鍵の目覚め
鍵は一人の人間を見た。
生まれて初めてみたのが、その人間だった。
後にそれが“天王寺瑚太朗”という名前の人間だと知ることになる。
しかしいま鍵が見ているのは、ただそれが人間であるという認識だけだった。
「……」
その人間は先ほどまで鍵がいた場所を調べているようだった。
鍵は人間の気配を察した瞬間、本能的に認識を撹乱させる機能をオンにしていた。
だからいま目の前にいる人間は鍵の存在を察知できていない。
こんなに近くにいるにも関わらず――。
「もう……いないか」
それだけ呟くと、その人間はその場から立ち去った。
鍵は初めて見たその人間に、無意識に手を差し伸ばした。
その行為が何を意味するのか、鍵自身にも判断がつかなかった。
「……」
鍵には、知識が必要だった。
自らの意志で考え、判断し、行動ができる存在であることを、鍵は理解していた。
知識。
それは人間を理解するために必要だった。
次に鍵がした行動は、あの人間を知ることだった。
森を出て、市街へと向かった。
たくさんの人間がいることを初めて知ったが、鍵が求めているあの人間の姿はいなかった。
そのとき、森とよく似た緑が植わっている場所に、一人の人間が話している声が聞こえてきた。
「なに……っ?! 天王寺が2キルだとぉぉっ?!」
その人間は黒くて四角いものを耳に押しあてながら、通常より遥かに音程の高い声で話していた。
だがすぐに自分を戒めたのか、周りの人間には聞こえないほどの低い声音で話しだす。
鍵はその人間の声の変化に興味を持った。
近づいて内容をきいてみることにする。
「おいおい、マジかよ。あいつ残ってたんじゃないのかよ?!」
『私たちの後を追ったようね。そこまでバカじゃないと思ってたけど認識が甘かった』
黒くて四角い物体から違う声音も聞こえてくる。
どうやらそれが声帯を一定周波の電磁波に変換して伝達する道具であることを理解した。
「くそっ! なんてこった、あんなやつに手柄取られるなんざ…っ」
『あんたバカ? 手柄なんて言ってる場合じゃないでしょ。下手すれば降格、悪ければ処分は免れないわ』
「俺らルーキーの失態なんてお偉いさん方には痛くも痒くもねえよ。実質あの場には現場の情報統制が取れていなかったんだ。上だって責任取りたくないなら目を瞑るさ」
『そう……だといいんだけど』
「なんだってあんなやつに……! くそっ、くそっ、くそぉっ! 俺は認めねえぞ、天王寺瑚太朗なんて野郎は絶対認めねえっ!」
天王寺瑚太朗。
それが鍵が耳にした初めての人間の名前だった。
人間には固有名詞がある。
その固有名詞が個体差と人格を形成し、個人対個人の格差を生むことがある。
今の人間のように。
鍵はその固有名詞の人間を調べることにした。
今の人間の会話から、鍵は自身の内部に存在する悠久の過去からの情報にアクセスし、人間社会と社会構造、政治形態などありとあらゆる情報を検索、ピックアップしていった。
そして現代社会で特定の個人名を調べる方法を見つけ出す。
市役所に向かった。
鍵は天王寺家の前に辿りついた。
住所によるとここらしい。
表札に「天王寺」と書かれていた。
施錠されているので内部構造を把握してから開錠する。
家に入ると、人がいる様子はなかった。
ツンとした刺激臭が漂う。
「……?」
その臭いからわずかだが鍵の記憶を刺激した。
情報を分析してみるが、アクセスエラーと出る。今までそんなことはなかった。
その臭いのもとを辿ると、人間が料理をする場所に透明な三角形の入れ物があり、中には茶色い液体が入っていた。
どうやらこの入れ物の下にあるプレートが熱を発生させているらしい。
液体から湯気がたっていた。
鍵はその液体の臭いをかいでみた。
記憶が刺激されている。
ただしエラーばかりで確たる分析は不可能だった。
その液体を口に運んでみた。
「……っ」
喉を通過し、胃に到達し、液体の成分が体内に吸収していく。
その過程よりも液体が鍵の記憶のなにかを刺激していた。
ラッパ飲みで一気に飲み干すと、物足りなくなった。
しかしこれ以上同じ液体を見つけることはできない。
作り方があるかもしれないが、今の状態ではその手段が見つからない。
鍵は家を見渡し、階段があることに気づいて二階へと上がった。
「……」
いくつかある部屋のうち、突き当たりの奥にある扉へと向かう。
この部屋が無人であることは察知していたが、それよりも長いこと使われた形跡がないことに疑問が出た。
中に入り、見渡してみる。
「……」
部屋の持ち主は確かにいたようだが、現在は使われていないらしい。
人間は家の中で暮らすという知識が鍵のなかにある。
その不釣合いな事実を疑問に持ったが、すぐにその理由がわかった。
部屋の持ち主である人間の机の上に、文字が書かれた紙が置かれていた。
『瑚太朗へ
おまえがもし家に戻ることがあれば、これを読んで欲しい。
すまなかった。
おまえの気持ちをもっとよく考えてやるべきだった。
おまえがマーテル会を脱会したいと、何度も言っていたのを、私たちは聞き流していた。
自分たちのことしか見えていなかったからだ。
政府の関係者と名乗る人物が、おまえを預かっていると聞いた。
私たちはおまえに会わせてくれるように頼んだが、機密情報に関わるとのことで許可されなかった。
瑚太朗。
私たちはここでおまえをずっと待っている。
もうおまえの行く道を阻むつもりもない。
だから、いつでも戻れる場所があるのだということを、どうか知って欲しい。
おまえにはいつも辛くあたってしまった。
おまえが人より優れた力を持つことを、私たちは気づいて、恐れた。
わが子であるおまえに、そんな気持ちを抱いてしまったことを、今は深く後悔している。
私たちがしている研究を、おまえは一度も尋ねたことがなかったな。
私たちもまた話そうとはしなかった。
それは命を作る研究だ。
命といっても、かりそめの命だ。魔物といって、おまえには理解できないかもしれない。
マーテル会では魔物を作り、使役する組織が秘密裏に存在する。
魔物とは、人間の命を使って作り出し、魔物を呼び出した人間は寿命を削られていく。
それを科学的に防ぐ手段はないのかと、私たちは日夜研究していた。
魔物の利便性を大勢の人々が知れば、きっと社会は違う形で発展していく。
しかし寿命を削ってまでそれを使いこなせる人間は、ごく限られたものだ。
おまえには理解できない話かもしれない。
だから今まで話すことができなかったし、また口外することは禁じられていた。
おまえがそれを知ったことで、おまえになんの影響もなければ、それでいい。
ただ、私たちのしていることを知っておいて欲しかった。
こんなことを書いても、きっと白々しく聞こえるかもしれないな。
今さらもう遅いかもしれないが、最後にこれだけは伝えたい。
瑚太朗。
おまえはおまえの、信じる道をゆきなさい。
振り返らなくていい。ただ、立ち止まることなく、突き進みなさい。
それだけが私と母さんの、最後の願いだ。』
――魔物。
その言葉が鍵の中にある記憶の一部を解除した。
そこから次々と情報が溢れだしてくる。
たった一つの言葉が暗号解読の解除キーとなって、鍵の中に眠る本質的な部分を呼び覚ました。
「天王寺……瑚太朗」
鍵は初めて言葉を発した。
それが最初に見た人間なのだということを、鍵は直感的に判断する。
初めて見た人間だが、鍵はあの人間を知っていた。
内部情報にはない。だが最も原初にあたる深い部分で、あの人間を知っている。
そして自分の使命もあの人間に直結していた。
「……」
鍵はその後、天王寺瑚太朗が使っていた部屋にあるものを片っ端から調べた。
持ち物、PC、衣服、趣味嗜好、過去に繋がるもの、全て。
鍵は自らの一部でもあるリボンを使って、触れてはその情報を引き出した。
その鬼気迫る様子は、夜になってもおさまることはなかった。
鍵がどうやって瑚太朗のことを知ったのかな、と妄想してみました。
Terra篝があまりにも瑚太朗のことをよく知っているので……。
ストーカーでもしないとわかるわけないです。