102.曰く、誰が為に世界は歪む。
森の中に、少女は立っていた。
ラナキア平原の外れにある、山の麓の一角。鬱蒼と茂る木々の、葉擦れの音が鬱陶しい。
真っ白な髪が風に揺れ、少女の瞳が歪む。
影は、隠れるところを探すようにざわめいて揺れる。
彼女の目の前には、土砂崩れの跡が。未だ生々しく、その爪痕を顕にしていた。
いつの間にか潰されていた、工場の成れの果て。
監視術式ごとぱたりと気配が途絶えたものだから、碌な事になってはいまいと思っていたが、ここまでとは。嬉しくもない誤算である。
思わず盛大な舌打ちが漏れ、木々の間で木霊した。
この惨状を作り出したのが、人の手に依らない自然災害ならどれだけ良かったか。
かすかに残る魔力の残滓。行使された、魔法の気配。
それはただの人間が使えるものでは無く、少なくとも、ある程度の実力者が意図的に潰したとしか思えない──過剰で、徹底的な潰し方。
中で使役していたゴブリンなど、跡形も残らず消滅しただろう。
──"お父様" から任された、大事な仕事だったのに。
彼女の役割は、生物を魔化させる石を作ることである。
──作って、量産すること。それだけが目的の、それだけの役目だ。
屍者の慟哭を元に作り上げた "擬似魔石" は、所有者の生存本能によって起動する。
死への恐怖、負の予感、逃げたいという本能。
擬似魔石は、恐れ戦く所有者に活路を与える。
──魔化する事によって、彼らはその恐怖から解き放たれるのだ。
別に、慈善事業をしているわけではない。
だから、擬似魔石を使ったその後、彼らがどうなろうが、魔化することによって何が起きようが、こちら側としては大した問題でもない。……知ったことではない。
魔王を呼び覚ます。──或いは、見つける。
第一の目標であり、後にも先にもこれ以外の目標などありはしない。
だからこそ、魔化した程度で死ぬ人間など、端から眼中になかったのだ。
……だというのに、どうやら波紋はその ”死んだ人間” から来ているらしい。全く以て、煩わしいことこの上ない。
宝石商のマッティア。
最初の標的にして失敗作。
職業柄、石を大量に扱う事ができ、こちらに協力するだけの動機があった、格好の獲物。
マッティアが死んだ後は、憐れな目撃者となってしまったエイデンを拠点の主に据えて。大した騒動にもならずにここまで来ていた。
あの時、運悪く現場に出くわしてしまったアイツに、「みたな」と言って脅かしてやった時の表情ときたら! 傑作だった。
しかし、今になって思えば、その悪戯が歯車を歪めてしまっていたらしい。
エイデンが怖がり、近づかなくなってしまった屋敷は、死体が出たこともあって化物屋敷へと変じてしまった。
ギルドなんぞに依頼が出たときは、少しばかり驚きもしたが──それがまさか、こうやって嗅ぎ回られるきっかけになってしまうとは。
「あ〜、失敗だ〜っ。失敗っ! お父様に怒られちゃう!」
傍観に甘んじる連中は、大人しく、終末の刻を待っていればいいのだ。
悪いことではない。魔王の復活は、決して悪いことではない。
魔王が生まれ、勇者が現れ。両者がぶつかり……そして世界のバランスは保たれる。
それだけの話。──それだけの。
「……どうして放っておいてくれないのかしら。魔王も、勇者も、どちらもいない現状の方が、よっぽどオカシイっていうのに」
保つべきバランスの、外に弾かれてしまったすべての生命を、知らぬ存ぜぬでやり過ごすのが正しいのか。……弾かれてしまったのは己なのだから、許容などできようはずもないのだけれど。
「……やっぱり戦争かな。他の皆みたいに、戦争にしたほうがいいのかな? そういう話も上がってるし、ノっちゃったほうがいいのかな?」
世界の歪が大きくなれば、魔王と勇者たちは出て来ざるを得なくなるだろう。
より正確に言うなら、「世界が彼らを作り出さずにはいられない」状態にするのだ。
「魔王よりも恐ろしいものなんて、この世にゴマンとあるっていうのに。……みーんな見て見ぬフリばっかり!」
例えば、欲とか。
裏切りとか。
愛とか。
心とか。
敗北者、とか。
「まぁ、しかたがないか……透明人間だものね。私達」
──居ても居なくても変わらない。居たとしても、気にも留めない。半透明の、何か。
まるで返事をするように、ゔ、ゔ、と蝿の羽音が小さく響く。
少女は、指先にそれを止まらせて、うっそりと嗤った。
「傾きすぎた天秤を、直すだけだわ。割りを食っていた側が、持ち直して何が悪いっていうの?」
何人死のうが知ったことか。
それが必要なら、何人だって殺してやる。
「あのおじさん。あんな出来損ないの石をどうやって戦争に使うつもりなのかしら。……ま、いいけど」
こちらを誘い込む気が丸見えの、屍者の慟哭の収集依頼。あからさま過ぎるそれに、敵かと思って近づいてみれば、協力がしたいと言い出すのだから驚いた。
これがあれば戦争ができる。
嬉しそうにそう宣った男の、歪んだ笑みの真意は読めぬ。
だが、今となっては渡りに船。
相手がこちらを利用する気でいるのなら、こちらも存分に利用してやろう。
──その前に、嗅ぎ回っている連中が、追いついてこないといいのだけれど。
今更火種が一つ増えたところで、何かが変わるとも思えないが、しかし。馬鹿みたいな悪戯で変わってしまった脚本の前例もあることだし。軽く見積もりすぎて、足元を掬われては堪らない。
「うーん。難しい顔したほうがいいのかしら? それとも、楽しそーな顔しておいた方がいい?」
鬱陶しい、生命のざわめきに満ちた森の中で、伸びを一つ。
大欠伸をしてみせた少女は、目に涙の膜を張りながら、酷く楽しそうに口元を歪めた。
われらがためにせかいはひずむ。
そう、例えばこんなふうに。
ここまで読んでいただきありがとうございました。





