ソイレント・グリーン その②
別に、何か特別の理由などがあった訳ではない。
ぬーとか言う徹頭徹尾どこまでも馬鹿で間の抜けた所謂、だめ神がそこら辺でうんこ漏らして行き倒れようがそれはあいつの選んだ結末だし、思う事などは大してない筈、だったのだ。
…………そう、その筈だったんだ。
手入れをしておいた雨合羽を羽織り、ぬーと、恐らくは竜に連れ去られたのであろう栗毛の少女の元へ歩み寄りながら俺はどうしてこうなったんだろうなあと頭をぼりぼり掻いてみた。
それで答えが出ればありがたかったのだが、特に決定打と言うものもなく、ただただ、やっちまったなあと言う鈍い後悔が胸の内を支配していた。
「…………何者だ、貴様。加減をしていたとは言え、我輩のブレスを消し飛ばすとは」
「ただのウンコ製造機さ。それ以上でも以下でもないし、それ以外になる気もない」
驚嘆する風なドラゴンの声にそう返してやると、どう言う訳か、ぬーが俺に対してむふーと胸を張っていた。正直、未発達なそこを強調されてもその美貌に慣れた今では哀れな気持ちにしかならんのだが、嫌がらせでもしているのだろうか。
「全く、あなたも素直じゃありませんね! ボクの事が心配で堪らないなら、最初からついてくれば良かったんです!」
「……はあ?」
こいつ、何を言ってやがるんだろう。俺は口どころか顔面全体を歪めてやった。
「もうっ! そう隠さなくたっていいんですよ! あなたはかわいいかわいいボクの事が愛おしくて仕方がなくってホイホイここまでやってきたって寸法でしょう! ボクは何たってかわいい上に賢いですから、それくらいの事お見通しです!」
「そうか…………お前、そう言えばアホだったな」
「まーたまたまた憎まれ口を。そんな事言っちゃって、どうしてボクを助けに来たかって言うと、それくらいしか思い当たる節がないんじゃないですかー? このこのー」
ぬーはきゃっきゃとはしゃぎながら俺の脇腹を肘でついてくる。
その姿を見て、俺は漸く――――己がここに来た理由を悟った。
実行した。
「ふん!」
「あ痛っ! …………ぶ、ぶちましたね! あなた今ボクの事をぶちましたね! 頭にすこーんって!」
「…………さいてーですぅ」
拳骨を叩き込んだ頭頂部を抑えながら、涙目でぬーは言う。どう言う訳か、傍らの女の子がそれを見てじとっと俺に非難の視線をぶつけてくるが、知った事か。俺のストレスにはなり得ない。
「そりゃあ殴りもするさ。一々面倒事を増やしやがって。――いいか、俺はストレスのない安らかな生活がしたいんだよ。ここに来たのはその為さ。理解出来たか?」
「つまり、どう言う意味ですか?」
「多少恩のあるお前を見捨てるのはストレスだ。心のささくれだ。だから助ける。以上、証明完了」
「……むー。わかった様な、わからない様な」
「大丈夫ですよぅ、お姉さま。お姉様は何も悪くありませんから」
「ですね!」
ぬーは身なりのいい女の子が口にした言葉を逡巡もなく受け取った。
むふーと、胸まで張っていやがった。
「話は纏まったか? それじゃあ、ここを出るぞ。ほらぬー。お邪魔しましたは?」
「あなたに言われなくてもわかっています! おじゃましたした!」
「――――待て」
「噛んだな、ぬー」
「噛んでません。錯覚です」
「何でお前は自分のミスを素直に認める事が出来ないんだ? そう言う態度がかわいいって果たして言えるのかね?」
「働いてもいない生司さんに言われたくありません! ボクに説教がしたいならさっさと英雄になる事ですね!」
「待てと言っている!」
口喧嘩をしながら帰路を急いでいると、後ろからそう怒声がした。
空気を大いに震わせ、皮膚や肉はおろか骨にまで響き渡るほどのそれは、その咆哮に相応しいだけの巨躯より齎されたと言う事は明白だ。
それは、つまり――――
「何だよ、ドラゴンさん。俺達にまだ何か用か?」
振り向き、そう訊ねる。
強壮なる鱗の王は、それに、やや苛立った様に声を向けた。
「用か、ではない。我輩の連れ帰った、そこの娘をどうするつもりだ?」
ドラゴンの瞳が向かう先。
そこには、ぬーと仲良く手を繋いだあの栗毛の女の子がいた。別に、俺にとっては何の情もない、降って湧いた様な少女だった。
「これは悪い事をしたな。……ぬー、元いた場所に戻してきなさい」
「扱い軽っ! って言うか、嫌ですよ! この子はそこの竜に勝手に拐われて来たんですよ! 悪いのはあっちであって、この子には外の世界に戻る権利があります!」
「お姉さま…………やっぱり素敵ですぅ」
指を組み、女の子はうっとりとした顔でぬーを見つめる。それに自信をつけたのか、ぬーはぐぐっと胸を張った。
俺はその様に一つ大きな溜息を吐いて、
「あのなあ、よーく考えてみろ。こいつを助けてそこにメリットがあるか? 人助けってのは聞こえこそいいが、それ自体がストレスの塊だ。一人助けりゃあ、また縋り付かれるぞ。それで失敗すりゃあ失望もされる。そんなの最低じゃないか」
「わ、わたしはフィナ王国第一王女フィオナ・フィナですよっ! お返しならたくさんできますぅ!」
「王女! 生司さん、王女ですって! それなりの身分だとは思っていましたけど、この数日で悪いドラゴンを打ち倒しお姫様を救うだなんて、流石はボクが選んだ人だ! あなたの英雄譚も幸先がいいですね!」
「話のわからねえやつだな。英雄になんざなる気もないんだよ。大体、王族なんぞと親しくなってみろ。社交界に政治闘争、領土問題や宗教対立――醜いパイの奪い合いに巻き込まれる事になる。そんなストレスに我慢しきれるかよ。貸しも、借りも、出来る限り作る様なものじゃねえって事だ」
そこで俺は話題を取りまとめ、
「と言う訳で、申し訳ないがそこのお嬢さんはとはここでお別れだ。いや、俺としてもすげー心残りだし、残念でもあるんだぜ? でもまあ、こればっかりは仕方ない。本当、心が痛むなあ」
「絶対どうでもいいと思っていますぅ……」
「こう言う人なんですよ……」
ぬーとフィオナと言うらしい女の子が口々に言い合う。だが俺の心は無敵だ。
「ほら、おいしいおやつにほかほかごはん、あったかいふとんでねむるんだ。俺もかえーろおうちへかえろ。でんでんでんぐりがえってばいばいば――――」
歌の通りにでんぐり返ると、目の前に火球が降ってきた。
ぼーんと、岩肌の地面を抉り、火の粉を撒き散らして明瞭なまでの熱を辺りに広げていた。
「……おい、これはどう言うつもりだ?」
俺は土汚れのついた服をぱんぱん叩きながら立ち上がり、振り返って言う。
幸い、フィオナがあわあわと腰を抜かしているくらいで誰にも怪我はなかったが、それが狙い済まされた事など直ぐに理解出来た。
「何、ここから無事に出られるなどと言う奇異な事を言っているものだからな。おかしさの余りついつい吹いてしまったのだ」
「……何だ、ドラゴンってのは損得勘定ができねー種族って訳か? 俺をここに留める事で、お前に何の得がある?」
「人の子風情にそれが理解出来るとは思えないが?」
言葉があって、牙が剥き出され翼が開く。
じりじりと場の空気が熱し、それに反して体の芯の部分は冷え切っていく独特の感覚が襲ってきた。
「どうやっても、目こぼしはないって訳か」
周囲に雨雲を形成し、そう訊ねる。
降りしきる雨と吹き荒ぶ風の中、返ってきたのは肯定よりも雄弁な沈黙だった。
「…………全く、ストレスだねえ、どうも」
喉の奥でそう呟き、そして今までにない程の熱を持った火球が放たれる。
それが、戦いの合図だった。