38.曰く、とりっくすたあ。
慣れぬ酒精が、シキミの視界をぐらりと揺らす。
溶けるように倒れ込んだベットに、昨日より深く沈みこむ。
煽られるがままに調子に乗って、グラスを四つほど空にしたのが悪かった。
シキミの頭は酩酊と、気ままな船旅を楽しんでいる。いや、楽しんでいるというか苦しんでいるのだが。
階下の喧騒が嘘のように静かな部屋の中で、あの不思議な少女の言葉が木霊する。
私のことを、否、私に関わる大凡全てのことを、きっと彼女は知っているし、握ってすらいるに違いない。
この世界において知る人間などいないはずの「カエデ」の名前を、彼女は知っていた。
刻は満ちた、などという警告は如何にも人外じみていて、その不穏さに拍車をかける。
「わからぬは仕方のないこと」と、彼女はそう言った。
それは私の差し出した「対価」であると。
──つまり、私がこうして半ば個人情報喪失の状態で、異世界にレベル1で放り出されていたのは対価が故ということか。
単語や名称は覚えているのに、楓を構成する大事なパーツが欠けているという自覚はある。家族の顔、友人の顔、好きだった事の一つも思い出せないのは、はっきり言って異常だ。
アルコールが思考の道筋を暈してゆく。霧がかったように明瞭しない思考は、結局一つの像も結ばずに霧散した。
魔力さえ溶けだすような感覚──。
「アホ面ァ」
「うるさ……………え??」
ベットの上下に付いている板──ヘッドボードのその上に、器用に座り込んだ一人の男。ふわふわとした、ゆるくウェーブのかかった短髪は燃えるように赤い。
まるで犬が待てをするように、両手両足を一点についた姿は野生の獣を思わせた。
堅牢の盾。神器である。
「なんで出た!?」
「もうさんざん勝手に出てきてンだろ〜?」
スメラギは、蒼玉石のような瞳を呻くシキミに投げかけ、ケラケラと笑う。
かるい仕草や身のこなしは「堅牢の盾」という名称の真反対をゆく。
赤髪の彼は一通り笑うと、ふと思い出したように首を傾げた。
「あ〜……アレ? 最初っから出てこなかったこと怒ってる? それともヒスイのことか? ま、そうは言うけどよぉマスタァ、スライム程度ならマスタァ自分で出来んだろ?」
ヒスイは俺様じゃあどうにも出来ねぇしィ、と言った彼は音も無く地面に降り立つと、そのまま勢い良く枕元に腰を下ろした。
すぐ耳元でぎしりとベットが悲鳴を上げて、シキミの頭は大きく揺れる。脳味噌を掻き回すような揺れに、もはや呻き声も上がらない。
「かァいそぉなマスタァに、俺様から制約ギリギリ、できるだけのプレゼント! ──マスタァの、この世界での目標は?」
「目標……」
「そ、生きることッてんなら心配いらない。俺様達がついていれば大抵のことはどうにかなるぜ?」
それはそうだろうな、とシキミは嘆息した。
神器はすべてレベル100。シキミのカンストレベルの200には劣るが、あのテオドールですら95。そう考えれば、それが何人もいる上に、魔力の続く限り無条件で協力してもらえる己とは、ある意味チートの絶対防御持ちではあるだろう。
「プレゼントそのニ、ヒントになるかはわかんねぇけど。──俺様達がマスタァを守護るのと、マスタァがこの世界にいること。それとこれとは全く別のオハナシなんだぜ」
「……わからないんだけど」
「アンタはどこまで行ってもアンタだから、俺様達は守護るってコト」
「うゔん……………わ、わかりません」
私が私だから、守護る。
それはなんだか、私という存在に向けられた無償の愛のようでこそばゆい。
脳裏に過るのは、ニシキの優しい子守唄と、ウィスタリアの慈愛を含んだ目。
ゲームにおける、持ち主と武器の領域を超えた何かの破片が胸を刺す。
それは決して恋ではない。もっと純な──言うなれば愛に近い何か。一個人という枠組みを超えた、もっと違う何かだ。
──魂そのものに向けられる、柔い光のような何か。
「ま、わかんないのは仕方ねぇ。俺様もここまで言うのが精一杯っちゃ精一杯! 契約だからな、変なことは言えないようになッてんの」
「契約については…………言えない、のかぁ」
「大正解〜! イイコじゃん? マスタァ」
結局何が言いたいのかといえば、俺様たちがついてるから心配せずに生きてね、といったところだろうか。
それはまぁ、先も生死もわからないより全然マシなわけだけれど。
「ヒスイのほうが俺様よりうまく説明できるだろうし、俺様からヒスイに言っといてやるよ」
「それはめちゃくちゃ助かるかもしれない……」
「チョー苦労してんじゃん。呼んだの一回だけなのにさァ」
ベットに広がるシキミの長い髪を弄ぶスメラギをそのままに、シキミは大きく溜息を吐いた。
兎にも角にも、私はこの八方塞がりの謎を──なぜ私がここにいるのかを──解明しなければならなさそうだ。
だって、わからないのが怖いから。
怖いものを回避する一番賢いやり方は、名前をつけて、形をつけて、見えるようにしてしまうことだ。
「まぁ、マスタァ。そう肩肘張らなくてもさ、望むと望まざるとに関わらず、オハナシは勝手に進んでゆくものだぜ?」
戦場の愉快犯。
常に撹乱を好む彼がニヤリと嗤えば、チェシャ猫のようだと微睡む世界にひっそりと思った。
現実世界でも全てが詳らかにされることのほうが少ないので!!!!!!はい!(勢いあとがき)
ここまで読んでいただきありがとうございました。





