106.曰く、伏し奉り、嵐を避けよ。
石を捩じ込まれた男の様子は、すぐさま変化を見せ始めた。
恐怖に濡れた瞳は、茶から赤へと変貌し──人から獣へとその様相を変えてゆく。
やがて彼は、エイデンのように……あるいは、迷宮で出会った冒険者たちのように。すっかり理性を溶かしきった、一匹の魔物になり果てた。
「敵は向こうだからね、ワンちゃん」
羽虫──蝿が、凄まじい勢いで魔化した男を襲う。
背後から迫る虫から逃げるように、その視軸は呆然としたシキミ達を捉えた。
襲わねば殺されるのだとばかりに、必死の形相で。獣のように牙を剥く男の姿に戦慄する。
未だ、人の形をしたものに刃を向けるのは躊躇われ。真っ直ぐに向けられた、人の殺意に、シキミは僅か硬直した。
ナイフを手にしたまま、どうしてもそれを振るえない。
目の前に迫り来た男の腕は、歪な形に変じていて。
初めて見たその変化に、彼は魔族として適合したのかもしれないという予感が、どこか思考の遠くの方で、ぼんやりと脳裏を掠める。
どす黒い肌色の、歪な鱗の覆う腕。
鋭い爪がシキミの目前まで迫れば、次の瞬間、衝撃と共に横ざまに突き飛ばされた。
床に打ち付けた腕の鈍痛と、一気に落ちた視界に混乱する。
ぎぃん、と硬いものが擦れ合う音がして。視界の端で、小さく火花が散った。
「死にたくないなら殺れ」
シェダルの冷たい声が、ほんの少しだけ、シキミの心を現実に引き戻した。
鎖を巧みに扱い、片腕を封じてみせた彼の影から飛び出すように、がむしゃらにナイフを突き出す。
手にしていたのは、あの、竜の鱗で作ったナイフである。
──勝利を。
すなわち──生を。
切り裂いた肉の感触を、確かに手のひらで感じて、少し泣きそうになる。
厭な──厭な感触だ。
だけどそれは、自らが選んだ道の上にある障害物で──故に、乗り越えて然るべき試練なのだろう。
厭だから、と投げ出して、逃げ出してしまいそうな心は、「自分の選択だ」という一念によって、辛うじてその場に踏み留まっていた。
苦悶の呻き声が大きくなると、とうとう男は鎖を引き千切る。
バツン、と弾ける鎖の残骸から逃れるように。
シキミはシェダルに腕を引かれ、半ば引きずられるようにして、部屋の隅へと背をつけた。
「援護するわ! 大樹の抱擁!!」
エレノアの拘束魔法が、宝珠の光と共に紡ぎ出され。太い根が、見る見るうちに男を覆い、包み、拘束してゆく。
同時に、少女の方へと手を伸ばした大樹の根は、一瞬で黒い霧に覆われた。
激しい羽音──大量の蝿が、その根に集っているのである。
「うぅ〜ん? イイトコまで行ってるけど……」
少女が、掲げた指を鳴らせば、根に張り付いていた蝿たちが、次々に爆発していった。
根は、少女に辿り着くことなく焼け落ちる。
「出来損ないは、盾か囮が順当だよね?」
「なんだよ、逃げる気かァ?」
『逃さないのだわ!』
白煙立ち込める中、テオドールの大剣が炎の渦を巻き上げる。
その隣。ジークの構える黒鋼の刀が、ぎらりと炎を反射した。
「テオ」
「おう」
ごくごく短いやり取りの後、二人の足は同時に地を蹴った。
空中から放たれた二人の斬撃は、炎の龍となり。男ではなく、少女を襲う。
真っ直ぐ、貫くように進むその龍に、少女は大きく目を見開いて──にぃ、と嘲笑った。
ぱかりと開かれた口は、いつの間にか耳まで裂けていて、下顎ごと落ちてしまったかのような──それはまさしく、人外の姿。
「なに……あれ」
顔半分を消し飛ばしたように、うぞうぞと蠢く虫の足のようなものと、ちらりと覗く真っ白な牙を目の当たりにしたシキミは、ただもう言葉を失った。
美しく燃え盛る龍は、その悍ましい口腔へ、吸い込まれ、呑み込まれてしまったのである。
「先に言っておくけれどもね」
炎の残滓を燻らせながら、少女は言葉を紡いでゆく。
「もう始まった。始まっている。──今更どう足掻いたって、止められはしない。……私を殺したって同じこと。私が死のうが、計画が頓挫することはないし」
お父様はきっと、私が死んだって見向きもしないわ。諦めるのね、人間。
うっそりと、少女の瞳が弧を描く。
「私は蠅の王。すべてを喰らい尽くす、暴食の権化」
伏して奉るのが礼儀だぞ──と、酷く冷たい声がした。
(もしかしたらしばらく更新が遅くなる…………かもしれないです。できるだけないようにはしたいですが……汗)
ここまで読んでいただきありがとうございました。





