37.曰く、断じてやけ酒ではない。
朦朧とした輪郭がゆっくり線引かれてゆくように、形を取り戻した景色の中で、シキミは呆然と立ち尽くしていた。
さっきまで靴下一枚。うっすらと冷えた空気を感じていた足の裏は、少し温いブーツに包まれてしっかりと地面を踏みしめている。
藺草と、あの不思議なお茶の青っぽい香りは鼻腔に留まり、手の中には瓶が一つ。つるりと滑らかな硝子の質感が、あの空間での出来事は夢ではないのだぞと訴えかけてきた。
透明な瓶の中では、煙のようなものが渦を巻いている。
春、あけぼのの霞のように、紫がかった色合いが美しくも恐ろしい。
何だか少し怖くなって、シキミはそれを、呼び出したインベントリに入れてしまった。
白く輝く半透明のプレート。そこに瓶を触れさせれば、水面が丸く波打つように画面が揺れ、手にしていた瓶はあっという間に画面へ消えた。
インベントリに入れたものには名前が付く。どういうシステムなのかは知らないが、既に「お使い」と表記された品物が「その他」のカテゴリに収まっている。
その、「お使い」の下。
──見覚えの無い「???」の表記。
「は……?? ヤバ」
すぐさまインベントリを消し、シキミは全てを見なかったことにした。精神衛生上大変よろしくないものは、見なかったことにするのが一番だ。
忘れてしまえば無いのと一緒。そういうことだ。
落ち着くように、すうと吸った空気は湿った土の影の匂いがする。
見上げれば細く長く切り取られた空、橙の交じる青は鳴りを潜め、もうすっかり夜だった。
夕飯までに帰ってきてねといった女将さんの言葉が、丁度良い事にひとまず全てを忘れさせた。
どれだけここで呆けていたのか知らないが、もう夕飯の時間だろう。慌てて踵を返し、シキミの足は鳩の巣へと帰ってゆく。
いっそ昼よりも明るい店々の連なりを抜け、柔い光の漏れる場所。
相棒の腹の虫がぐぅ、と小さく鳴いた。
「た、ただいま戻りました!」
「お帰り! 楽しかったかい?」
「あー……、はい。楽しかったです!」
些か素直に肯定することをためらったシキミに、しかし、女将さんはよかったねぇ、と顔を綻ばせる。
バーカウンターの上には既に、シキミの分の果実水が置かれていた。
バーカウンターの左の方に、ぽっかり寂しく空いた席。
宿泊客のためのスペース、いつもはジークが座る場所だ。
そこに座る黒い背中と仲間の姿は無いけれど。なんとも魅力的な夕御飯が、ホクホクと湯気を薫らせシキミを待っていた。
「揚げ茄子とベーコンのトマトパスタ、チーズフォンデュをかけて召し上がれ!」
「ものッッッッ凄くオシャレですね!!?」
美しい山形に盛られた艶々したパスタに、トマトの赤がよく似合う。細長いブロックのベーコンと、素揚げされてその紫を濃くした茄子が、貴婦人の美しい帽子のように乗っていた。仄かに香る大蒜の香りが香ばしい。
そして、その側には小さな手鍋に入った、クリーム色の蕩けたチーズ。
独特の、食欲をそそるなんとも言えない匂いが、シキミの空きっ腹をこれでもかと刺激する。おかげで、さっきから相棒は叫びっぱなしだ。
「シキミちゃんの元気が無いから、あの人に『女の子が好きそうなオシャレなやつ』って頼んだのさ」
コック帽の似合う恰幅の良いご主人が、カウンター奥の厨房でグッと親指を上げて、こちらにウインクを送ってきた。
元気だせよ、と、そういう事だろうか。この豪華な一皿は、寡黙なご主人の粋な計らいであるらしい。
「女将さん…………ご主人んんん………」
「元気になったかい?」
「元気百億倍です……!!!」
がやがやと少し騒がしい店内は、宿泊客以外の家族連れや冒険者達が料理に舌鼓を打っている。
やり取りを聞いていたらしい、少し年嵩の冒険者たちや、露店で見かけた店主などが、さも可笑しそうにニヤニヤと笑って「置いてかれちゃったのかァ」と声をかけてきた。揶揄って楽しむ魂胆が丸見えだ。
「なんだよォ、新人ちゃん留守番か?」
「酒飲めるなら一杯奢るぜ」
「なぁに、ジークに捨てられちゃった?」
やいのやいのと取り囲まれて、いっそ昨日より騒がしい夜。
「ええい! 苦いお酒は嫌です! 一番甘いお酒飲みます!」
「味覚お子様か?」
「子供だから大人しくお留守番なんですよ~だ」
「アッハッハ!! 違いねえや!」
どっと沸く励ましのような野次に、大して飲めもしない酒を一気に煽る。
甘さに隠された、くらりとするような強い酒の匂い。アルコールに煽られた熱が、寂しさも、訳のわからぬ不安も。
この一日を、一気に消し去ってゆくようだった。
私は体質的にほぼ確実に下戸で、甘かろうがうまかろうがアルコール飲めないんですけど。(突自語)
シキミちゃんは甘いものだったらガンガン飲んでほしいしむしろ結構飲んでほしい私の願望を詰め込みました。
パスタ美味しいよね、なんで描写に気合い入れたのかはうつらうつらしてた私に言ってください。
ここまで読んでいただきありがとうございました。





