00.全ての始まり
冷たい風が村の中を通り過ぎていく。草木を、人々をすらも凍らせるほど冷たい風に、外に出ていた男たちは身を震わせて、身体を縮こめる。
「なあ、本当にやるのか……?」
若い男が、おびえた様子で言った。声は震えており、瞳はせわしなく右へ左へと動いていて、落ち着きがない。
「やっぱり、やめたほうがいいんじゃねえかな」
「何を馬鹿なことを。あの女を火あぶりにしなきゃ、死ぬのはおれたちだぞ?」
「いや、でも……」
「まったく。いったい何に怯えてるんだか」
隣に立っていた違う剽軽そうな若い男は、おびえた様子の若い男をみて肩を竦める。
「というか、どっちにしろおれたちに決定権はないだろ。お上の決めることだし、もう決まったことだ」
だから、諦めろ。と続けて、おびえた様子の若い男の肩を叩く。おびえた様子の若い男は何かを言いたげに、相変わらず視線を彷徨わせていた。けれど少しして、観念したように息を吐き出して。
「……そう、だよな。ああ、くそっ。分かってるんだが、どうにも嫌な予感が抜けないんだ」
「まあそういう日もあるさ。全部あの女のせいにしておけ」
平気そうな顔をした剽軽そうな若い男は、手の中にあった枝を宙に放り投げ――それを同じ手で受け止める。
「なんてったって、あの女は災いを呼ぶ魔女なんだから」
と剽軽そうな若い男が言った瞬間。周囲を取り巻く空気が変わった。呼吸することすら困難だと思わせるほどに、重たくなった空気。流石の剽軽そうな男も、軽薄さのある笑みを引っ込めて、眉間に皺を寄せた。
「……いよいよか」
誰かが、小さな声で呟く。広い屋外だというのに、静まり返ったそこではよく響いた。誰も彼もが、息を呑んで成り行きを見守る。
男たちの目の前に現れたのは、一人の女だ。両腕を二人の男に持たれて、自分で立って歩くことすらままならない様子の女。
華奢な女には似合わぬような、ごつい拘束具を付けられているのが、一人で歩けない原因だろう。
――けれど。女は特に気にしていないようだった。拘束されていることも、男たちが乱雑に、引きずるように連れられてきていることも。
これから起こることを知っているはずなのに、抵抗する様子もない。それどころか、拘束具を付けられて引きずられているなんて感じさせないほど優雅に振舞っている。
まるで、脇にいる男たちを女が従えているかのように錯覚させるほど。
空気が、恐怖で揺れる。
女の口元が弧を描いた。うっすらと浮かべられた笑みは、誰がどうみても楽しげな様子。
「さすが“災いの魔女”だ」
嘲るように誰かが言う。途端、今までの静寂が嘘だったかのように、野次のような声が次々に飛び交った。最初こそ小さな声だったが、段々と声が大きく、容赦のないものになっていく。
「だーから、わたしは魔女じゃないって何回言えば分かるのかしらねぇ?」
“災いの魔女”と呼ばれた女は、随分不機嫌そうに、面倒臭そうに――そうして。どこか楽しげに、笑って言った。甘ったるくて、聞いた人間の脳に直接語りかけるような、そんな声で。
途端、水を打ったように静かになる。冷たい風が、集まった人々を包むように通り過ぎていく。
恐怖がまた、人々を支配した。
「あらぁ。随分と情けないこと。拘束されてなぁんにも出来ないただの女が、ちょーっとなにか言っただけででだんまり決めちゃうなんて」
鈴を転がすように女は笑えば、一旦笑うのをやめる。次いで、少しの間をあけて両の口端を持ち上げて笑う。
「今なら、アンタたちのやりたい放題よ? ほら、好きなようにしてみなさいよ。アンタたちは、あたしに恨みがあるんでしょう?」
「おい。その女の口を塞げっ!」
年配の男が顔を真っ赤にして叫ぶ。その横には、怯えたような若い女と小さな男の子が身を寄せ合って震えていた。
「あはは。都合の悪いことは、口を塞いで聞かなかった事にしちゃうの? つまんないわねぇ、本当に」
女を挟んでいた二人の男のうち、一人が女の口に猿轡を噛ませる。異様な静寂が、辺りを覆い尽くす。女が引き摺られる音だけが、辺りに響く。
「早く女を縛り付けろ! 燃やすんだ、早く!」
急かすように、誰かが言った。その声にその場にいた全員が賛同するように声を上げれば、女を連れてきていた男たちは歩調を早めて――そうして。すでに木で組み上げられた十字架の前へと、女を突き飛ばす。
そこで待機していた別の男たちが、手早く女をくくりつけていく。その間女はおとなしく、されるがまま。相変わらず抵抗する様子はない。それどころかその口元には、異様なまでの場違いな笑みが浮かぶ。
今から、何が起こるかを知っているはずなのに。
情けない、小さな悲鳴が漏れ聞こえる。一つ二つじゃなく、いくつもの悲鳴が。
「怯えるな。あれはもうじき死ぬ」
叱咤の声が飛ぶ。人々は一度静まり返った後、口々に叱咤の言葉に同意した。場の雰囲気は戻り、誰もが安堵した時。
広場に響き渡る、笑い声。
人々の顔が、恐怖に染まっていく。その笑い声は、耳にこびりつくようにしつこくて、一度聞けばきっと忘れられない。忘れたくとも、忘れられないのだ。
一斉にその場にいた全員が女を見た。口にはめられていたはずの猿轡はいつの間にか外れており、女の足元に落ちている。
「残念ねぇ。あたしは死なないわよ。煮ようが焼こうが、串刺しにしようがね」
女の口元が、歪む。これでもかと持ち上げれた両端は、口が裂けてしまわんばかり。
あまりにも異様な光景に、誰もが息を呑んだ。だが。
「勝手に言わせておけ。魔女とて人だ。焼けば死ぬ」
火をつけろ。と、男が言った。その声で正気を取り戻した数人が、乾燥した焚き付け用の薪を手にする。けれどその表情は随分と固く、恐怖に駆られているよう。
誰からともなく、風に揺られている松明から火を取って藁に、近付ける。乾燥した空気に煽られて火はどんどん燃え移っていき、女を縛り付ける十字架にあっという間に移った。足元から勢いよく、女を焼いていく。
辺りに広がり始める、肉が焼ける嫌な臭い。
響く悲鳴――いや、響くはずだった、悲鳴。けれど響いたのは、悲鳴ではなく
「また、会いましょう」
――楽しげな、笑い声。