3.転機
しばらくの間、玉緒は起き上がることはできなかった。その間も、化物はせっせと木の実を運び続けた。
太らせて食う、それだけのために。
玉緒もそれを重々承知で、運ばれる木の実を残さず平らげた。
そんな日が何日も続いて、ようやく、玉緒は上半身を起き上がらせることができた。
ただ起きるだけなのに、玉緒はかなり疲労感を覚えた。
「まだ……私を食べませんか」
気配を感じる方に向け声をかける。玉緒の考え通り、そこには化物がいた。
化物は玉緒をじっと観察していた。
拾った当初よりか、顔色も幾分か良い色になりつつある。
だが、やはり木の実だけでは血肉にはなってはいない。相変わらず、足腕は木の枝のように細い。
足に至っては、かぶりついた足の方は変色し、腐っているのではないかと思えた。
おそらくそこへ余分な栄養が回っているに違いない。
そう考えた化物は、にやりと口元を緩める。
『貴様の腐った足。いらぬな』
化物が大きく口を開く。鋭く長い牙が口全体にびっしりと並んでいる。
玉緒は只ならぬ気配を察し、口を開こうとしたが――遅かった。
「ああああっ!!」
玉緒が言うよりも早く、牙が足に食らいつく。
化物は黒くなってしまっていた左下腿部分を含め、左足の膝から下を食いちぎった。
食いちぎられた左足の断面から血が飛沫を上げる。
玉緒は余りの痛さにがっくりと気絶をした。
一方で、化物は腐った足を飲み込まず滝壺へ吐き飛ばす。
そして、血飛沫を上げる左足を見下ろしつつ舌舐めずりをした。真っ赤な鮮血が辺りに飛び散っている。
再び大口を開け、そこから黒い舌を伸ばし――断面を一舐めする。
――……まだ薄い。
鮮血は化物の予想よりも濃くはなく、旨いとは思えなかった。
すると、血飛沫を上げていた断面が見る見ると固まって行く。
瞬く間に食い千切られた断面は綺麗に皮膚で覆われた。
――舐めれば治る、とは良く言ったものよ。
化物は気絶した玉緒を置いて、再び獲物を取りに洞窟を去って行った。
化物に足を食いちぎられてから、玉緒の体力の回復が早くなった。
上体を起こすことがスムーズになり、起きたいと思った時に時間をかけずにできるようになった。
食いちぎられた時の痛みは、これまで受けたこともないものだった。
食われる、ということはそれ以上の痛みなのだろう。
――今まで我慢できたから。きっと大丈夫。
今まで良いことなどなかった。ひたすら我慢に我慢を重ねた短い人生。
死こそが、不幸だらけの人生から抜け出せる唯一の方法――そう信じている。
ならばせめて、他の人の役に立ちながら死にたい。
最後の、せめてもの希望だった。
足の痛みはほとんど消えた。うずくことはあったが、今まで受けてきたものに比べれば可愛いものだった。
玉緒は上体を起こし、手を無造作に動かしてみる。立ち上がってみたいが、周りに掴まるものがない。
移動が不可能だった。
『……木の実だけでは太らぬ。肉を食え』
いつの間にかいた化物に、ビクッと身体を震わせる。
すると間もなく、バサッと何かが落ちる音が洞窟に響いた。
微かに、血の臭いがした。
「生では食べられません。……焼けば食べられるかもしれませんが」
『そうか』
すると、化物が長い舌を出し、玉緒の身体の下へと潜り込ませる。
「な、何を……!」
突然のベトベトとする感触に顔を歪める玉緒だったが、化物はお構いなしに舌で包むと、洞窟の一番奥へ放り投げた。
乱暴に投げ落とされ、玉緒は顔を顰める。
『そこに人間が山で捨てて行ったものがある。何があるかは知らぬが、どうにかして肉を食え』
「……な、何があるんでしょうか?」
『知らぬ。貴様が確かめればよかろう。……もう木の実は取らん。生肉を食いたくなければどうにかしろ』
その言葉を残し、化物の気配は消えた。
「……すごい臭い」
油かガスか。身体に害のあるような臭いで、鼻が取れそうなほど悪臭が漂っている。
だが玉緒はやるしかなかった。
這いつくばるように臭いの元に近づき、恐る恐る手を伸ばす。
偶然にもそれらしいものが、手に当たる。
――固い……金属のような……四角い……小さなもの。
すぐさま引き寄せ、記憶を頼りにやってみた。
手に取った物――ライターだった。
弱々しい力で、精一杯指を動かすと――温かな空気が当たる。
火が灯ったのだ。
「やった……!」
が、次の瞬間――。
巨大な爆発音とともに、玉緒の身体が熱風とともに吹き飛んだ。
「……うっ」
床に叩きつけられた玉緒の前に、ゴミが引火した炎が轟々と燃えている。
洞窟の天井まで炎は伸び、衰える気配もない。
玉緒は痛む身体を奮い起こし、炎から逃れようと這いつくばる。
「嫌だ……」
身体がじりじりと熱に晒される。腕を使い、必死に逃れようとする。
だが、炎の勢いどんどんと増す。
もう炎が移っているのではないか、そんな気さえした。
『貴様! 何をやっている!』
そんな叫び声が聞こえたかと思うと、再びベトベトとするもので包まれ、例の如く投げ飛ばされる。
だが、投げ飛ばされた場所が炎ではないようで、熱気は感じなかった。
『焼身自殺でも図ったか!? 貴様、何のために手を焼いていると思っておるのだ! 食うためぞ? 勝手は許さん!」
空気が震えるような叫び声だった。
助けられたのか、それとも違うのか。
訳のわからない声の主に、玉緒はなぜか笑いが込み上げてきた。
「……ふふっ」
『何が可笑しい!』
「いえ。……大丈夫です。私は確かに死を望みますが、どうせ死ぬなら……貴方の役に立つような死に方を選びたい、そう思っています」
玉緒は嘘のない言葉を言い終えると、頬をほころばせニッコリと微笑んだ。
とても、死を望んでいるような、そんな顔ではない。
今まで向けられたことのない表情に、化物も呆気にとられた。
『……はよう太れ』
誤魔化すように、化物は取って来たばかりの獣を玉緒の前に投げる。
言いようのない感情だった。
今まで向けられたものは、恐怖に慄く顔ばかり。甲高い声で泣き叫ぶ声、声も出ずただ絶句する者、生にしがみ付き反撃を企てる者――。
どれも見苦しく最後まで醜態を晒す人間ばかりだった。
ところが――この目の前の少女はどうだ。
目が見えないこともあるが、全く生への執着を感じられない。
「……あの。申し訳ないんですが、肉を……焼いていただけませんか」
恐怖どころか、化物を都合よく使おうとしている。
『……わしは貴様の目ではない。食いたければ自分で焼け』
「ですが……また、危ないことになるかもしれません」
身体は動かずとも、口は滑らかに動くようだ。
しぶしぶと化物は獣を舌で包むと、轟々と燃える炎の中へと投げ入れた。
『わしを使うとは、初めてのことぞ』
「そ、そうなんですね……ごめんなさい」
『貴様……わしが恐ろしいとは思わんのか』
玉緒は不思議そうに首を傾げる。
『食うと言うておるのだぞ。それに、見えぬかもしれんが、わしは人間たちから化物と言われるものだ』
玉緒はじっと化物に顔を向けている。考えているのか、顔の表情に変化がない。
化物はさらに続けた。
『貴様がなぜ山へ入ったかは知らぬが、ここは人間は寄りつかぬ場所。わしは、人間ではない。人間の生肉を好物とする化物だ』
「人間ではない……と言うと、どのような格好をしているのですか?」
脅したわけではないが、予想以上に反応が薄い。
化物は面白くない顔で答える。
『貴様の身長ぐらいの高さで、顔だけだ。手足などない。目は貴様の顔よりも大きく、口を開けば、貴様なんぞ一飲みだ』
「まぁ」
感嘆の声だけ発すると、玉緒は化物の方へずるずると近づき、おもむろに腕をあげた。
手のひらが化物の毛に触れる。
「このごわごわとするのは……毛ですか?」
『だとしたら何だ』
「……大体想像できました」
少し毛を撫でて、玉緒は顔を上げた。
生温かい息が顔にかかる。目の前に化物がいるのだ。
「あの……」
『待て』
そう言うと化物は少し離れ舌を伸ばした。炎の中から放りこんだ獣を取り出す。
舌の中から見えるのは、真っ黒に焦げたもの。それを包んだまま、再び少女の前に戻る。
『……食え』
そう言って、化物は少女のすぐ横にそれを置いた。
化物の舌に冷えたのか、少女が触ってもさほど熱くもない。触るとパサパサと何かが落ちる。炭だった。
玉緒はそれらを適当に払いのけ、その下にある固いものを指で引き千切る。
温かった。
何の肉かはわからなかったが、せっかく焼いてくれた肉。食べないわけにはいかなかった。迷いなく口へと放り込む。
「……美味しい」
柔らかい――とは言えなかったが、木の実とは違い歯ごたえのある肉だった。
再び指で千切り、口へと運ぶ。
「とても美味しいです。ありがとうございます」
また向けられる柔らかい顔。
化物は何とも言い難い感情に、苛立ち、思わず洞窟から飛び出した。
――あやつは何を考えておる!
――なぜ泣き叫ばない。なぜ恐怖に慄かない。なぜ触れようとする!
全く経験のないことばかりで、化物は思わず言葉にならない叫び声を上げた。
山の隅々まで轟いた叫び声は、動物たちをさらに遠ざける。山は震え、大地は裂け、空が暗雲を運ぶ。
やがて――暗くなった空から大粒の雨が落ち始めた。
――わしは食うだけだ。何をたじろいでおる。わしは人間から恐れられた化物ぞ。
いくつ恐怖に引きつる顔を見てきただろう。
すぐにきっと――あの少女もそうなるのだ。
――早く、太らせて食わねば。……おかしくなりそうだ。
化物は雨の中、獣を求め、再び山の闇の中へと消えて行った。