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東の大陸の物語

腸詰めと赤い頭巾

「この頭巾を(かぶ)ってお行き」

骨と(しわ)、白く変化した元は焦茶色の頭髪を少し、それらだけで構成されているような、この村最高齢と(おぼ)しき老婆は、(しわが)れた声と共に、頭と肩、二の腕の辺りまでを覆う真紅の頭巾を差し出した。狼のそれに似た、和毛(にこげ)が生えた大きな耳が若干後ろ向かって下がり、ぴくぴくと小刻みに動いている。老婆も勿論、この村を構成している狼に似た耳と鋭い犬歯を持った種族の一員だった。

(かす)かに震えている指に握られた布地を、少女は見つめたが、色合いも好みではなく、薬草と思しき苦い香りが漂ってくるのも頂けなかった。真白の肌と銀色の髪、紫色の瞳を持った少女は、同じく内陸ではあるが、今、滞在しているこの村の更に北にある、より寒い地方で生まれ育っている。漆黒の、およそ防寒という機能性に()いては極めて優れているが飾り気は皆無、しかし少女の色素の薄い容姿が()える、頭巾付きの外套を所持していた。

首を振り、漆黒の外套を着込むという形で見せた少女の謝辞を、老婆は無視した。白く濁って見えているのか定かではない瞳が、断固たる決意を秘め、(うる)んでいる。

「これは、なあ。これは、これを(かぶ)って行けば、あの忌まわしい、魔法を使う獣どもから、嬢さんを護ってくれる」

言いつつ、頭巾を持つのとは逆の手で少女の外套の袖を、枯れ木のような指が折れるのでは無いかと思われるほど強く(つか)んで来た。少女は、老婆と負けず劣らず小柄で細身ではあったが、膂力(りょりょく)という点では遥かに(まさ)っている。振り払う事も出来たがそうはせず、無言で頭巾を受け取ると、漆黒の外套の上から身に(まと)った。苦い香りが少女を(おお)った。老婆が満足げにうなずく。老婆の様子を確認すると、少女は、厚い革手袋を()め、この小屋にたった一つある古ぼけた卓の上から(つる)を編んで作られた籠を手に取った。赤い頭巾の苦い香りを()き消してしまうほど強い、血と、(あぶら)の匂いが、揺れた拍子に籠から発せられ、広がった。果実酒、黒パン、そして昨夜()めたばかりの豚の腸に血と脂身を詰めて作った腸詰めが籠の中身である。腸詰めはちょうど、少女の外套と頭巾の色の間のような、どす黒い赤さを見せていた。

少女は籠を片手に外に出た。朝日が、少女の吐く息を白く照らし出す。この小屋は村外れにあり、少し行けばすぐ森に入る。その森は魔獣…魔法を使う、この森にのみ棲息する禽獣(きんじゅう)たち…が行き交う森であり、余程の手練(てだれ)や森で生計を立てている一部の者以外は立ち入らないが、少女はこれからその森の中を半日ばかり歩いたところにある、村人たちが『村のおばあさま』と呼ぶ老女の棲家(すみか)へ、籠の中のものを届けることを頼まれていた。数日前、諸事情からこの村を訪れた少女に、村長(むらおさ)以下村人総出で拝み倒され、高額な報酬を提示され、引き受けたお使い(、、、)である。少女は、籠を下げているのと逆の手で、外套の上に背負った、正面から見れば少女からはみ出て見えるほど不釣り合いに大きい(おおゆみ)の、頭巾に隠れてしまっていた銃把(じゅうは)の位置を直し、腰に挿した手の平ほどの大きさの矢を確認した。矢の代わりに地面に落ちている小石を撃つ事も出来る、少女の長年の相棒である。

「気を付けて。気を、付けて、なあ」

少女が出て来たばかりの小屋の扉が少しだけ開き、その隙間から老婆の瞳が(のぞ)いた。落涙の跡が見える。少女は薄く笑って一つうなずき、森に向かって歩き出した。白い吐息が後ろに流れた。老婆は、異様な雰囲気の村人たちに押し切られてお使いを承諾した、か弱い哀れな少女の身を案じて涙を流したのだろうが、実際のところ、少女は魔獣を脅威とは(とら)えていなかった。(おおゆみ)技倆(ぎりょう)には自信があったし、何より、この村を含む一帯では露骨に迫害される対象であることを知っていたので決して口にはしなかったが、少女もまた魔法を使う者だった。


一本道、と言えば、道が抗議の声を上げて来そうな、土が少しばかり踏み固められ、下草の(しげ)り方に勢いが無い、樹々の間隙(かんげき)を少女は進んでいた。ところどころ申し訳程度に、樹々の枝に少女が(かぶ)る頭巾と同じ色の布が結ばれていて、それが数十日に一度のお使いのための道標(どうひょう)だったが、生い茂る枝葉に隠され、迫り来る樹々の枝と枝に絡まる蔦に日の光を遮られ、暗い森の中で、一層見つけ辛くなっていた。(ほとん)ど風が無いこともあり、湿った土と緑の混じった濃い匂いが立ち込め、時折、喉を()められて立てているのではないかと思われるような、悲鳴のような声が聞こえる。その声がただの禽獣の()き声なのか、魔獣のそれなのかは、残念ながら少女には判別出来なかった。

はっきりと日が高くなって来たことが分かるほど歩いた頃、それまでとは違う、甘い香りが少女の鼻孔をくすぐった。赤い頭巾のお陰かは定かではないが、これまで少女は魔獣どころか禽獣一匹にも出会わず、これが最初の変事だった。少女は足を止めること無く左右を見遣(みや)った。左手、枝葉の隙間から射し込んだ幾筋かの光に照らし出され、鮮やかに白い花弁が浮き上がっていた。魔法使いの間では知られている、この森のみで咲く魔力を含んだ花だった。街で買えば結構な値段になる。少し拝借して行こうかとの思いが去来したとき、少女は足を止めた。耳と目を最大限働かせ周囲の様子を(うかが)うと共に、ゆっくりとした動きで籠を足元に置き、背の(おおゆみ)を取り上げ、引き金に指を掛ける。甘い香りを含んだ空気が(わず)かにかき乱されたのを少女は感じ取っていたが、どの方角からかは分からなかった。

かさり、と小さな音が少女の耳に(とら)えられた。陽動、という可能性を考え、それ以外の場所にも気を配りつつ、少女は(おおゆみ)の狙いを音が立った方向、左手の、白い花が咲き乱れている一帯の更に奥に定めた。音は明らかに、それなりの重量がある生き物が、下草と落ち葉を踏みしめる足音だった。

「誰か、いるな!?」

次に響いて来たのは、足音ではなく緊張を(はら)んだ良く通る男の声だった。少女の片方の眉がぴくりと動いた。

(こた)えろ!(こた)えぬなら、射る!」

声の主も弓矢か何かを構えているようだった。少女は(おおゆみ)は狙い定めたまま、声を張り上げた。

「『村のおばあさま』に果実酒とパンと腸詰めを届けに行く者です」

「もうここまで来たのか。足が強いな。俺たちは狩人だ」

内容より、声が幼さの残る女のものだったという点の方が大きかったろう、返って来た声からは張詰めたものが消え、直後、(やぶ)や枝を()き分ける音が上がり、屈強な大男が二人、射し込む光の下、男二人の長靴に踏み付けられた白い花弁が一層強い香りを放つ中、姿を現した。綿が入った染色していない簡素な麻の服、革の手袋、矢筒を背負い、大振りの短刀の柄が腰から(のぞ)いている、いかにも狩人といった出で立ちで、共に、老婆と同じ狼の耳を持つ種族の成人男性がやるよう、やや長めに焦茶色の髪を刈り、その間から尖った耳が突き出していた。一人は片方に比べて髭が濃く、もう一人は幾分細身だったが、それ以外では個体識別が不可能なほどに似通(にかよ)っていた。特に何も言及しなかったが、兄弟だと(うかが)い知れた。

「ほう、ほう。まあ、これはまた、随分と別嬪(べっぴん)だ」

髭の狩人が少女を上から下まで眺め下ろして感想を述べた。細身の狩人も同じ感想を抱いたようだが、口には出さず、無言で手中の弓を背負い直した。ただどちらも最後には、狩人たちが姿を見せた時点で下ろした少女の(おおゆみ)に目をやった。

「なかなか、えらい得物を持っているじゃないか」

髭の狩人の揶揄(やゆ)する物言いに、少女は無言でうなずいた。

「俺らも『村のおばあさま』の棲家の方角に向かうんだ。一緒に行こう」

言うと、髭の狩人はさっさと少女に背を向けて歩き出した。少女はその幅の広い背に目をやり、次いで傍らに立つ細身の狩人に移した。細身の狩人は少女の視線を受けても口を開かず、歩き始める事も無かった。行く方角が同じである以上、断ったところで無意味である。少女は(おおゆみ)を背負い直すと、再び髭の狩人の背に目を()り、無言で後に続いて歩き出した。更にその後を、細身の狩人が続いた。


森に入った頃にはまだあった道らしきものは完全に消え、厚く繁った下草を分け、時季時候関係なく勢い良く葉を付けている木々の枝の間から漏れる陽光で辛うじて見定められる、元は真紅だった布地を頼りに、少女と狩人たちは歩き続けた。足下の土は踏み固められていない柔らかいものに変わっていて、一歩進むごとに長靴の底はずぶりと沈み、肥えた土の匂いを発して、少女の(まと)う頭巾の苦い香りを打ち消した。少女も狩人たちも同じなめし革の長靴だったが、少女のそれが厚い靴底を持つのに比べて、狩人たちのものは薄く軽い仕上がりで、倍はあるであろう体重差の割りに沈み込まなかった。

「村のおばあさまが何者か知っているか?」

不意に髭の狩人が問い掛けて来た。長靴を優しく包み込もうとする土に苦闘しながら進んでいる少女は、正面を向いたまま発せられた言葉が自分に向けられたと咄嗟(とっさ)に判断出来ず、返答が一拍遅れた。

「いえ」

「知らんのか。じゃあ、なんで嬢ちゃんが届け物をするように言われたと思う?」

「…(おきて)で、届けるのは成人前の女子でなければならない、しかし生憎(あいにく)、今の村には妙齢の者がいないから、と、言われました」

髭の狩人の、幅広の肩の辺りの筋肉が、綿入りの服越しでも見て取れるほどぴくぴくと動いた。

「くくくっ。最初に行方知れずになった使いの奴ぁ、村の狩人で髭面の大男だったぞ」言うと、少し間を置いて言葉を続けた。「『村のおばあさま』に届け物に出た連中が、最近は軒並み帰って来ないんだ。村の連中は言わなかったろうがな」

少女は無言で応じた。確かに、懇願に来た村長(むらおさ)や頭巾を渡してくれた老婆、その他の村の誰からも知らされなかった話しだが、予想が着いていた内容だった。ふらりと村に立ち寄った、身元不詳で一人旅だという少女に、大金を提示してまで頼む理由があるとすれば、それが危険で村から人員を出したくないということに他ならない。

「だから、あんたが選ばれたのさ。帰って来なくても、村の連中は誰も気にしないからな。余所者なら誰でも良くて、居合わせたのがあんただったから、成人前云々(うんぬん)と、もっともらしい理由を付けただけだ」

髭の狩人の声の調子には、明らかに少女を怯えさせることを(たの)しもうとしているのが見え隠れしていたが、残念ながら少女はその程度で怯懦(きょうだ)を覚える感性の持ち主では無かった。もっとも、平然とし過ぎていると不自然に思われる事は分かっていたので、表面上は顔を心持ち()せ、恐怖や、村人たちに裏切られた失意の念を抱いている様を演じたが。

「『村のおばあさま』の棲家から村までの一帯は、魔獣どもや獰猛な獣どもの縄張りからは外れているんだがな。群れからはぐれたか追われたのが彷徨(さまよ)い出て来ているのかもしれない。ま、とにかく、上手く仕留めりゃ良い金になる」

髭の狩人がどんな表情をしているのか、背後を歩く少女に見える筈もない。だが、今は、言及した魔獣や禽獣たちよりも余程獰猛な面構えなのだろうと、容易に想像出来た。

突然、それまで三者の移動によって発生する音以外は無音であった一帯に、きいきい、という甲高い音が響き、狩人二人と少女は足を止めた。少女は身構え、銃把(じゅうは)に手を掛けたが、狩人二人はほんの(わず)かな間足を止め、辺りを(うかが)ったただけで、矢にも短刀にも手を掛ける事無く、再び歩き出した。何か、少女の知らぬ禽獣の()き声だったらしい。髭の狩人が顔半分だけ振り返り、ひとの悪い笑みを浮かべた。

「怖いか。くく。まあ、仕方がない」

忍び笑い漏らしつつ男は顔を正面に戻した。その背に少女は小声で問い掛けた。

「何者、なのですか?」

「ん?」

「『村のおばあさま』」

「ああ」一拍置いて、髭の狩人は言葉を続けた。「あれはな、元王妃様、って噂なんだ。不義を働いたとか、王宮で権力争いに破れたとか、色々言われているが、王宮を追放されて、この森に幽閉(、、)されている訳だ。これ以上は無い場所だろう?なにせ、一歩棲家から離れれば、魔獣の餌食になっちまうんだから」

「王妃…何人目の?」

「一人目」

続けた疑問に答えた声は背中側からだった。細身の狩人の声を初めて聞いて、少女はやはりこの二人は兄弟だと確信した。今は背後から聞こえて来たために判別出来たが、もし二者が背を向けて立った状態で片方が声を上げたとしたら、どちらが発したものか判断出来ないほどに良く似た声だった。

「いえ、王様です。何人目の王様の、王妃様のことなのかと」

内心の思考とは別に少女が加えた捕捉に対し、今度は前方から答えが来た。

「ああ。良く替わっているからなあ。今の王の話では、勿論、無い。前に狼の耳を持った王が出たのは、十何年前だったか…とにかくその時の王と第一王妃の話しさ。そう、王妃も狼の耳を持っていて、この近辺の出で、ある時から病を(わずら)い実家で静養、ってことで表舞台から姿を消した。それでそんな噂が立ったわけだ」

それきり髭の狩人が黙ったので、少女も沈黙した。日は更に(のぼ)り、もうすぐ中天に達する。樹々に(はば)まれながらも届けられた光の中、三人は黙々と進んだ。


突として周囲の様子がはっきりと見える様になった。樹々の幹の表面の、()がれかけた皮や繁殖する苔の細部までが照照(しょうしょう)と見て取れる。明るい光が、上方ではなく、真正面、少女たちが向かっている先から流れ込んで来て、視界を鮮明に仕立てていた。これまで辺りに立ち込めていた、深い緑と湿った土の匂いが混じった空気とは別種のものが顔を()でた様な感覚を、少女は覚えたが、前を行く髭の狩人は少女が感じたような感触は感じていない様で、足を機械的に動かし続けていた。すぐに、光の出所、出立した村の中央広場と同じくらいの、開けた場所に出た。天然のものでは無い。何者かが、鬱蒼(うっそう)と生える樹々や薮を伐採し、切り株を(えぐ)り、草を刈り、どこからか多量の白い小石を持ち込み敷き詰め下草の繁殖を(さまた)げた結果、出来た広場だった。

端から数十歩の距離、広場のほぼ中央に、煉瓦(れんが)を積み、屋根板を張った、質素だが、造りはそれなりに頑丈であっただろう小さな箱のような家屋らしきものがあった。頑丈だった(、、、)だろう、というのは他でもない。その家屋の屋根が()がれて、垂直に降る陽光が屋内に注ぎ込まれているのが遠目にも見て取れたのだ。

少女を含む三者は、広場と森の境で一旦足を止めていたが、髭の狩人が無言で腰に装着した短刀を抜き、細身の狩人は矢をつがえ、(つる)を引いた。狩人二人が得物を構えたので、少女は(おおゆみ)を抜く事はせず、代わりに周囲を見渡し、様子を(うかが)いつつ、大股で一歩踏み出した髭の狩人の後に続いた。

近づくに連れて少女の目の高さからは屋根の損傷が見えなくなって来たが、代わりに家屋の壁の痛みが目が着く様になり、同時に遠方から見たときに『箱』だと感じた理由に思い至った。少女たちの方向からは、窓や扉といった外部と内部を(つな)ぐものが一切見当たらないのだ。

「…おいおい」

家屋の傍にまで近づいた髭の狩人が屋根を(のぞ)き込みつつつぶやいた。髭の狩人の身長では、爪先立ちで立てば屋根の状態が目に入る。

「差し入れと明かり取り用の窓から破られたんだな」

短刀の刃先で、残っている屋根板をつつきつつ、続けた。細身の男は家屋を背に油断無く身構えて、周囲の様子を(うかが)っている。屋根の状態が見られない少女は、警戒は解かずに横手に回り込んだが、その面も一面が煉瓦の壁になっていて、やはり窓も扉もなかった。髭の狩人が道中で口にした、幽閉、という言葉が思い出された。屋内の誰かを外に出すつもりが無いのであれば、扉は勿論必要ないし、窓も採光と食料やら何やらを入れるだけの隙間があれば事足りる。魔獣がうろついているという立地を考えれば、逆に外から突破され(やす)いそれらは、極力(ふさ)いでしまった方が安全なのかもしれない。

内心で色々考えを(めぐ)らせながらも辺りに気を配っていた少女は、ふと違和感を感じ取り、顔を広場の外に向け、一歩二歩横歩きで狩人たちの傍に寄った。狩人たちも異変を悟っていたらしく、髭の男は短刀から弓に持ち替えて、広場の外側に矢尻を向けて(つる)を引いていた。

遠吠えが響いた。一つ二つではない。樹々の間隙を縫い幾つもの咆哮が響き、呼応する様に別の吠え声が上がり、広場の外周を描くかの様にこだました。ばさばさと羽音と葉音が同時に立ち、遠くの樹々から黒い影が飛び去った。少女は頬の片側を一瞬ぴくりと痙攣(けいれん)させたが、次の瞬間には手早く背の(おおゆみ)を下し、構えていた。細身の狩人は、視線をちらちらとあちこちに彷徨(さまよ)わせていたが、ふっ、と軽い息吐き出すと、(ささや)いた。

「囲まれた」

髭の狩人と、少女もうなずいた。少女たちの立っている広場が明るく、逆に周辺は木陰であるがため、吠え声の主たちの姿は見えない。だが、始まったときと同じ唐突さで遠吠えが止むと同時、先程の鳥かなにかが一斉に飛び去った際に立ったのとは別種の葉音が(かす)か起こり、そしてその音がじりじりと接近して来ているのが、葉音以外の音が消えた中、はっきりと耳に届いていた。少女は広場の外周に生えている樹々や下草の動きに注意を向けつつ、背後の家屋にも注意を向けた。吠えるものたちが、家屋の陰や、(ある)いは屋根の上から飛びかかって来る可能性もある。

結局のところ、次に動いたのは少女たちの右手の下草だった。遠吠えから狼や狼に似た魔獣を想像していた少女は、下草の揺れと共に突如姿を現した予想より大きな影を目にし、未知の魔獣だと考えたものの、すぐに己の間違いに気が付いた。(とが)った狼の耳を持ち、頭部と顔面の下半分が黒茶の長毛に覆われているが、首から下の胴体には毛皮でなく襤褸(ぼろ)(まと)い、やや背を丸めて二本の脚で立つ生物。頭巾を渡してくれた老婆や、(かたわら)らに臨戦態勢で(たたず)む二人の狩人と同じ、狼の耳を持つ種族の、頭髪と髭を伸ばし放題に伸ばした、男性だった。

「あれが…」

ぽつりと漏れたつぶやきは、髭と細身と、どちらの狩人のものだったのか。次の瞬間には、(くだん)の男が首と上半身を()()らせると同時に上げた、およそ狩人らと同じ造りの喉から発せられたとは思えない咆哮に()き消された。咆哮そのものではなく、見掛けはどうにか狼の耳を持つ種族だと判別出来る姿から上げられた獣じみた叫び声に、少女は例え様の無い不快と不気味さを感じ、半歩後退(あとずさ)った。男の咆哮の(なか)ば、広場の周囲の下草と薮が騒ぎ、呼応した十数頭の漆黒の色をした狼、もしくは狼に似た魔獣が姿を見せた。

それらに目を走らせ、目視で確認出来るのは十数頭だが奥にはまだ控えがいる、と少女は見切り、二人の狩人を見遣(みや)った。家屋の中に一旦立てこもるのか、一挙に血路を開き連中の包囲を破るのか、とにかくどう力を合わせて逃げ切るかを、少女は問い掛けたかったのだが、目に映った狩人たちは、静かに弓矢を構えながらも、妙に熱を帯びた目で、同種族の男を凝視していた。

己と違い、男に対して驚愕も、不快さも見せず、むしろ迷う事無く標的としているその様子を見て、少女は初めからこの二人が『村のおばあさま』の家屋周辺に出没しているものの正体を把握し、それ目当てで森に入ったのだと悟った。少女は考えを変えた。この二人が(くだん)の男とその周囲の漆黒の生物を相手にしてくれるというのなら、その隙に逃げるだけである。少女は腸詰めと果実酒の入った籠を、そっとその場に置いた。『村のおばあさま』に直接届けはしていないが、棲家まで持って来たのだから依頼は完了だろうと勝手に結論付けた。正体不明の男とその仲間たちは、先刻より少しずつ間を詰めて来ている。男の姿は今や広場にあり、一日の中で最も強い陽光に照らし出されていたが、何せ目元を除いて毛髪で覆われているので顔立ちは分からない。ただ、襤褸(ぼろ)の下の身体は、身長こそ少女よりも狩人たちに近いだけはあったが細く、肉の着き方がまだ若い、というより成人のそれでは無いことが見て取れ、せいぜい生まれから十数年しか()っていないことが察せられた。

筋肉が収縮した音を少女は聞いた気がした。実際には(つる)を限界まで引き絞った音だったが、筋肉が発したと勘違いするほどに、狩人たちの腕は筋立っていた。一拍の後、風を裂き、二人の狩人が(わず)かな時間差をつけて放った矢が、弓の射程距離に入った男に向けて肉薄した。いくら動体視力の優れている狼の耳を持つ種族であろうとも、両方を避ける事は身体能力的に無理だと思われる、見事な射撃だった。だが男はまるで子供が投じた泥団子を避けるかのごとく、宙を舞い身を(ひね)り、軽々と二本の矢を交わし、地に降り立った。同じく動体視力に自信のある少女は、男が矢を(かわ)すにしろ受けるにしろ動作を終え、男か男の仲間たちが狩人たちを狙う瞬間に逃げ出すつもりで、その動きをしっかりと見ていた。予想外だったのは、地に降り立った男が、まともに少女を見た事だった。

視線が合った事を少女が自覚したのとほぼ同時、男は下りたばかりの地を全力で蹴り、真っ直ぐに異常な速度で少女に迫った。こちらも思いがけない早さで次の矢をつがえていた狩人たちだったが、それぞれの二撃目は男が走り抜いた軌道を射ただけだった。

男が少女に飛びかかり、少女が男によって裂かれ、血と臓腑を撒き散らす光景を狩人二人は見た気がした。だが実際には、少女は男の皮が硬く変形した指先が触れる寸前、身軽に横に跳び、男の一撃から逃れた。獲物に逃げられた男は、勢いそのままに家屋に追突しそうになったものの、片腕を壁について基点とすると共に家屋のすぐ手前で踏み締めた両脚の力で強引に方向転換した。地面に()かれた白い石とその下の雑草と土が(えぐ)り取られ、空を舞った。再度襲いかかられた少女は、またもう一度、身を(ひるがえ)して攻撃を()けた。寸前まで少女と男のいた位置の地面に数本の矢が突き刺さった。更に一度、少女が男の腕から逃れたときには、少女は家屋からはかなり遠ざかっていた。取り囲んでいる男の仲間が狼にしろ狼に似た魔獣にしろ、集団で狩りをする習性があることは確かなので、己を広場の隅にまで追いやり、仲間に任せるつもりなのか、との考えが少女の頭に去来した。男が何度目か、肉薄してくる。少女は身を低くして男に向かって突っ込んだ。思いがけなかったのか、少女の姿を見失ったのか、男の駆ける速度が一瞬(ゆる)んだ。少女は地に身を投げ出し、男の足元を転がってすれ違ったが、直前で少女の動きに気が付いた男が裸足の足で放った蹴りが脇腹を(かす)めた。少女は息を詰まらせながら立ち上がり、男に正対すると共に横目で広場の端に沿って見張っている生物を確認しようとして、(わず)かに動きが止まった。停止を見逃す事無く攻撃して来た男を慌てて(かわ)しつつ、少女は改めて広場の周囲に目をやり、男が少女を追い立てていた方角にいた男の仲間たちの姿が無くなっている事に気が付いた。他の箇所では依然広場を包囲し、時折近づき過ぎ弓の射程圏内に入ったものが狩人二人から矢を掛けられていた。

はっと、少女は老婆の渡してくれた頭巾の二の腕の辺りの布地を(つか)んだ。この真紅に染められた苦い香りの頭巾が本当に魔獣を遠ざけるもので、男の仲間が狼でなく、狼に似た魔獣なのであれば、少女には近寄れず、唯一魔獣では無い眼前の狼の耳を持つ種族の男のみ近づける。男は少女の頭巾を奪い取る役目を(にな)っているのだ。

そうであれば話しは早い。この男さえ何とかすれば、魔獣たちの包囲網など意味を成さない。何度目か、飛びかかって来た男から逃れた少女は、一気に狩人二人が直前に矢を射掛(いか)けた地点に向けて駆け出し、走りつつ、その地点から少し外側で身構えていた魔獣の一体に向け、(おおゆみ)を射た。魔獣は飛び退(すさ)り、寸分違えずそれまでいた位置に、(おおゆみ)の矢が刺さった。少女の背後で(うな)り声が上がった。射撃の分だけ速度の落ちた少女に、男が追いつき、少女に手を掛けようとした正にその時、矢の風切り音が立った。少女は前行動無しに進行方向と直角に無理矢理跳んだ。どう、と音がして、直前まで少女のいた位置に、男が倒れ込んでいる。口の辺りの髭が動き、白い歯が見え隠れし、その隙間から、(かす)かな悲鳴と(うな)りと泡が漏れ出た。少女を狙う余り、狩人たちへの注意が(おろそ)かになった男が、太腿と首筋に受けた矢を抜こうともがく。二本の矢はどちらも、距離があったためか致命傷には至っていない。無理な跳躍の結果、受け身は取ったものの身体全体で地面に着地していた少女は冷静に身を起こすと、(おおゆみ)(ぬめ)った光を放つ男の片目を打ち抜いた。

絶叫が広場を埋めた。男は横たわったまま必死に目に刺さった人差し指ほどの長さの矢を引き抜いた。狩人たちの矢とは逆に距離が短過ぎたせいで、(おおゆみ)の矢は男の眼球で止まり、その後ろの器官を傷付ける事は出来なかったらしく、目尻からだらだら流れ落ちるのはほぼ透明な液体だった。小石を踏む音が立ち上がった少女の(かたわ)らをすり抜ける。髭の狩人が、のたうつ男の上半身を地面に押し付け、その背に馬乗りになり様、背中から心臓に向けて短刀を突き刺し、手首を(ひね)った。静寂が訪れた。髭の狩人は男の髪を(つか)んで頭部だけ仰向(あおむ)かせた。口と鼻周辺の髭が息で動かず、見開かれたままの男の残った片方の目に光が無い事を確認して、髭の狩人は髪を放し短刀を抜いた。短刀から流れ落ちる鮮血の強烈な匂いが鼻に突いた。

魔獣たちの遠吠えが広場に(とどろ)き、次いで茂みががさがさと音を立てた。不利を悟った魔獣たちが森の中に引き返して行く音だった。


傷口から流れる血が枯れた頃になって、髭の狩人は男の身体の上から退()き、立ち上がった。くたりと地面に横たわった男の身体は、動きを完全に停めてから久しく、今は伸び放題に伸びた毛髪と襤褸(ぼろ)相俟(あいま)って、打ち捨てられた廃棄物以外の何物にも見えなくなっていた。髭の狩人はどこからか取り出した布切れで短刀の刃先を(ぬぐ)うと、(いま)だ弓を構えたままの細身の狩人に目配せを送り、男の(しかばね)から数歩、距離を取っていた少女に、二人同時に視線を向けた。

少女は何とは無しに事情を飲み込んでいた。髭の狩人が話してくれた噂話しは大筋で真実を語るもので、『村のおばあさま』は(すなわ)ち幽閉された元王妃、『お使い』が、村人たちの哀れみから自主的に行われているのか、何者かに依頼されていたかは不明だが、とにかく数回前、腸詰めや果実酒を受け取っていたその時までは『村のおばあさま』は健在だった。その後、破られた屋根と役目の者が姿を消す様になったことを考えあわせれば、故人になったのだろう。

語られなかった事もある。眼前の息絶えた男の事がそうだ。少女は、男が『村のおばあさま』の生んだ子だと決めつけた。そうでなければ、今、二人の狩人が少女を一瞥(いちべつ)した後、(やいば)を向けて来ている説明が付かない。男が、生まれてすぐ森に捨てられ狼に似た魔獣たちと行動を共にする様になったのか、普通に育ったものの『村のおばあさま』の死後、急速に魔獣たちに染まったのか、それは分からないが、帰って来ない村人の話からある程度の事態を把握したお偉方が、慌ててやんごとなき血筋の子の始末を命じて刺客を送り込んだということであれば、この状況も理解出来る。少女は見てはいけないものを見てしまったのだ。

少女は人知れず苦笑いを口元に浮かべ、(おもむろ)に手前の、髭の狩人に(おおゆみ)を向け、引き金を引いた。片方が弓、片方が短刀という構成から考えて、少女が逃げ出せばその背に矢を射掛(いか)け、その場で抵抗しようとすれば短刀で斬りつける、という攻撃を繰り出そうとしていたのだろう。髭の狩人は素晴らしい身のこなしで(おおゆみ)の矢を()けた。そのまま少女が二撃目を放つ前に決着を付けるつもりだったのだろうが、一歩踏み出しかけたところで、派手な音を立てその場に倒れた。

「え?」

細身の狩人が、一瞬だけ(かす)かな声を上げ呆然とした表情を浮かべ、倒れた。

どう見ても訓練されている狩人もとい刺客二人を相手に、少女は正攻法を(もち)いるつもりは毛頭無かった。(おおゆみ)を囮にし、そちらに二人の注意が向けられた一瞬、少女は一時的に意識を失わせる魔法を放っていた。

少女は(きびす)を返すと、軽やかな足取りで家屋の前に移動し、少女が置いたそのままになっていた籠を取り上げ、再び足取り軽く、意識の無い二人の刺客の(かたわ)らに(おもむ)き、籠を二人の間に置き直した。傍にある、刺された男の傷口は既に乾いていたが、周辺の空気にはまだ血の匂いが漂っており、そこに腸詰めから発せられる匂いが混じり、より一層広がった。

少女は頭巾を(かぶ)り直した。苦い香りが少女を包み、血生臭さを遮断した。(かたむ)き出した陽光の下、少女は弾むような足取りで元来た方向に歩み出した。頭巾が遠ざかって行く今、狼に似たあの魔獣たちが広場に戻って来るのは時間の問題で、それまでに刺客たちの意識が戻るかどうかは天のみぞ知ることである。少女は役目を終えた。村に戻って頭巾のお礼を言い、すぐに立ち去る。少女が考えているのは、ただそれだけだった。

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