一匹狼、生まれ落ちる
――少し生ぬるい風が、目覚めたばかりの体を吹き抜けていく。
風に乗って運ばれてくるのは草木の放つ独特な青臭さで、目を開かずとも周りに草木が生い茂っているのが分かるくらいの濃密な匂いが辺りに充満していた。それに体へとまとわりついてくるジメジメとした空気……小さい頃に森の中で遊んだ頃を思い出す。
風に乗ってくる臭いはそれだけではない。なんだこの獣臭さは。長らく体を洗われていない野良犬でも俺の近くにいるのか? ずっと嗅いでいると気持ち悪くなってくる。あまりいい例えではないが、よく登校中なんかに見かける道端へ放置された動物の……あの匂い。
虫の声か、野鳥の類の鳴き声の音か。耳朶をうつ音からしてもここが気を失う前に居た道とは全く別の場所にいることが嫌でもわかる。近くにそいつらが居るのだろうか、耳に入ってくる音はとにかく騒々しい。まるで耳元で騒がれているようだ、どうにも苛ついて来る。
あぁ、本当にイライラしてくる。さっきまで気持ちよく……気持ちよく? 寝ていたのに邪魔されるのは本当に腹立たしい。畜生、イライラが抑えられない! これだけ近くにいるなら、でかい声でも出したらどっか行くだろう。
そうと決まれば、早速やろうじゃないか。息を目一杯吸って、口を大きく開け、怒りを込めるように声に乗せて吐き出せ! あの突然の寒さに襲われたときの怒りも纏めて発散してしまえ! そうして俺は――
――俺は『うるせぇ!!』と、確かに叫んだはずだ。
しかしそれは、何かの『アォオオオオン!!』という叫声によってかき消されたのか俺の耳に入ることはなかった。それに鼓膜を震わせ破ってしまうかような衝撃、一つだけわかることは、叫声の主は恐ろしく近い場所にいる
たとえ野良犬だろうと、引っ掻かれたり噛まれたりしたら危険だ。それにもし首でも噛まれたら死ぬ可能性すらある――
……慌ててまぶたを開き、立ち上がろうとした。
足に力を入れ、急いで立ち上がろうとした俺はバランスが取れずに後ろへ倒れ込んでしまう。まるでロープか何かでガッチリ縛られているかのように、足が言うことを聞かない! 地面に打ち付けた背中には鈍痛が走る。
なんてこった、あのまま誰かに拉致でもされたか――
しかし、もう一つだけ気になることがある。俺が倒れ込んだ瞬間、さっきまでしていた獣臭が一段と濃くなったことだ。まるで自分自身が発生源のような……
言うことを聞かなかった足を確認するため、上半身を思いっ切り後ろへねじり後方を確認すると……俺の目には白く輝く、ふさふさとした「何か」が飛び込んできた。
突然のことで思わずビクッ、としてしまった俺は幾つかの事実に気付く。まずはビクッと体を震わせた瞬間、その謎の物体も同時に躍動したこと。次に、上半身を捻ったときの旋回範囲が、体の曲がり方が異常に大きいこと。
そして、信じられないことに――その白い物体が己の体から生えていること。
愕然として、思考が止まる。視界を前に戻し恐る恐る自分の両手を見ると――本来両手が見えるはずの所に、見ただけで肌が粟立つような恐ろしい爪を持つ、白色の毛に覆われた巨腕が草の生える地面に横たわっていた。
……ははっ、何だこれは。意味がわからない。
まぁ、俺の目が確かなら全て辻褄が合うよな。妙に鼻が効くことも、聴覚が異常に良いことも、二本足で立ち上がれず倒れたことも、それにさっきからしていた発生源の分からない獣臭の正体も。
俺が……ヒトじゃなくなってしまった訳か!
こりゃあたまげた! いやぁ、奇っ怪なこともあるもんだ。
ははっ、俺が一匹狼と呼ばれてるから文字通り一匹「狼」にってか!!
神様もなかなか粋な計らいをしてくれるじゃあないか。あぁ、気に入った。
俺をこんな目に合わせたのは何様なんだろうなぁ? 是非一度お会いして感謝申し上げたい気分だね。もし目にする機会があったら、感謝の気持ちと一緒に、そのクソッタレに覆いかぶさって喉笛を出来る限り無残に噛みちぎってやろうじゃあないか。
絶対に――絶対に俺は許さねぇぞ。首を洗って待ってろ、クソ野郎。
どれだけの時間がかかっても――
どれだけの苦痛に苛まれても――
どれだけの理不尽を受けても――
俺はてめぇの所に馳せ参じて、お礼をさせてもらうからな。
今からするのは意思表示だ!次会った時俺だと分かるようしっかり聞いとけ!
前足を伸ばし地を抉るように突きつけ、思いっきり息を吸い込む。全身に力を込め、頭を振り上げ、怒りと憎悪を込めて思いっきり吐き出す。まるで俺がこうすることを分かっていたかのように、ぽっかりと空いた木々の枝の間から見える赤い満月へ。
『――アォオオオオオオオオオオオオオオオン!!!』
――この日、世界に一匹の"狼"が生まれた。
ブックマーク、評価等宜しくお願い致します。