6.苦悩
外へ散歩して以降、玉緒には木の棒が渡された。それは化物がくれたもので、曰く――。
太りすぎても不味い、とのこと。
結構美食家なのかもしれない、と玉緒は呑気に考えた。
杖のおかげで立ち上がることが可能になった。
が、片足しかないのでそう長くは立ち上がれない。おまけに進むとなると、かなりの体力を要した。
なんとか洞窟の外へ出ようと試みるものの、途中で息が切れてしまい、化物に元の位置へと戻されるということを繰り返していた。
それでも少しづつ入口へと近づき、歩く距離を伸ばしている。
「……入口まであとどれぐらいでしたか?」
もぐもぐと肉を頬張りながら、玉緒は明るい声で化物に問うた。
最近はすっかり化物が洞窟で食うことが当たり前になっている。
『半分も行ってはおらぬ』
すると玉緒は少しムスッとした表情でため息を吐いた。
「結構進んでいると思ったのに」
玉緒の頬張るスピードが少し上がる。口一杯に肉を頬張り、もぐもぐと噛み締めごくんと飲み込んだ。
また、転がっていた木の実も片手一杯に掴み、また口へと放り込む。
「……一杯食べて、運動して……いつか外に出て……やりたいことを叶えます」
化物の咀嚼が止まる。
『……やりたいこと? なんだそれは』
「いつか……主様と並んでお散歩したいんです。乗るのも、すごく楽しいんですけど……やっぱり自分で歩きたいというか……。あ、で、でもその前に食べたくなったらすぐに食べてくださいね! 私はいつでもいいですから!」
玉緒は慌てて否定して、近くにあった杖を持ち慌ただしく立ち上がった。
そして、壁沿いに移動し、ゆっくりと入口を目指し進み始める。
――わしと……散歩だと? 何を考えておる。
玉緒の言動に相変わらず振り回される――身体も思考も。
全てが甘く軋むようだった。
ゆっくりと進んで行く玉緒の背中を見つめながら、口元が思わず緩む。
――小娘一匹に……ここまでかき乱されるとは。
何百年も生きてきた化物と、十五年しか生きていない少女。
――……わしとあろうものが情けない。だが……心地よい気分だ。
向けられたことのない笑顔と、受けたことのない優しさ。
それはお互い求めていたもの。
――玉緒……わしは貴様をどうすれば良いのだ。
玉緒は化物に食われるものだと思っている。そして、それを受け入れている。
何よりも玉緒は死を望んでいた。
それを都合よく化物は受け取っていた。しかし――。
――もう……玉緒を食うことなどできぬ。
山に君臨し続けた化物は、甘い軋みに耐えられず目を閉じる。
ここは山であり、人間の住む場所、世界ではない。
冬が来れば玉緒は凍え、食うよりも自然に殺されるかもしれない。
目を離した隙に、他の動物に襲われるかもしれない。
病にかかり、苦しみながら死を迎えるかもしれない。
――やはり……人間は人間の世界で生きるべきなのだ。
ぽっかりと穴が空いた感覚のまま目を開ける。
さほど遠くない場所を、玉緒がゆっくりと歩いている。
その背中を、化物はじっと見つめ続けた。
その日も、玉緒は洞窟の入り口までゆっくりと歩いていた。歩幅も小さく、すぐに息を切らす。
少しの間進んでいたが、身体が疲れきってその場に座り込んでしまった。
――すると。
『……来い』
いつものように化物の舌に包まれる。最初嫌だった舌の感覚もすっかり慣れてしまった。
玉緒はがっくりと肩を落として、身を任せた。
早くしないと食べられるかもしれない、玉緒は内心焦っていたがそれも仕方ないと半分は諦めていた。
ここに来てからとても充実している。伯父と二人で暮らしていた頃より、比べ物にならないほど幸せだった。
「主様、私……いつでも覚悟していますから」
最近食べる気配を見せない化物のことを思って言った言葉だった。
だが、化物はやはり反応を示すことはない。
黙ったまま玉緒を運ぶと、地面へと降ろした。――最近、降ろし方も丁寧になったかもしれない。
いつも通り、焼いた肉と木の実を玉緒の近くに置き、化物自身も取って来たばかりの獲物を食らう。
この食事方法もすっかり慣れた。
「最近、少し寒くなってきましたね」
『そうだな』
化物の返事はいつも短い。
『貴様のような人間にとっては、山は過ごしづらかろうな』
そして、いつも名前で呼ばない。
だが、最初に比べて進歩したと言える。それだけで玉緒は嬉しくて仕方なかった。つい頬を緩ませる。
「主様は毛がたくさんあって温かそうですね。羨ましいです」
膨れたお腹に満足して、玉緒は杖を頼りに立ち上がる。そして、いつものように壁沿いに入口を目指す。
化物は何を言うでもなく咀嚼を続けていた。ぐちゃぐちゃという音が洞窟内に響く。
――待ってくれている。早く体力つけて、願いを叶えなきゃ。
玉緒は息を切らしながら、なんとか前へ前へと進んで行く。
どれぐらい進んでいるのかわからなかったが――音がした。そして、新鮮な空気の匂い。
「滝の音がはっきり……!」
水が落ちる音。それは進むにつれて徐々に強く聞こえ始める。
座り込みそうになる身体を奮い立たせ、歯を食いしばり、一歩一歩踏みしめながら進む。
――そして。
「……つ、着いた!!」
目の前に滝の轟音と冷たい水しぶきが顔に当たる。
洞窟の入り口に到達したのだ。
「……でも、気のせいかな。なんかいつもと変わらない距離を歩いた気がするんだけど」
不思議に思ったが、今は達成感が勝った。
まぁいいか、と心には気に留めず、入口の端で足を放り投げて座り込む。
滝の音が心地よく心に響く。何もかも、無に戻すような不思議な感覚だった。
『そのまま壁沿いを歩け。外へと通じておる』
突然の後ろからの声に、ビクッと身体を震わせた。
いつの間にか後ろに化物がいたらしい。滝のせいか気配を感じることができなかった。
「は、はい」
玉緒は言われるまま、立ち上がり、ゆっくりと慎重に壁沿いを歩く。
少しだけ滝に濡れつつも、通り抜けることができ、そして――外へ出た。
踏む感覚が土から、草へと変わる。とても柔らかかった。
「主様……私、外に出ることができました!」
『見ればわかる』
「あ、あの……」
並んで散歩――小さな願いを叶えて欲しい。
ドキドキとする胸を押さえながら、祈るような気持ちで伝えようとしたが――。
『散歩するのだろう? わかっておるわ』
ごわごわとする毛が、腕に当たる。
化物はぴったりと玉緒に寄り添っている。
「あ、ありがとうございます……」
急に恥ずかしくなり、俯き加減で歩き出す。
が、初めての道で何がどうなっているのわからない。
『わしを掴め。その通り歩け』
そっけない声だった。
「……はい」
嬉しくて玉緒は、口元を緩ませ笑みを向ける。
化物はほんの少し飛ぶ。ほとんど飛んでいないのと同じぐらいだった。
玉緒の手から毛が離れない程度。そして、玉緒が隣に並べば同じように飛ぶ。それを繰り返す。
玉緒の目から涙が溢れそうになる。
こんなに優しく接してくれる。
こんなにも気を使ってくれる。
私を、大事にしてくれる。
ギュっと毛を握り締める。心が締め付けられそうだった。
自分は死を望んでいるのに、今、この時がどうしようもなく愛おしい。
この時間が長く続けばいいのに、と心の中で考えてしまう。
玉緒は涙に耐えきれず、目から一筋の涙が頬を伝う。
『どうした?』
それに気付いた化物が止まる。
声も心なしか温かさを感じた。
「ごめんなさい。私……今、初めて……。死にたくないと、考えてしまいました」
『そうか』
玉緒は鼻を啜る。化物の優しい声色に、再び涙が溢れ出ようとする。
「でも……私……主様に食われるなら、後悔しないです。……でも……でも」
ギュっと毛を握り締める。
「少しだけ……主様と生きたい、って思ってしまうんです」
初めての気持ちだった。
死を望んでいた。
生きることは苦痛の何物でもなかった。
しかし、今は違う。
玉緒は真っ赤になった顔を隠すように俯き、離れてほしくないと手をギュっと握り締める。
二人の間に沈黙が流れた。
『……わしは』
低い声がすぐ近くから聞こえた。
玉緒は唾をごくんと飲み込み、言葉を待つ。
『貴様を……いや、玉緒』
初めて名前で呼ばれた。
胸が高まり顔を上げる。姿が見えないのがもどかしい。
『お前を食おうと本気で考えておった。だが……今は違う』
化物は涙を流す玉緒が愛おしかった。
『わしも、お前と生きてみたい。だが……お前は人間。山にいるべきではないのだ』
次で終わりです。