109.曰く、一難去って。
ベルゼブブとの遭遇から数日。
彼女が何者かに呼び出されてより先、どうやら石の拡散は止まっていたらしい。
衛兵たちの動きも元に戻れば、悪くなっていた治安も良くなってきてはいるようだ。
結局、ベルゼブブは戻って来ず。以前と同じ日常が戻りつつある。
あれから何度か呼び出され、陣を使って行き来をしたりはしていたが、特段事態が進展しているわけでもなく。
調査報告や結果報告が僅かばかりある程度で、成果はほぼ無いに等しかった。
「はぁ〜! あの貴族がそっと消滅していた以外、何事もなかったかのようですね……」
「国と世間なんてそういうものよ〜? 存外忘れっぽくて薄情なんだから」
あの貴族がいた屋敷には、今はもう別の誰かが入っているらしい。
ヴィクトル曰く、毒にも薬にもならん奴を宛てがった──のだそうだ。
歯車が変わろうと部品は部品。サイズも形も噛み合うならば、むしろ以前よりも環境は良くなったのだろう。……多分。
「──それで? 今回お呼ばれしたのは何故なんでしょうか。殿下」
いつも通り、円卓の定位置に腰を据えたヴィクトルは、頬杖をつきながらニコリと──無邪気に微笑んでみせる。
嫌な予感しかしないんだよなァ……と、ぼやくテオドールを無視して、四人の目の前に紙切れが差し出された。
「グランツ国の海でバカンスなんてどうかな?」
「いや……自明に面倒事じゃないですかぁ!?」
「何を言ってるんだ。功を労おうと言っているんだよ」
何かのチケットらしい、ルイはそれをひらひらと振ると「一級のリゾート地だよ!」と、それはそれは楽しそうな声を上げた。
お前が行くわけじゃないけど、というエティの静かな指摘に、彼はしょんもりと眉を下げる。
──もういっそルイさんが行けばいいと思うのだが、どうやらそういうことでもないらしい。
「青い海、白い砂浜……良い景色だろうなぁ? あそこの砂はいい触媒になると聞いたが」
「うっ」
ちらりと視線を寄越されて、エレノアが呻く。
勝ち誇ったようなヴィクトルは、更に言葉を続けた。
「あそこは海底迷宮が最近発見されたそうだが? さぞかし面白い魔物がいるんだろうな。……まぁ、行かないと言うなら関係はないか」
「ヴッ」
次いで視線はテオドールへと移り、挑発的な誘い文句は当たり前のように彼を唸らせる。
そのまま視線はシキミへと流され、彼は一言「美味いもの」と言って、その笑みは深められた。
良くわかっている。シキミが何に反応してしまうのか読まれている。
当たり前のように、シキミの口からはヒキガエルが潰されたような呻き声が搾り出された。──当然の帰結である。
「ははは、勿体無いな、せっかく行けるというのに。グランツ行きの船はそう多くはないし、人気だぞ?……なかなか、後から行くのは難しいと思うんだが……?」
「ふふ、そう言わずとも御命令なさればよろしいのに」
「お前たちに命令できる人間がいるかどうか怪しいものだな。──何より、臣下でも国民でもない人間に命令したところでなぁ……」
「そうですねぇ、協力関係だと仰ってましたから……」
だから頷いたのですし。
牽制し、探り合うような応酬が静かになされる横で、シキミ達の心が揺れていた。
面倒事であるという予測と、リゾート地の海という魅力が天秤にかけられ、さっきからずっと、忙しなく上下している。
「…………俺の仲間達は──行きたいみたいですね」
「砂のくせにあの国の砂はなかなか市場に出回らないのよ……」
「単純に新しい迷宮に行きてぇ……」
「海の幸は世界を救うと思うんですよね……」
めいめい、いいように誘導された仲間たちを見て、ジークのため息が一つ木霊する。
呆れたような視線には、若干の諦めも混じっていれば、ヴィクトルも勝利を確信しようというもの。
「まぁ……よりによって貴方がタダで渡すとも思えません。お使いの内容を聞きましょうか」
「さすがは先生。ついでと言っては何だけれど──俺の友人の護衛を頼みたいと思ってね」
「殿下のご友人ともなると、それはもう面倒事が二足歩行しているようにしか思えなくなってくるのが不思議ですね」
「ははは、不敬罪だぞ」
ヴィクトルがけらけらと心底楽しそうに笑って一息つけば、タイミングを見計らったかのように、銀の盆に乗った黒い封筒が一通。今度はリーンハルトによって、シキミ達の目の前に届けられた。
執事服のようなものを着て、ぴしりと決めた彼からは、あの裏社会的な雰囲気が微塵も感じられなくなっている。
話によれば、彼の本職は執事らしい。
そんな彼の側に、相変わらず雛鳥のようにくっついているアンジュが、その封筒をそっとシキミに渡してきた。
目が合うと、照れたように微笑まれてしまって、シキミは変にどぎまぎするしかない。
「その紋でほとんど全部フリーパスだ。中は誰に見られても構わない。身分証明として持っていけ」
「最終的には護衛対象に届けばいい……といったところですか」
「そうだな、あちらも身辺警護をする人間の身元は保証されていたほうがいいだろうから」
シキミの手からジークの手へ。
渡っていった黒い紙は、すでに渡されていたチケットと共に、ジークの空間収納へと消えた。
契約成立──である。
「あ~……えっと、王太子殿下? 一つお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「ああ、良いだろう。できる限り答えよう」
「護衛対象サマの、詳細は……? ほら、お名前とか……」
シキミのその質問に、ヴィクトルは今日一番のあくどい微笑みと、喜色に塗れた声でこう言った。
「グランツ国王太子、ルーカスだ。イイヤツだぞ」
更新が大幅に遅れております!
ちょうど新学期始まったばかりでバタバタしている最中なので、もうしばらくお待ちいただけると幸いです。
そして新章突入です〜やっとかよ!
ここまで読んでいただきありがとうございました。