36.曰く、五里霧中。
上がり框で靴を脱いで上がり、ひんやりとした板張りの感触を靴下の向こうで感じる。
薄暗い家屋の中は、シキミの記憶の中にある「日本家屋」というイメージをそのまま形にしたような、古民家のような古式ゆかしい内装であった。
板張りの廊下に障子と襖。欄間には龍や観音様らしきものが透かし彫りされていて、煤けながらも衰えぬ荘厳さに息を呑む。
龍はともかく、観音様はほぼ確実に元いた世界のモチーフであるだろうと予想がつくだけに、今更ながら安々と這入った事を後悔した。
異世界の中にあって異世界。
ここは元いた世界の諸々を懐かしく思い、顔を綻ばせ、喜ばしく思うべきところなのかもしれないが、明るくはないこの家の雰囲気と、少女の持つ不思議な異物感がそれをさせない。
ずり、ずり、と前を歩く不思議な少女の打ち掛けが床を擦る音が、やけに大きく聞こえる。
鮮やかな紅唐に染め上げられた生地の中で、金糸で象られた鳳凰が大きく羽を伸ばしていた。
振り返った彼女の緑の瞳が、不思議な光を宿して輝いているように見える。真っ赤な瞳孔が凝っとこちらを見つめて、静かに逸らされた。
「どうぞ、此方に」
開かれた障子の向こう、畳の敷かれた一室にシキミは通される。
部屋の中は、少し埃っぽい、使い込まれた藺草の匂いがして、少し落ち着く。
床の間にはや違い棚がきちんと配置されているのに、何故か中央に据えられた囲炉裏が、その部屋をアンバランスに崩していた。
「──此方へは、最近来られたので御座いますか?」
「う、え……はい。物凄く最近です」
「左様で御座いますか………道理で」
「──え?」
勧められるまま、囲炉裏の側に腰を下ろせば、火にかけられた鍋が煮立っているのが良く見える。
浮かんでは消える忙しない泡に煽られて、よくわからない植物の破片が、逃げ場を探して舞い上がっていた。
薬草か、ハーブなのか。充満する香りは嫌なものではない。
「いえ、やはり随分と…………面白い魔力の使い方をなさる御方と思っておりますれば。納得いたしまして御座います」
「変、でしょうか? ……というか使っている意識があまりないんですが」
「可笑しゅう御座いますねぇ。応用しかできておりませぬ」
くつくつと、さも面白いと笑う少女の、口元をたおやかに隠す仕草は演劇めいてわざとらしい。
きゅうと細められた眦を彩る紅が、どこか妖しく艶めいていた。
シキミはといえば、突然投げかけられた魔法の話に目を白黒させるしかない。
魔力の使い方も何も、元いた世界に魔法は無かったのだから、使えるものを本能のままに使っているだけだ。
「基本ができていない、と?」
「できておりませぬ。その魔力、どうやって練っているのお分かりでいらっしゃいまするか」
「わかんないですねぇ」
「駄目で御座いますねぇ」
はぐらかされ、揶揄われるような会話は、少女の掌で転がされているようで、あまり気持ち良くはない。
そんなことを思いながら、座布団の上では、自然と足は正座の形をとる。行儀よく、膝に両手を乗せて、背筋がすっと伸びてゆく感覚はどこか懐かしい。
ここではそうするのが正解のようにも思えれば、些か不思議な気持ちだ。
それをちらと見た少女の瞳が、また面白そうに煌めいた。
ぐるぐると鍋をかき回す手つきはまるで魔女のようである。
いや、魔女だとしても古今東西、囲炉裏にかけた鍋で薬を作る魔女など聞いたことがないのだが。
煙突などない部屋の中で、湧き上がる煙はいつの間にか、頭上で龍の姿をとっていた。
「お前さまの様な、変な御方は久しゅう御座いますれば。嫌いではございませぬ」
そう言って、きゃらきゃらと少女は笑う。
無邪気なあどけない声の囀りは、灰色を帯びた部屋の中で一層明るい。
「香の付いたお茶は、お好きに御座いましょう?」
「えっ……と、はい」
「──あい」
好きだと断定され、戸惑うように頷くシキミは、もうすっかりこの店の──少女の空気に呑まれていた。
柄杓で汲み上げられる薄く色づいた液体が、黒い茶碗の中に注がれてゆく。
どうぞと差し出された器の中を、爽やかな良い香りが満たしていた。
一口含めば、少し癖のある香りがゆっくりと鼻を抜けてゆき、少し渋い後味が口の中に蟠る。
ぐつぐつと煮立つ鍋の音と、火が爆ぜる小さく高い音以外聞こえない、生物の気配のない冷たい部屋は、薄い静寂に包まれた。
「異界にあって異質なお前さまには、魔法は難しき事と存じますれば、存分に神器をお使いになるがよろしゅう御座います」
「──は?」
突然の言葉に、落としそうになった茶碗を慌てて下に置く。
──異界にあって異質、それから神器。その言葉の意味を知るのは、知ることができるのは自分だけであるはずだ。
だというのに、何でもないことのように落とされた言葉達は、シキミを揺さぶるには十分すぎる威力を持っていた。
「ちょっ……と、待ってください。何でです? なぜ私のことを知ってるんですか?」
神器たちの言葉が、シキミの脳裏を駆け巡る。
漏らすくせに、知らぬでいろと言われることがどんなに苦しいか。どんなに恐ろしいか。
その、庇護にも似た目隠しが、異世界での手探りを一層恐ろしいものにしている。
──知らぬは、怖い。泥沼に足をとられるように、ただ沈むしかないような気がするから。
「皆そう! 貴女も、神器も、意味深なことばっかりじゃないですか!! 私はゲームしてるんじゃないんです!」
「存じ上げておりまする」
「……ッ一体……一体、皆は何を知ってるっていうんですか?」
「──お答えしかねますれば、御容赦を」
更に言い募ろうとしたシキミの言葉を遮るように、ですが、と少女の張りのある声が遮る。
「この店にいらっしゃいますは、御縁あっての御方のみ。──カエデ様。刻は満ちますれば、重々御注意召されませよ」
「ね、ねぇ、またそんな意味深な事言われても! ほんとに訳がわからないんです!! いきなりそんな──」
「わからぬは仕方の無い事。お前さまが差し出した対価に御座います。──故に私が口を出すは御法度」
そも、お前さまにお会いするのも、本来はせぬが道理。ですが──と少女は背を向ける。
床の間の隣、低いところにある小さな押し入れ──地袋から、何やら取り出した彼女は、また打ち掛けを引きずりながら戻ってきた。
「何かございましたらこれをお使いに。使いどころは自ずと知れますれば、ご心配召されずともよろしゅうございます」
膝が付きそうな程の距離、目と鼻の先に少しばかり幼い少女の顔が迫る。翠の虹彩の中で血の色に輝く瞳孔が、ひしとシキミを捉えていた。
「ここに来たは必然のこと。必然でなければ此処へは辿り着けませぬ故。──然らば此れも一つの運命」
握りこむ両手は氷のように冷たく、驚き振り払おうとすれば、更に強く握りこまれる。
手のひらの中に固く、滑らかな何かを握らされた感触がして、打ち掛けと同じ紅唐に彩られた指先が、ゆっくりと離れてゆく。
「──お前さまは愛されておりますね、でなくば神器も現れませぬ。…………さすれば、努々道を違えることのなきよう」
お前さまの道程に幸あれと、狭間からお祈り申し上げておりまする。
少女の声は、祝詞のように朗々と鼓膜を揺らす。小さく微笑んだ彼女は、ゆっくり頭を下げると「ご武運を」と言ってきた。
だからなんの解決にも、答えにもなっていない! と、そう言葉にしようとした途端、香の匂いは強くなり、掻き混ぜる様に世界が歪む。
ぐらり、と揺れた視界を惜しむように、シキミはゆっくりと目を閉じた。
難産でした!!(もっと他に言うことないんか)
ここまで読んでいただきありがとうございました。





