット張りの床の上で、シキミは呆然と「人間の血の量かぁ」と呟き、状況を精査するのを放棄した。
みんな大好き「りんさん」です(お前が好きなだけだろ)
もうねーーーアンジュくんとのセットが大好きなんですよね。好き好きスコティッシュフォールド(何の話?)
年明け一週間は幽霊屋敷から出られなさそうなシキミちゃんに幸あれ。
ここまで読んでいただきありがとうございました。





