一匹狼、後悔する
――目の前の水たまりをじっと眺めて考える。
水たまりでも体を洗うことは出来る、と一度は思案したが、どう考えても体の大きさに合わないし、洗ったら洗ったで泥がくっついてしまうだろう。まぁ匂いが消える上水の下に堆積した泥……もとい土の匂いが付くから隠蔽にはもってこいだとも思う。
ただ……泥が毛皮につくのは絶対に気持ち悪いから嫌だ。乾いていようがいまいが、体にまとわりついた泥は重いだろうしそれも御免被る。そしてもう一つ、絶対に譲れない事がある。
"思わず走り出してしまった"程だったんだぞ? それだけ嬉しくて駆け出したのに、こんな小さな水たまりごときで体を洗ってたまるものか! これはプライドの問題だ、道理が通じなくても絶対曲げてやらないぞ俺は。
忌々しい気持ちを押さえ込みながら、水たまりを覗き込んだ。下半身と両腕は自分で見ることが出来るが、顔をまだ見ていないことを思い出したからだ。まぁ大方予想はできているが見ておいて損はないだろう。
――水面に映る顔は、まさしく狼の"ソレ"だった。
全体像は暗くてわかりづらいが、見たものを恐怖に陥れるような双眸は、月の光を受け鋭く輝いている。三角にとがる両耳、すっと通った鼻、そして獲物に食らいつくための鋭く獰猛な牙。水に浮かんでいるだけの姿なのに、それが飛び出して食らいついてきそうなほどの勇ましい顔。
……これが俺だとはどうしても思えないな。
これじゃあ他の人間にあった時に攻撃されてしまうだろうなぁ。出来る限り人と争うのは避けたいんだけど……この姿じゃそうも行かないだろう。難儀な人生、いや獣生を送りそうだな、気が滅入ってしまいそうだ。
無駄に気落ちした俺はその場を離れようとしたが、とある異変に気付く。
自分のものとは違う、何か生臭い香りが自分を取り囲んでいることに今まで気づかなかったんだ。
さっきまで考えていたことがすっと頭から消え、冷静になっていく。さっき急いで走った時に立てた音、激しく動くことで体から拡散した臭い、覗き込んだり考え込んだりしたことで流れた時間……それぞれが原因となってこの事態を招いた訳だ。
まったくの自業自得じゃないか、何をやっているんだ俺は。散策を始める前に懸念していたことが全部起こってしまった。どうやら俺はとびきりの阿呆らしいな。少し水の音がしたくらいではしゃいだ俺が馬鹿だった。
そんな中、俺を取り囲んでいた奴らが姿を見せた。
ゴブリンだ。それに今度は右手に刃物を持ち、前に見かけたゴブリンとは違って逃げもせずにジリジリとにじり寄ってくる。面白いじゃねえか、俺から逃げずに向かってくるとは殊勝な――
――っと、いけない。また意識を引っ張られる所だった。
この姿になってから少し感情が不安定になっているのには気付いていたが、こうも好戦的になってしまうとはな。直に慣れるかもしれんがそれまでは気をつけないと。こういうときにこそ冷静にならないといけない。
……その時、後ろから音が聞こえた。
反射的に蹴り上げた後ろ足が何かにぶつかり、後ろへ飛んで行くのが分かる。それを皮切りに周りにいたゴブリンが一斉に襲い掛かってくる。色んな方向から襲い掛かってくるが、まず片付けるべきは正面だ。
逆にこっちから全力で走って爪で切り裂く。刃物を持っているから少し危ないかとも思ったが、俺が突然動いたからか固まってしまったようだ。これでまず一匹、手が気持ち悪いとか言っている場合じゃない。すぐに体を反転させて何匹居るか確認する。
三……いや、四匹か。さっき蹴り飛ばしたやつが奥から走ってきているのが見える。よし、近いやつから片付けるか!
そこからは流れ作業的なものだった。まず近くにいる一匹を直ぐに切り裂き、もう一匹が振りかぶった剣を爪で受け止める。正直危ないとも思ったが、体を動かして避けようにも後ろには歩き"づらい"し、横に避けるのも難しかったからな。
散策の最中に爪がどんなものか木を殴って確かめたのが功を奏した。木の幹にも抵抗なく傷をつけることが出来たし、硬度が相当なものだと分かっていたからこんな事が出来たわけだ。ただ、結構な衝撃だったから爪の根元が少しジンジンする。
爪で受けた後は、剣を弾かれ体制を崩したゴブリンを同じように切り裂く。後の二匹だが……さっき遠くから走ってきたゴブリンは踵を返して逃げてしまい、もう一匹は少し距離を取って此方を怒りに満ちた顔で見ていた。
さて、残り一匹になったが……ここは狼らしく殺ってやろうじゃあないか!
こっちも少し後ろへ下がり、そいつに向かって全力で駆け出て飛びかかる。剣を振り下ろすよりも早く、ゴブリンの両手を前足で押さえつけ、大きく口を開き――喉に食らいついた。
少しの間悲鳴すら上げられず暴れていたゴブリンだが、喉笛を食いちぎるとついにおとなしくなる。あとに残ったのは血塗れになったゴブリンと、真っ赤に染まった俺自身。
そして……口の中に広がる言い様のない苦味、えぐ味、鼻に上る生臭さ!
狼の意識に引っ張られた面もあるのだが、流石に耐えられず――すぐに吐いた。
今まで味わったことのない不味さが口から消えてくれない。何でこんなことをしたのか少し前の自分を問い詰め、思いっきり噛んでやりたい気分だ! なんて気分だ、本当に最悪だ。もう死にたくなってくる。
――その後、俺はさっきの水たまりに心から感謝した。
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