心の温もり
静寂が響く暗い道。
吐き出した吐息はタバコの煙のように浮かび上がる。全身をしんしんと冷やす外気に晒されながら歩み慣れた道を一歩一歩進んでいく。
時刻は午後十一時。田園風景が広がる田舎の為、国道を外れれば人通りはかなり少ない。
こんな時間にわざわざ散歩というわけではない。ただ何となく通う学校に行こうと思い立った。
ただそれだけ。
自宅から三十分ほどで学校に着く。小高い丘の上に建てられた県立三船高等学校。
部活動に励む生徒たちも当然こんな時間まで残っているはずもなく、やはりここも静寂に包まれていた。
閉ざされた正門を軽く飛び越え、外から第ニ理科室を目指す。そこの窓は鍵が壊れており、閉まらなくなっていることを知る人は少ない。第二理科室は現在利用されていないので、それも当然と言える。
第二理科室の窓を開け、革靴を履いたまま校舎内に入る。この学校は当直制度を設けており、恐らく誰かしら教員が居るはず。
だが、そんな事はお構いなしに俺は自分の教室。二年二組がある四階に向かう。
目的など何もないまま来たが、深夜帯の教室から外の風景を眺める。そうしてみようと思った。
二年二組の入口に立つと、月明かりが照らす窓際の席に人影が一つある事に気が付いた。
小柄な後ろ姿、肩より少し長めの髪、座っている席。少ない情報だが、それで誰だかわかった。
「成瀬か?」
不意に声を掛けられ、弾かれたようにこちらを振り向いた女生徒は紛れもなく成瀬その人であった。
目元が腫れぼったくなっており、鼻の頭も赤い。泣いていたのだとわかる。
「や、山中くん」
「こんな時間になぜこんなところで泣いているんだ?」
「え? あ、なんでもないの」
泣いていた事に気づかれ動揺しているようだ。視線をきょろきょろとさまよわせている。
「そうは見えないが」
「本当になんでもないの。些細なことだから」
「その些細なことを訊いている」
普段全くと言っていいほど他人と会話しない俺がしつこく訊いたからだろう。成瀬は少し驚いたように目を丸くした。
成瀬の斜め前の席に腰掛けた俺は、ふとある光景を思い出した。
確かあれは運動会でリレーの選手を努めていた女子生徒がバトンを落として後で泣いていた時、男子生徒がハンカチを手渡していたのだ。
「使ってほしい」
学生服の胸ポケットから刺繍入りの藤色のハンカチを差し出す。台詞はその時の男子生徒のものを引用しただけ。
「え? あ、ありがとう」
おずおずとハンカチを受け取ると、成瀬はもう一度ありがとうと言い、目元を軽く拭った。
「いい匂い。ラベンダーかな? とっても落ち着く」
「そうか」
今度は模範解答がわからなかった。
「実はね。……本当につまらない話なんだけど」
成瀬はぽつりぽつりと話しだした。
♢◆♢◆♢◆♢◆
「と、言うわけで。ごめんなさい、本当に些細なことなんだ」
成瀬は申し訳なさそうに頭を下げた。
どうやら、成瀬の親友と好きな男子が仲良く下校していたらしく、その事で二人は付き合っているのではとの噂が立ったらしい。
好きな人への想いと親友を裏切れない葛藤にどうしていいかわからずにいた。そうして気が付いたらこんな時間まで泣き続けていたということらしい。
「好きならば告白をすればいいんじゃないか?」
話を聞いた上で俺は率直な意見を述べるが、成瀬は俯きながら激しく首を横に振る。
「そんな簡単にできないよ。振られちゃったら今の関係も崩れちゃうし、何より明日香とも……」
沈黙が流れる。
「一つ質問させてもらっていいかな?」
「え? うん。私に答えられるかわからないけど」
「好きになるとはどういう感じなんだ?」
成瀬はきょとんとした表情になる。濡れた瞳が月光を湛え、川の水面の様にゆらゆら揺れているのが見えた。
「山中くん。好きな人がいたことないの?」
「そもそも好きって気持ちがわからない。成瀬は知っているようだから訊いてみたんだが」
俺が本当にわからないということを理解したのか、成瀬は少し考え、ややあって。
「胸が……暖かくなるの」
穏やかな笑みを浮かべ、胸の前で両手を握る成瀬。
「その人の事を考えるだけで幸せな気持ちになれて、見ているだけで笑顔になれて、だけど、たまに苦しくなる。そんな感じかな? ごめんなさい。うまく説明できないや」
好きになるということは苦しくもなるらしい。それでも人を好きでいたいものなのだろうか。俺には理解できないことだった。
「山中くんも素敵な人を見つけて素敵な恋愛をしてね」
そう言って成瀬は微笑んだ。その笑顔は普段彼女が学校生活の中で見せているものと何ら変わらないものだったが、たった一つだけ。その笑顔は俺一人の為に向けられていた。
その時、ほんの一瞬だけ胸の奥がかすかに熱を帯びたのを感じた。
「そろそろ帰らないか?」
「あ、そうだね。すっかり遅くなっちゃったね。ところで山中くんは何で学校に?」
「俺は特に理由はない。あえて理由をつけるなら、そうしてみようと思ったからだ」
成瀬はそれ以上は聞いてこなかった。
校舎をあとにすると身を切るような寒さが温んだ体を包み込む。成瀬はマフラーで口元まで覆い、寒いね。と洩らした。
校門を出て、丘を下りきると道が左右に伸びている。そこで立ち止まり成瀬は俺の渡したハンカチを手に持ち言った。
「ハンカチ本当にありがとう。汚れちゃったから洗って返すね」
「別に構わない。それより送っていこう」
「え? でも山中くん、逆方向じゃ……」
「別に構わない」
それだけ言うと、俺は自宅とは逆の方向へ歩き出した。戸惑っていた成瀬もすぐに後に続き、小さな声でお願いしますと言った。
特に何も会話もせずに歩く。途中小走り気味に付いて来ている様だったので足並みを合わせるため、ゆっくり歩いた。
十五分程歩いた頃。
「山中くんどうもありがとう。この辺りは暗いし一人じゃ心細かったから、送ってくれてとても嬉しかった」
「別に構わない。ここが家か?」
「うん。良かったら何か温かい飲み物でも飲んでいって?」
「いや、遠慮しておこう」
踵を返し、もと来た道を戻る俺の背中に成瀬の声が掛かり振り返った。
「山中くん、今日は私なんかの話を聞いてくれてありがとう。山中くんって優しい人なんだね。これからも仲良くしてね」
俺は何も言わずに成瀬の顔を見つめていた。
「また明日、学校でね」
成瀬は微笑みそう言った。
再び歩き出した俺の胸に、また先程の熱が帯びたのを感じた。これが成瀬の言った胸の温かみなのだろうか?
やはり俺にはこれが何なのか分からなかった。
凍てつくような寒さが、その熱も奪いさり冷たい風が吹き抜けていく。
空からは白い雪が舞いだした。
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