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孫の手

作者: 羽生河四ノ

夏のホラー2015用作品です。ただ、参加表明で書いたのとこれは違うんですよね。参った。

 その家はごくごく普通の住宅街の只中に建っていた。築年数はもうどれくらいになるだろうか。

 そこに住む老夫婦は若い頃に結婚をしてその家を建てた。やがて現在に至るまでとても多くの時間をこの家で過ごした。勿論ただ過ごしたわけではない。その時間の中で様々なことがあったはずだ。

 本当に様々なことが。

 ただ、

 その家はここ一ヶ月で急激に草臥れた様に見えた。誰の目にもそう写った。


 実際にそうであったろう。


 それに草臥れたのは家だけではない。そこに住んでいる老夫婦もまた同様に、この一ヶ月ばかりでずいぶんとくたびれてしまっていた。





 こんこん、こんこん。




 その日、その老夫婦の草臥れた家に一人の若者が訪れた。



 こんこん、こんこん。



 「なんだ?」

 老人はドアを開け、それが誰かも確認せずに言った。ドアを開けた老人はやはりずいぶんと草臥れていた。

 それだから彼は今、誰かとしゃべれる気分でなかった。そしてそれは奥にいた老夫人にしても同じことであった。老夫婦は今、誰ともしゃべれなかったし、しゃべりたく無かった。それは今後一生、彼らが死ぬまでそうだろう。



 「はじめまして。アラスラスジというものです」

 尋ねてきた若者は老人を見て言った。その若者は老人達のことなど一切気にしないまま、屈託の無い笑顔でニコニコと笑ってそこに立っていた。


 「すまないが、今誰とも話をしたくない。帰ってくれ」

 老人はそう言って玄関のドアを閉めた。


 しかし、完全に閉まる直前、そこに外からぬっと靴が入り込んだ。


 驚いて老人が顔を上げると、しまりかけのドアの隙間に若者の顔の一部があった。

 「なんだ貴様」

 老人が搾り出すようにいうと、

 「お孫さんが自殺した理由、知りたくありませんか?」

 若者は僅かに開いたその隙間から笑いながら言った。

 「あああああああ」

 家の奥でこちらを伺っていた草臥れた夫人の泣き崩れる音が老人の耳に届いた。



 「これはお孫さんの手です」

 アラスラスジと名乗った若者が、通されたリビングで座るなり老夫婦の前に出したのは手だった。肘から上の部分だった。

 「あああああああ」

 夫人は見た瞬間その手を掴み抱きしめ、また泣き、そして叫んだ。

 老人はその光景をしばらく眺めていたが、

 「どうしてお前が孫の、敬一の手を持っているんだ」

 やがて気丈な態度で若者にそう問うた。

 「拾いました」

 若者はすぐになんでもないことのように述べた。

 「拾った?」

 「はい。そうです」

 老夫婦の孫であった敬一は、一ヶ月前、通学路上にあった陸橋から飛び降り自殺をした。そして落下した敬一の体はそこに来た快速電車にはねられて、ばらばらに、滅茶苦茶に引き千切れた。その後、駅員や警察が敬一の回収作業をしたものの、右の肘から先は何処を探してもまったく見つからなかった。


 「どうして!?どうして見つからないんですか?どうして!?見つけてください!お願い!お願いします!敬一を全部見つけてください!お願いします!」


 隣で泣いてる夫人が警察署でも同様に泣きながら土下座をして頼み込んでいたのを老人は今でもしっかりと覚えていた。それは忘れたくても忘れられない光景の類だった。

 きっとこのまま一生忘れることはできないだろう。死ぬまで。老人はそう思っている。


 しかし結局、片腕は見つからないまま、それ以外の部分だけを集めて、敬一は修復をされた。引き攣れてしまい、今まで見たこともない、全くの別人になった敬一は、片腕の無いまま、葬式を行い、焼かれ、骨になった。


 『もうこの世界には生きていたくありません。生き返りたくもありません』


 その後、孫の部屋を整理していたらそのように書かれた紙切れが見つかった。

 家族のことも、学校のことも、自殺の原因すらも何一つ書かれておらず、ただ、それだけが殴り書きの文字で書かれていた。


 「あああああ敬一いいいい敬一いいいい」

 夫人はその孫の手に頬ずりするようにして泣いた。そして彼女は孫の手を頑として放さなかった。夫である老人にも一度も触らせず、夫人は孫の手を掴んだままずっとそのまま泣いていた。

 「よかったですね」

 老人がそんな状況に困惑する中、アラスラスジは自分は一切関係ないという顔をしてそう述べた。


 仕方なく老人はただただ泣いている夫人をリビングから、仏間に連れて行き、そこで布団を敷いて夫人を横にさせた。その間夫人は自分では一切動かずに、ただずっと泣いたまま孫の手を抱きしめていた。

 「少し眠りなさい」

 老人はそう告げて、仏間に夫人を残し、自分はリビングに戻った。



 「お孫さんが自殺した理由知っていますか?」

 アラスはリビングに戻ってきたばかりの老人に向かって告げた。

 「どうして、ココに持ってきたんだ」

 老人はその質問には答えなかった。孫は死んで骨になって両親より、我々よりも早く墓に入った。それからやっと一ヶ月が経過したところだった。それは老人の生涯で一番長い一ヶ月だった。だから老人はそれを今更知ってどうなるのかと思っていたし、もう知りたくなどなかった。

 「ご両親のところに持っていっても、どうにもなりません。あの人達は貴方よりももっと深刻な状態です。貴女の奥様みたいな状態じゃないですか?そしたらあなたが一番まともだ。だからココに持ってきたんです」

 アラスはお茶を飲みながら言った。

 「そうか、それはそうか」

 老人はそう言ってため息をついた。この一ヶ月で世界は変わった。

 敬一が自殺してから、老人の息子は子供が通っていた学校に駆け込んだ。職員室で「いじめがあったのではないか!?」と怒鳴り騒ぎ散らし暴れ回った。今まで生きてきて、普段温厚な息子がそんな状態になったのを見たのは、その時がはじめてだった。そして「いじめは無かった」と釈明する校長を殴りつけ、校舎の屋上から落とそうとした。そして警察沙汰になった。現在拘置所に居る。息子は校長を突き落としたあと、自分も落ちて死ぬつもりだった。

 息子の嫁は敬一の納骨が終わるのを待ってから自宅の風呂場で自分の手首を出刃包丁で切断した。見つかったとき風呂場は血だまりになっており、手首は皮一枚でくっついているような状態だった。「死なせてください、あの子が一人でかわいそうだから死なせてください」彼女は救急隊員に運ばれる時はっきりとした声音でそのようにそう繰り返した。そして現在は意識不明で入院中。大学病院に居る。

 そして夫人はあのようにいつでもずっと夢の中にいるような状態になった。普通に生活していても、急に叫んだり、泣き出したりする。トイレに閉じ篭って何時間も出てこない時もあった。

 老人自身も既に鬼籍に入ってしまったように老け込んだ。何を食べてもそれがなんなのかわからない、味も何もない。感じない。そんな風に様になった。

 このように孫の自殺によって、彼らを取り巻く世界は変わった。一ヶ月で大きく変わってしまった。


 「どうしてだ。どうして今更になってあの手を持ってきた?」

 老人は苦いものを飲み込むような顔で言った。

 本当にどうしてだ?

 どうしてそんな事をしてくれた?

 どうして今になって持ってきた。やっと収まりつつあったこの状況をなぜ今更また波立たせるようなことを?

 現に妻はまた、

 『ああああああ』

 ああなってしまった。


 ぱん。

 その音で老人は我に帰った。

 みるとアラスと名乗った若者が目の前で柏手を一回叩いたところであった。

 「お孫さんが自殺したのは、学校でのいじめによるものです」

 アラスは突然大きな声で言った。

 「何だと?」

 それを聞いた瞬間、今にも壊れてしまいそうだった老人の目に仄暗い光が宿った。

 「お孫さんは学校でいじめを受けていました」

 「なぜお前が、ううう」

 しかし今度は突然、老人の胸に鈍い痛みが走った。

 「ところで、ジェイコブズの猿の手をご存知ですか?」

 「うう、し、知らん」

 今度は老人の胸にはっきりと明確に痛みが走った。それはドンドンと激しいノックのような痛みだった。まるで今まで無理やり押さえつけてきた多くの感情がすさまじい膨張を起こし今にも破裂してしまいそうな。そんな痛み。

 「昔の外国の小説です。その小説は、ある老夫婦と息子が願いを叶える猿の手を得るところから始まります」

 しかしアラスは老人の事など一切かまわず淡々と語り続けた。

 「願い?」

 老人は胸を抑えた。押し付け静かにさせるように。

 「そうです。その手には三つほど願いをかなえる魔力が宿っていました」

 「みっつ」

 老人は痛む胸を抑えながらうわ言のようにそう繰り返した。

 「しかし」

 「しかし?」

 今それ以外、何も考えられない。

 「その願いをかなえる為には」

 アラスの口はそこでピタリと止まった。


 「何だ?一体」

 老人は尚もじくじくと痛み続ける胸を押さえながら聞いた。そうしないとこの胸の痛みに殺されてしまう気がしたから。

 「いえ、ところでさっきお見せしたお孫さんの手、あの手にも同様の願いをかなえる魔力が宿っています。猿の手と同様に三つ」

 アラスの声は相変わらず大きかった。

 「声を少し下げてくれないか」

 老人の額からはテラテラと脂汗が垂れていた。

 「すいません。でも、どうなるのかなと思ったんです」

 アラスは声を下げそのように謝罪を述べた。しかし相変わらず老人の体調等一切気にしている風ではなかった。

 「どうなるというのは何だ?」

 老人は痛みを押さえつける事に必死だった。

 「願い、叶えられるとしたらどうですか?」

 アラスはまた最初のようにニコニコと笑って言った。

 「願い、そんなもので、かなえられるんだったら、それは楽だろう」

 老人は言った。やっと不意に胸の痛みが引いていく。長く続くトンネルを抜けるような。

 「そうですね」

 アラスもそう同意する。

 「ちなみに、その小説の老夫婦は何て願う?」

 思考が戻りつつあったので、老人はそう聞いた。

 「さあ、そこまでは僕も覚えていませんね、何せ昔の小説ですから・・・」

 アラスは残念そうに言った。

 「そうか」

 しかし老人はそれを信じていない。こいつは知っている。老人にはそれが分かっていた。しかし、それにしても敬一の手に願いを叶えると言う魔力がある事が信じられなかった。


 馬鹿げてる。


 「でも」

 アスラはまたそのような不自然なタイミングで会話を切った。

 「なんだ」

 「本当に魔力が宿っていたとしたら、お孫さんの事を誰がいじめていたか知りたくないですか?そして」

 貴様はここに何をしに来た?


 「そいつに復讐したくないですか?」


 アラスはまた大きな声を出した。

 「誰に向かって言って」

 老人は目の前に座った若者の目線を見て、はたと立ち上がり、

 「貴様」

 とだけ言ってリビングを出た。


 アラスをリビングに残したまま、老人は急いで仏間に向かった。




 「うう、ううううううう、うううう」

 老人が仏間の扉を開けると夫人は布団の上で丸くなって、そう唸りながら小刻みに震えていた。

 「バカなことを」

 老人にはそれだけでもう全てがわかっていた。

 「おいお前、しっかりしろ、お前はその腕に何を願った」

 老人は妻を起こして言った。

 「うううう、うううう、うううううう」

 婦人は相変わらず孫の手を離さず自分の体に抱きしめたまま、体を震わせて泣いていた。夫人はしゃべれないほど泣いていた。

 「何を願った」

 老人は体を揺さぶってまたさっきと同じ質問をした。

 「う、うう、ううううう、あ、あの子が、あの、子が」

 夫人は自分でコントロールできないほど泣いていた。涙をぼろぼろと流して泣いていた。

 「どうした?何を願った」

 老人は辛抱強く同じ質問を繰り返した。

 「うう、あ、あの子、あの、あの子が、ううううう、あの子が、い、し、遺書に、遺書に」

 「どうした。おい。しっかりしろ。おい」


 「あの子が、あの子が、遺書に、遺書に、生き、生き返りたくない、生き返りたくないって、書いた、書いたんです。うううう、だ、だから、だから、だからだからだから」

 「お前、何を」

 老人がそう言った時、

 「だから私、私、私、あの子をあの子を、あの子を自殺、自殺に、自殺に追い込んだ奴が、そんな奴が、そんな奴がいるならいるなら」

 「うう」

 また自分の胸に走る痛みを感じた。ドンドンとノックをするような。それはそんな規則的で精巧な痛みだ。



 「殺してくださいと」


 ああ、そうか。そうだろうな。老人は思った。


 「大丈夫。大丈夫だ。この手にそんな力があるわけが」

 老人は胸の痛みも忘れて妻を落ち着かせようとした。


 「そ、そうやって、そうやってねが、願った、願ったんです、私はこの、この腕に、腕に願った、願ったんです。うう、ううううう、あの子が、あの子が、あの子が、憎い憎いと憎いと思って自殺した、あの子が、殺してくださいと願った願ったんです願った願った願った願った願った願った願った願った願った私は私は私、私私私私私、私は私は殺してくださいと、願った、人殺し人を人を人を人を人人人人人人人人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し殺し殺し殺し殺し殺し」



 錯乱していた妻を宥め必死で落ち着かせ、なんとかかんとか苦労をして寝かしつけた後、老人がリビングに戻ると、既にあのアラスと名乗った若者はいなくなっていた。


 「あんな手で」

 老人はその痕跡すらも一切消えてしまったリビングを見て、そう呟いた。







 「・・・報です・・・県・・・市の中学校・・・今朝・・・学校の・・・徒・・・教員・・・が・・・でいるのが発見され・・・この学校では・・・先月・・・生徒の・・・殺を・・・」




 老人はその日、漏れ聴こえてくるテレビの音で目を覚ました。

 「なんだ」

 老人はだるい体をなんとか起こして、テレビのあるリビングに向かった。

 寝室の窓からは朝の光が注がれていた。自殺した孫がいる老人にはそんな事などどうでもいいことであったが、どうやらその日はいい天気の様だった。


 「どうした」

 しかしリビングに夫人はいなかった。


 テレビだけがついており、その画面にはニュースが映っていた。


 「こんなこと信じられません!」

 中継の女性キャスターが引きつった顔で半ば嗚咽の様に叫んでいた。それは老人にとって、敬一の死に顔を連想させた。


 陸橋から飛び降り、快速電車に引き潰され、すり潰されて、めちゃくちゃになった敬一。しかし失った片腕以外の部品を集めて、それを修復した。そして人間としての形には戻った。


 しかし、


 それは、


 敬一の部品を集めて作ったそれは、


 その顔は、


 老人にはそれが、その顔が、とても生前の知っている敬一だとは思えなかった。


 知らない人間だった。


 引き攣れた顔。


 老人は最後の別れの際、それを見た。


 それは、


 老人が見たそれは奇妙に、




 「ひどい状況です。こんな、ああ、どうして」

 テレビの中でキャスターが叫んだ。老人はその声で我に返り、テレビ画面を観た。

 「ひどい、なんで、あたりには酷い臭いが充満して、うう、うええ」

 キャスターが画面の中でえずいた。顔色が悪い。涙目になっている。しかしカメラはそれを避けるわけでもなく、ただキャスターとそれ以外の風景を画面に映し続けている。


 老人はその画面の中の風景に見覚えがあった。


 「おい」

 老人はリビングを出て、妻を探した。

 「どこにいる?おい」


 夫人は昨日のまま仏間にいた。


 「おいお前、起きろ。大変だ」

 老人はそう叫びながら寝ている妻の体を揺すった。妻の体は抵抗もなく、ただ老人に揺すられるままに揺れた。

 「おい、起きてくれ。おい、大変なんだ」

 老人は老いた妻の枕元に何かが置いてあるのを見つけた。

 それは紙切れだった。


 「お前」

 老人の言葉はそこで切れた。


 『孫の居ないこの世界には生きていたくありません。生き返りたくもありません』


 紙切れにはそう書かれていた。


 枕元は赤黒く汚れていた。妻の首にはかっぱ橋で買った柳包丁が刺さっていた。柄の部分までしっかりと刺さっていた。妻は事切れていた。


 妻の首はめちゃくちゃになっていた。何度も包丁を刺したんだ。 老人は思った。何度も刺して、抜いて、刺して・・・、


 めちゃくちゃになるまで。


 「ひい」

 老人の口からそのような息が漏れた。妻の顔には何の表情も宿っていない。まるで無表情なのだ。妻は死ぬまで自らの手で包丁を何度も刺しては抜いたはずだったのに、それなのにどうして、そんな、


 それに、


 その顔は、


 そんな顔の妻を夫である老人は今まで一度も見たことがなかった。


 今まで見たことも無い顔で妻は死んでいた。


 その顔は、


 少し引き攣れて、


 まるで、


 それは、


 妻はドロドロした血で染まったその手に孫の、敬一の手を握り締めていた。



 「全員死んでいます!全員です!この学校の全員がです!生徒全員と、教師全員、それに学校関係者全員が、昨夜のうちにここに集まり、そして皆が五階建てのこの校舎の屋上から飛び降りました。一体、一体ここで昨夜何があったのでしょうか!?」

 リビングでつけっぱなしにしていたテレビの音が大きくなった。

 「信じられない。そんなの信じられない!」

 キャスターはまた新たに何かを知ったようだった。

 「し、信じられない事に、他の自殺者の体によって死にきれなかった方々がもう一度階段を上り、再び自殺した形跡があるそうです!両足がめちゃくちゃに折れているのにです!」


 キャスターの声は興奮していた。


 めちゃくちゃに。


 妻の首。


 敬一の手、


 敬一。


 敬一も、


 電車にひき潰されて、


 めちゃくちゃになって、


 それで、



 老人は気持ち悪くなってともかく一旦仏間を出た。トイレに向かう途中、我慢できなくなってそのまま廊下で吐瀉した。ろくに何も食べていなかったのに、それはずいぶんと勢いよく出た。


 「この学校では一か月前にある生徒が一人自殺をしています。陸橋の上から飛び降り自殺をしています。今回のこれはそれと何か関係があるのでしょうか!?」

 テレビのキャスターのその声を聞きながら、老人はただただ、吐いた。



 洗面台で口をゆすいだ老人がリビングに戻ると、そこに昨日のあの若者が座ってテレビを見ていた。

 「おはようございます」

 アラスラスジは言った。

 「お前、お前、これは、これはなんだ!お前が、お前が何かを」

 老人はその姿を見るやいなや、若者に駆けより、その胸ぐらを掴んだ。

 「お前が何かをしたのか」

 老人は若者を殴りつけて叫んだ。


 「あなたの奥様が望んだんでしょう?」

 若者は殴られたことも気にしないまま、昨日と同じようにニコニコと笑いながら言った。

 「何が、貴様、何を言って」

 老人はそう言いながら妻の死に顔を思い出した。それに連鎖するように敬一の引き攣れた顔もフラッシュバックした。


 「奥様は『孫を、敬一を自殺に追い込んだ奴を殺してほしい』と願いました」

 アラスは胸ぐらを掴まれていることも気にしないで言った。

 「だからその願いをあの手が叶えて、皆死んだんじゃないですか?」

 アラスは言った。

 「なぜ全員死ぬ必要があるんだ」

 老人は叫んだ。

 「ははははっ!はははっはははっははっははははは!」

 若者は笑った。

 老人は驚き、まるで汚いものを自分から遠ざけるようにその若者から手を放した。


 「だってみんな知っていたんですよ。あの学校のみんな」

 アラスは言った。

 「んふふっ!でも誰も何もしなかった。敬一くんは空気だったから」

 アラスは顔を歪ませて言った。悲しんでいるのではなく、笑っているのだった。

 「だから死んだ」

 老人の胸に痛みが走った。ノックのような痛み。ドンドンと激しい痛み。

 「やめてくれ」

 老人の意識は飛びそうになっていた。

 「みんな死んだ」

 「やめ」



 『りりりりりりりん』



 突然、携帯電話が鳴った。

 老人は反射的にそちらを向いた。

 リビングテーブルの向こう側に老人の携帯電話が置いてあった。携帯電話は点滅と振動と音を繰り返している。

 「どうぞ?」

 アラスはそれを掴むと、老人に手渡した。

 

 「もしもし」

 老人はノックで痛む胸を押さえて、電話に出た。

 「もしもし、こちら東京拘置所です。ご子息が死亡しました」

 男は電話口でそれだけを述べた。

 「何だと?」

 老人には意味が分からなかった。

 「何だ、何が、これはどう言う事だ?」

 老人は言った。それは、電話の相手にではなく目の前で笑顔で立っているアラスに対して言った言葉だった。

 しかし電話口の声は続けた。

 「ご子息は拘置所でどのような方法なのかはまだ分かりませんが、房から抜け出し屋上に上がって、そこから飛び降りました。顔面から落ちた為に、発見した際は既にめちゃくちゃになっていましたが、ご子息の背丈や血液型から間違いないものと思われます」


 めちゃくちゃ。


 「また、房の壁に遺書と思われる書置きが残っていました」

 「なんと、何と書いて」

 しかし聞かずとも老人には分かっていた。


 『息子が復讐を果たしたこの世界には生きていたくありません。生き返りたくもありません』


 老人はそれを聞いた瞬間に電話を切った。

 「誰からですか?」

 目の前でアラスはニコニコとしていた。

 「どうして、息子が」

 『りりりりりりりん』

 切ったばかりの電話がまた鳴り出した。

 老人は電話に出たくなかった。

 その電話が何を意味しているのかも既に分かっていたから。

 「もしもし」

 老人は電話に出た。

 「だ、大学病院です。あ、あの、た、大変申し上げ、に、にくいのですが」

 「嫁は死んだのか?」

 老人は言った。

 「な、なんでご存知なんですか?」

 電話口で看護師なのか、その女性は驚いたように声を上げた。

 「どうやって死んだ」

 老人はかまわずに続けた。

 「あの、あの方は、あの、片手、片手しかなかったんです。あの、それなのに、あの、屋上から、屋上にはフェンスが、フェンスがあったのに、それなのに、あの、あの人、それを登った形跡が、あるんです。そんな事、そんな事あるわけが無いはずなのに。それで、そのままあの、屋上から、あの人、病院玄関の天蓋を突き破って、それで、あの、めちゃくちゃに」

 看護師は錯乱しているようだった。


 めちゃくちゃに。


 「何か、何か書置きはあったのか」

 そんなもの、もう聞く必要も無い。

 「あ、あり、ありました。あの、意識も無かったはずなのに、何時の間に、そんな事、そんな事あるわけが」

 「何て書いていた」

 本当はもう知りたくなど無かった。



 『息子を死に追いやってしまったこの世界には生きていたくありません。生き返りたくもありません』


 老人は電話を切った。

 「大丈夫ですか?」

 アラスは鏡を持っていた。それには老人の顔がちょうど映っていた。


 その顔は血の気が一切無く蒼白で、


 そして、


 引き攣れていた。


 それは、


 まるで、


 孫の、


 敬一の、


 人間の形をしただけの、


 あの、


 「うう」

 胸が痛む。昨日とは違う、それはとても規則的とはいいがたい。


 それは乱打だった。


 「何で、あの子の両親も死ぬ必要がある」

 老人は胸を押さえながら言った。

 アラスは相変わらずニコニコと笑っている。

 「だって、敬一君を死に追いやったのは家族もそうでしょ?」

 アラスは言った。


 「お前は、何だ?」

 老人は言った。



 「ちなみに、仏間で死んでいる奥様は、敬一のご両親とはまた別なんですよ。奥様は単に自分で首を突いただけです」



 「でも」

 アラスはまた質問には答えずに、また不自然にそこで言葉を切った。


 「何を」

 老人がそう言った時だった。



 「ああ、なんてこと、酷い、これは現実なんでしょうか!?」

 つきっぱなしだったテレビの中でまたキャスターが叫んだ。


 「こんな、なんで?最新情報です。現在、学校で死んだ全生徒、それに全教員の家族が次々と自殺しているようです」


 「何?」

 老人は言った。


 「全員が飛び降り自殺、あるいは轢死だそうです」


 「これ、これは」

 老人は目の前でニコニコと笑っている若者を見た。もうこれ以上どうするつもりだ?そういう感情だった。


 「害悪を育てたものもまた、敬一を自殺に追い込んだ者だと思いませんか?」

 アラスは何でもない様に淡々と述べた。薄笑いをうかべて。


 「そんな」

 言葉が続かない。老人の口はカラカラに乾いていた。


 「それよりも、いいんですか?」


 「これ以上は、これ以上はもうやめろ」


 「僕じゃないですよ。全てはあの手です。敬一くんの手。あの手にあなたの奥様が願ったんでしょう?」


 「違う、違う違うこんなこと」


 「それよりもいいんですか?」

 若者はまたさっきと同じ言葉を繰り返した。


 「なんだ」

 老人は怯えていた。彼を支えていた脆弱な精神の糸はもうすぐ切れてしまいそうだった。


 「そろそろです」


 「何が」


 「きます」


 「貴様、なにを」




 こんこん




 ノック。

 老人は自分の胸を抑えた。

 しかし、

 違う。


 それは胸の痛みではない。


 こんこん。


 またノック。


 「きたあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああー!」

 アラスは叫んだ。実に嬉しそうに。


 そして老人はその瞬間、何がこの家の玄関に来たのかわかった。





 敬一が来たんだ。



 通っていた学校の全ての人間を殺した。その家族も今殺している。そして自分の両親も同じように殺した。自分を自殺に追い込んだ全てのものを殺している。私の妻が敬一の手に、孫の手にそう願ったがために。


 その敬一が来た。



 うちに来た。



 こんこん



 ノック。


 快速電車に轢き殺され、


 めちゃくちゃになって、


 引き攣れた、


 孫ではない知らない人間の形をした、


 敬一。



 ドンドン



 ノックが強くなった。



 ドンドン



 またノック。


 いるのだ。





 ドアの向こう側に、敬一だったものが、いるのだ。





 老人は、リビングを飛び出して、妻が死んでいる仏間に走った。

 そして握り締められている孫の手を妻の手から引き剥がそうとしていた。


 「俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない俺は関係ない」

 老人はそれだけをつぶやいていた。


 ドンドンバキ


 ドアが壊れたような音がした。


 「離せ!糞、この離せ!」

 老人は叫んだ。しかし死後硬直している妻の手は全く緩まない。


 「死んだんだ!お前は死んだんだぞ!?離せ!離せこの!お前のせいだ!お前のせいだ!俺は関係ない。お前がその手にあんなことを願ったんだろう!?離せ!離せこの糞豚!?」

 老人は仏間を飛び出して、台所に向かった。

 シンクの下の棚を開けて、そこから大振りの出刃包丁を取り出して、また仏間に走って戻った。


 ドンドンドンバキバキ


 ドアの一部が壊れ、そこに穴が開いた。老人は仏間に入る瞬間、それを一瞬見た。



 見た。



 ドンドンドンドン


 「あああああああ」

 老人は躊躇うことも、祈ることもしないで、ただ闇雲に死んだ妻の手首に出刃包丁を振り下ろした。何度も何度も振り下ろした。


 バキバキバタン


 ドアの倒れる音。


 「あああああああ」

 やがて、妻の手首が皮一枚のところまで行くと、それを引きちぎって、老人は妻の手ごと、孫の手に願いを告げた。


 ダダダダダダダ


 その足音が廊下を近づいて、それはもうすぐ仏間に入り込んでくる。

 「もうやめろ!俺は関係ない!もうやめてくれ!」

 老人は目をつむっていた。








 静寂。









 ついたままだったはずのテレビの音も、それ以外の音も、何も聞こえない。


 老人はおそるおそる目を開けた。

 すぐ目の前に顔があった。


 白い。

 引き攣れた。

 顔。


 自分だった。

 見たこともない自分。


 「ああ」

 老人の口からそのような息が漏れた。


 アラスが鏡をもってそこに立っていた。


 「もう一つ、願い残っていますよ?」

 アラスは言った。


 「もう一つ」

 老人は繰り返した。惚けてしまっていた。


 「もう一つです」

























 「忘れたい。全部忘れたい」

 老人は言った。彼は、またずいぶんと草臥れてしまっていた。


 「いいんですか?」

 アラスは言った。


 「全部、忘れたい。孫のことも、息子のことも、妻のことも、全部、忘れたい」

 その老人は、もう一個でも何か起こったら、すぐに死んでしまうように思えた。

 「じゃあ、そう願ってください」


 「ああ」

 老人はそう言って、相変わらず妻の手が付いたままのそれを掲げた。








 「その木の枝は、記念に差し上げます」

 アラスは帰り際にそう言った。


 草臥れた老人が自分の手を見ると、そこには貧相な木の枝が握られていた。















 その老人の住む家は老人一人きりしか住んでいなかった。家も老人もずいぶんと草臥れてしまってしまっていたが、それでも老人には十分だった。

 他に誰も住んでいない為に、少々広すぎるくらいであったが、老人はそれでよかった。


 老人はその時、家の庭でいらないものをドラム缶に入れて燃やしていた。


 老人はそれらのいらないものを分別なども関係なく一切合切、燃え盛るドラム缶に突っ込んでいた。


 そして、その中には得体の知れない木の枝も含まれていた。


 全て処分してしまいたかった。


 やがて、その枝の番が来た。


 老人はその枝も他の物同様に躊躇なくドラム缶の中に入れた。


 そしてまた次のものを入れようとした時だった。


 「あつい、おじいちゃん、あついよ」


 そういう声がした。


 老人はあたりを見回したが、誰も居ない。


 老人には自分をおじいちゃんと呼ぶような存在も居ない。


 「あつい、あついよ、おじいちゃん、たすけて」


 しかしその声は止むことなく、続いた。


 その声を聞いているうちに老人は言い知れない不安が自分の中で上がってくるのを感じた。


 こんこん。


 そして、


 胸に、


 痛み。


 老人はそれでたまらなく不安になったので、脇に置いてあった軽油のポリタンクを頭から被り、


 自ら燃えるドラム缶の中に入った。

情緒もへったくれもありゃしねえで申し訳ないです。ホラーとしては下品な部類に入ると思います。でも私は好きだよ。私の書いた話だもんで。

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― 新着の感想 ―
[良い点] なんという本格ホラー。驚嘆しました。圧倒されました。死後の世界という、あらすじにも惹かれました。珍しくあらすじちゃんと書かれてあって、一目で分かりやすいのが良いですね。 謎の男アラスラジ…
2020/11/05 17:11 退会済み
管理
[一言] ホラー参加お疲れ様です。 なんとも救いようのないお話ですね…。 たしかに、「いじめは閉域で起こる」「そこにいる者すべてが加担者だ」と言った劇作家と脚本家がいましたが、その関係者全部に累が及…
2015/08/05 01:08 退会済み
管理
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