4.変化
化物はひたすら獲物をを持ち帰り、焼いて、それを玉緒に与え続けた。たまに気まぐれで木の実も持ち帰る。
それを何日と繰り返した。その間、化物は一言も声を発しなかった。
早く太らすためには会話は必要ない――そんな考えからだった。
玉緒は突然のことで戸惑った。
近くで気配はあるが声をかけても反応がなく、そのうち目の前に何かが落ちる音。
そして、すぐに気配は消える。
繰り返されるそんな態度に、玉緒は次第に化物の考えを伺い知ることができた。
応えるように、玉緒も運ばれる食糧を黙々と全て綺麗に平らげる。
当たり前のように運ばれる食糧を、毎日食べることができる。しかも、腹一杯に。
今が一番幸福かもしれない――食べながら、玉緒はそう思った。
化物に無視をされても感謝を伝えたい、そんな思いが日々募ってゆく――。
そんなある日、ついに玉緒は声を発した。
「いつも……ありがとうございます」
抱えきれず吐き出た言葉――化物が洞窟から出ようとする時だった。
洞窟に小さく響いた玉緒の声に、化物は思わず止まった。
玉緒から礼を言われて以降、化物の中で得体のしれない違和感が住みついている。
何が原因で、正体は何なのか――全く見当もつかない。
洞窟で待っている玉緒を見る度、その違和感が大きくなることだけはわかった。
力が衰えるわけでもない。だが経験したことのない感覚で、早く打ち消したかった。
――が、久しぶりに聞く声に、自然と振り返っていた。
その場に留まっている気配に、玉緒が慌てて言葉を続ける。
「あ、あの良かったら一緒に食べませんか? 焼いたお肉も美味しいですから」
じっと顔を向けている。どうやら本気らしい。
化物は黙ったままじっと玉緒を観察する。
拾った当初よりも、顔色は随分と優れ、頬や腕も少しだが肉がついてきている。
化物は返事をせず、さっさと洞窟から出て行った。
玉緒は気配がなくなったことを感じ、がっかりと肩を落とした。
自分でも馬鹿なことをしているとわかっている。が、どうしても感謝を告げたかった。
加えて玉緒にとって化物が、少なくとも伯父より恐ろしい存在とは思えなかった。
が――ふと思う。
「……いつ食べられるんだろう」
ここに運ばれ、何日経ったのかわからない。起きれば必ず食糧が近くにある。
玉緒は、確かめるように自分の手を握った――前よりも肉が付いてきている。
頬も――前よりか頬骨が少しだけ隠れるようになった。
そろそろ食べ時なのかもしれない。
漠然と迫る死。だが、玉緒は頬を緩めた。
「死ぬ前に……できるかなぁ」
死の恐怖よりも、やりたいことの好奇心が玉緒を明るくさせる。
今は誰も縛ることもしなければ、罵ることもない。本当に自由だった。
おしゃべりをして、一緒にご飯を食べて、自由に歩き回る――妄想するだけで楽しかった。
すると――再び入口から気配がした。と、同時に風が吹く。
すぐに、近くでバサバサと鳥が羽ばたく音が耳に飛び込む。
「え……あの……」
化物が生きた鳥を咥えたまま、玉緒のすぐ近くにやってくる。
返答をすることなく、代わりに鳥に牙を立てる。
暴れていた鳥も静かになり、咀嚼する音だけが洞窟に響いた。
「……一緒に、食べてくれるんですか?」
返答はしなかった。
ただ、鳥を食らう。骨をかみ砕く音が洞窟に響き渡る。
玉緒は化物の無言の返事に、だんだんと頬を緩めた。
この場で一緒に食べてくれている。ただ、それだけで嬉しかった。
「お肉、美味しいですね」
独り言のように呟いて、再び焼けた肉を食べ始める。
味気のない肉のはずなのに、いつもよりも美味しかった。
何よりも、胸の奥が少し温かくなった。
それから化物は、気が向いた時生きた獲物を洞窟へ持ち帰り、そこで食らうことが増えた。
あくまで玉緒の様子を見るため。そして、食べ時かどうかを見極めるためである。
そうと知ってか知らずか、玉緒はいつも嬉しそうに微笑んでいた。
化物はそんな玉緒を見るのが、不思議と嫌ではなかった。
感じていた違和感が、玉緒の笑顔を見るにつれ変化していく。
化物自身が温かくなる感覚。笑顔を見る度に膨れ上がり、耐えきれそうにないほど切なくなる。
段々と、玉緒と会話しないことに耐えきれなくなっていった。
そして、ある日のこと――。
化物は久しぶりに言葉を発した。
『最初に比べ、良い顔色になった』
食べ終えたら出ていく、そう思っていた玉緒は心底驚いた。握っていた肉がぽろりと落ちる。
久しぶりに聞いた低い声に、妙に胸がドキドキして止まらない。
「え、あ……そ、そうですか」
言葉も尻すぼみになってしまった。
いきなり話しかけられて、良い言葉が見つからない。
今までは玉緒が独り言のようにブツブツとしゃべっているだけ。反応などなかったのだから。
玉緒は頭をフル回転させる。せっかくしゃべりかけてきたのだから、何か話題を作らなくては――。
「わ、私……そろそろ食べ時ですか? 美味しそうに見えますか?」
咄嗟に笑顔を作り、化物がいる方向へ顔を向ける。化物もじっと見下ろした。
確かに良い感じに肉が付いた。頬も二の腕も、太ももも。
噛めばきっと肉汁が広がり、甘い血が鼻をくすぐるだろう。だが――。
『わしは最近、奇妙な違和感がある』
化物は玉緒の質問には答えなかった。
一方で、初めて話を振ってくれた、と玉緒は特に気に留めず耳を傾ける。
『貴様を見ていると、何かが日々大きくなりつつある。……貴様を食えば、治ると思うか?』
化物が食おうと思えば、今からでもすぐ食える。
だが、おかしなことに余り気が進まなくなっていた。何かの病かもしれん、と化物は思った。
一方で、玉緒は何と答えて良いものかわからず、首を傾げ頭を抱える。
「どう……なんでしょうか。私は医者じゃないのでわからないです。……あ、そういえば」
『ん、なんだ』
「私、前から聞きたかったことがあるんです。貴方のお名前、教えていただけませんか?」
話を逸らされ化物は若干苛立ったが、玉緒の微笑みに相殺されてしまった。
ため息を吐いてから口を開く。
『……名はない』
「え……ないんですか」
『人間どもからは、化物や主などと言われておった。そのほかに思い当たる名なんぞない』
主。そう聞いて玉緒は、この山の主様なのだろうか、と思った。
今の世の中に、精霊のような存在があるのだと感心した。――乱暴な精霊ではあるが。
「……じゃあ主様、私は『貴様』ではなく、玉緒、と言います。今度から名前で呼んでくださいね」
『生意気なことを。貴様はいづれ、わしに食われる身。名前なんぞ必要ないわ。わしのことも化物と呼ぶがいい』
そう告げると、化物は洞窟から出て行ってしまった。
それを察した玉緒はため息を吐いた。が、すぐににやりと頬を緩める。
「……ふふ。次はお出かけをお願いしてみよう」
食われる前に後悔がないように。
玉緒は、目的があるこの今の時間が、どうしようもなく楽しかった。
化物は山を見渡せる大岩の上にいた。
月が浮かぶ夜、眺めながらぼーっと思いにふける。
――あやつ、玉緒、と言ったか。
どんどんと生意気な口調になりつつある。が、不快とは思わない。
――なぜだ。わしは太らして食らうことが目的であったはず。
怯えることもせず、物怖じせず話しかけてくる玉緒。
無垢な笑顔を、この化物と恐れられる自分に向ける。
少し前の自分ならば、馬鹿な獲物、と思いすぐに食らっただろう。
――だが……今は。
食らうより、玉緒の様子を見る方が心地良い。
今までにない感覚だった。
なぜだ――と化物が自問している時、急に山が騒がしくなる。
何か異物が入り込んでいるのか――動物がさわさわと忙しく蠢いている。
人間ではわからない、化物の感だった。
――何事だ。
目を見開き山を見渡す。
風で木々が揺れる中、異音が森の中を駆け巡っている。化物はそこを集中して見下ろす。
――車? 人間、か?
車が止まると一人の人間が降りてきた。手には懐中電灯を持ち、周りを照らしている。
丁度そこは、玉緒が倒れていた場所でもあった。
しばらく人間はその場をうろちょろと歩き回ったが、すぐに車に戻り再び、音を轟かせながら森の中を走っていく。
――偶然か。何か探しておるようだったが……まさか。
こんな山奥まで来る人間などおらず、ましてや何かを探しまわるような仕草。
探していた場所は玉緒を発見した場所。
化物は心の中、何かひっかかりを覚えた。