40.曰く、ついでに兎も消えた。
洞窟の外は明るく、闇に慣らされた瞳を光の筋が刺し貫く。
くらりと揺れた視界を振り払うように、もう一度地を蹴れば、身体は宙に放り出された。
重力から解放されたような一瞬。今度は視界がぐるりと回る。
着地地点は一本の枝。シキミの体重で緩やかに撓んだそこは、抜けるような風と相まって存外に気分が良い。
爽やかな空気は、先程までいた洞窟の湿っぽさと相まって余計に開放的だ。
洞窟の入り口を睥睨すれば、我ながら随分器用でアクロバティックなことができるようになったものだなぁ、とシキミは小さく苦笑した。
洞窟の端からは、こちらを窺ういくつもの視線がチクチクと肌を刺す。"見られている"という感覚は、存外わかりやすいものである。
敵とはだいたい建物の三階分、高さも距離も離れているが、それでも弓を引く音が僅かに聞こえる。
粗悪なものを使っているからか、私の耳が良くなってしまっただけか。
ぎりぎりと弦の軋む音が止まって、無音。吹き付けた風に乗せるように、びう、と空気を割く音がした。
──しかし、それがシキミの身体に届くことはない。
金属同士がかち合う、硬質な音。
煽るように背後から吹いた風に、シキミは己の絶対的優位を悟った。
「ドブネズミが…………テメェの存在ごと死んで詫びろ」
シキミの隣、細い枝の上に腕を組んで優雅に立つ美しい男。
アシンメトリーの翡翠色が、自身で巻き起こした風に巻かれて揺れている。
チッと忌々しそうに舌打ちし、歪められた顔は普段の"高貴そうな"彼から大きく逸脱していれば、目の当たりにしたシキミは度肝を抜かれた。
元からゲームで知っていたとはいえ、二次元と三次元ではワケが違うし話も違う。
「ヒ…………崇高の弩弓……様」
思わず様付けした。
魔力で形成した矢は、弓につがえられることなく。二撃、三撃と放たれる矢をいとも簡単に弾いてみせる。
それを間近で体験し、シキミは改めてそのチートっぷりに震えた。
「まさか御自らいらっしゃるとは…………!」
「……なんですかその敬い方は。マスターともあろう人が情けない」
「ははーっ!」
「……マスター」
「すみませんっ!」
怨嗟の篭ったゴブリンの視線より、一層苛烈な翡翠色に思わず平伏する。諸々あって育成されてしまった下っ端根性は、そうそう抜けるものではない。
小さく吐かれた溜息は、僅かな諦めを孕みながら落とされた。
「大体、何故ゴブリン如きに真正面からかち合ってるんですか? 馬鹿なんですか?」
「う、うさぎ追いかけてて…………」
「真正の馬鹿だね!」
軽い会話の最中にも、弾かれる金属音が凄まじい。
ちらと視線をそちらへ遣れば、面倒臭いので使ってくださいと弓が一張り差し出された。
手渡されるまま受け取った弓は、弩の名に恥じぬ大きさで、構えてみればシキミの背丈とそう変わらない。
弓道の弓、というよりはアーチェリーの弓に近いそれは、持ち手の上下から始まる装飾が美しく華やかだ。
淡い翠の交じる象牙のような弓身の、いっそ美術品のような優雅さは、その弓の持つ凶悪なまでの暴力性を覆い隠し、完成させていた。
「遠距離戦なら安全でしょう? ──つがえて、マスター」
構えの指導をするように背後から添えられた手に、大人しく身を委ねる。
矢を持たぬ構えはままごとのようだが、つがえる仕草をした右手に、やがて光り輝く矢が三本形成された。
右手から力が抜けてゆく、妙な感覚。
──魔力が勝手に練られている。
魔力がどうとか、基本がどうとか、そんなことは一切わからなかったのに、今ならそれがどういうことなのか明瞭とわかる。
練られ、形づくられているとしか表現のしようのないその妙な感覚。
身体の外で、自分のものではない腕で矢をつがえ、弓を引き絞るようなその感覚は何とも言葉にし難い。
弓につがえた三本の矢が風を帯び、淡い翡翠色を纏って震える。
一度放てば必中の矢。
「ゴブリン如きに俺を使うのは業腹ですが、まぁいいでしょう」
──殺して、マスター。
囁くように耳元に落とされた言葉を合図に、魔法の矢は空気を切り裂き、引き裂いて標的へと牙を剥いた。
意思を持ったかのように弧を描き、洞窟の中へと吸い込まれていった矢を見送りながら、その物理法則を無視した軌道にシキミは恐れ慄く。
明らかに過剰防衛のような気がする。一本で良かったのではないか、と思うが後の祭りだ。
一瞬の静寂が周囲を包む。
木々の葉擦れの音すら待ち構えるように消え、時間はその息を止めた。
次の瞬間、地を揺らす轟音と共に洞窟が崩落し、入り口は跡形もなく消滅した。──というよりも、垂直だった崖ごと消し飛んでいた。
地形すら粉砕したその威力と消費魔力に、シキミは意識を飛ばしそうになるのを必死で堪える。枝の上で気絶は洒落にならない。
「誰がここまでやれと言った……ッッッ!!!」
「頑張って抑えましたが」
「もっと本気出して抑えて?」
「雑魚の分際で偉そうですねぇ、マスター」
「ゴメンナサイ」
手にした弓は、しゅるしゅると空気が抜けるような音と共に、簡素なものへと姿を変えた。
持ちやすく、携えやすくなったそれは、しかし相変わらず翠がかった象牙色の美しいままだ。
「遠距離戦なら負けっこないな………」と呟けば「近距離戦だって負けませんよ」とどこか不満顔のヒスイに、あ、張り合うの其処なんだ、とシキミは小さく呟いた。
盛大な轟音の後、静寂を取り戻した林の中をシキミは歩いてゆく。
傍らに付き従うヒスイの気配を感じながら、平和な鳥の囀りに耳を澄ませる。
「スメラギから聞きました。──契約のことが知りたいなら、魔王について探ればよろしい。俺から言えるのも、ここまでが限界だよ」
「また突然そういうこと言う。…………何故、は聞けないってことなのね」
「その通り」
もうひとつ、と形のいい唇に寄せられた人差し指に、視線は自然と吸い寄せられる。
「どちらにせよ、マスターは魔王に関わることになる。それは、運命だ」
だからわざわざ聞き耳立てて身構えなくてもいいんですよ、と翡翠色の高貴な彼は朗らかに笑った。
高貴なお兄さんの口がめちゃくちゃ悪いの大好きなんですけど私だけか?私だけです。
作者からして予期せぬ発言でした。びっくりした。
ここまで読んでいただきありがとうございました。





