2.獲物
◇ ◇
意識の戻らない玉緒は、夢を見ていた。
夢と言っても楽しいものではなく、自らの人生を振り返る夢。
目の見えない玉緒は、小さな頃から親の顔も知らず親戚の家を点々と移り住んでいた。
その都度受けるのは、罵声と暴力。
暗闇から飛んでくるのは、拳か刃物か炎。
玉緒にとって炎がもっとも恐ろしく、頬には大きな火傷の痕が残っている。
柱に括りつけられ、毎日のように煙草の火を押し当てられる。
寝ることもできず、殴る蹴るは日常茶飯事。食べ物も死なない程度に与えられるのみ。
学校へは、伯父が虐待が公になることを恐れ行かさなかった。
だが先日、とうとう役所の人間が家を訪ねた。
家から漏れていた怒号に、近所の住人が通報したのだ。
伯父はその場をなんとかやり過ごすと、慌てた様子で柱から解放した。が、すぐに車に乗せられ――今に至る。
捨てられた、と玉緒はすぐにわかった。
遠ざかっていく車の音を聞きながら、絶望よりも嬉しさが勝った。
もう地獄の日々は終わった、もう今からは自由なんだ――と。
◇ ◇
身体の痛みに意識が戻る。
痛みと空腹で起き上がれない。今、自分がどうなっているのかもわからない。ただ、どこかで寝ていることだけはわかった。
――遠くから滝の音がする。
柱に括りつけれてはいない、それだけで胸を撫で下ろす。
『起きろ』
すぐ近くから聞こえた低い声。
化物が玉緒のすぐ隣にいるのだ。そのすぐ前には、兎やカラスといった小動物の死骸が転がっている。
『食え』
この声の主は、と玉緒は思い出す。
きっと自分を運んだ人物かもしれない。
ならば、お礼を言わねば。
そう思いなんとか口を開き、言葉を発しようと試みる。
「……ぁ……っ」
声が出ない。唇はひび割れ、口の中に水分はない。鯉のように口をパクパクと弱々しく動かすしかなかった。
化物はその様子に見て、しぶしぶと洞窟入り口にある滝へ行った。流れ落ちてくる水を浴び、毛に水を吸わせる。
十分に水を沁み込ませると、ぽたぽたと水を垂らしながら少女の元へと戻った。
『飲め。言葉が出まい』
そう言って、水が滴り落ちている毛を玉緒の口元に当てた。
突然の冷たさにビクッと驚く玉緒だったが、水と分かるや否や迷いなく口に含み吸い上げる。
少々変な味はしたが、文句は言えない。夢中で吸い上げる。
その様子に、化物はにやりと口を歪ませた。
――生きる気力は失ってはおらぬ。これならば太らせることはできる。
しばらくして、玉緒の口は人並みに潤うことができた。
「……ありがとうございます」
か細い消えるような声だったが、十分だった。
『ならば食え』
再び化物が促す。
「すいません……目が……見えない、のです。……どこに……あるの、でしょうか」
玉緒はぎこちなく、腕を動かす。食べ物を探している様子だった。
化物は、玉緒の手が届く場所に兎をやった。手が兎に触れた瞬間、ビクッとしてすぐに離す。
「……こ、れは」
『食い物だ、食え』
恐る恐る再び兎に触れる。冷たくなっている獣の皮。――死骸。そうわかった途端、再び手を離した。
「……食べられ、ません。……無理、です」
わざわざ運んだものを――生意気な言い草に化物はカチンときた。
玉緒の顔のすぐ横に近づき、大きな口を開く。
『貴様! これが食えぬと言うのか! ならば、たった今から貴様を食ろうとやろうか!!』
空気がビリビリと振動する。
玉緒も目に見えないが、すぐ近くで叫ばれていることはわかる。
食らうとはどういうことなのか。死んだ獣を与えるなど、一体どんな人物なのか。
玉緒は唾をごくんと飲み込み、意を決して尋ねた。
「……貴方は……どういう方、なのでしょうか」
『わしは貴様を食うのだ! つべこべ言わずに食え! 血肉を増やして旨い肉になれば良いのだ!』
今にも食われそうな勢いで、化物の吐く息が玉緒に降りかかる。お世辞にも良い臭いとは言えない。
込み上げてくる吐き気をなんとか堪え、再び玉緒は尋ねる。
「私を……殺す。そういうこと、ですか」
水など与えねばよかった、と化物は後悔した。
目が見えないせいか、余計な口を聞いてくる。
面倒だから食うてしまうか。だが、生きた人間など何十年ぶりのことだった。
旨く食うためには少し辛抱せねばならぬ、そう自らに言い聞かせる。
――ゆっくりと深呼吸をし、自らを落ち着かせ、再び口を開いた。
『……あぁ。だが、わしにとっては大事な生きている人間の生肉。旨く食いたい。そのためには、貴様はもう少し肉と血を蓄えねばならぬ。今のままでは、皮と骨で不味くて敵わぬ』
「私を……食べる……」
死んでしまえ、そんな言葉は幾度と言われてきた。しかし、食べるとは――。
どちらにしても、殺すつもりであることには変わりはない。その殺す方法が、食べる、という方法なのだ。
玉緒は、自らも驚くほど冷静に受け止め、静かに言い放った。
「でしたら、すぐに……食べてください」
――殺す方法はどうにしろ、早く楽になりたい。
食べるというものがどういう行為か想像もできないが、ただ早く楽になりたかった。
が、すぐに鼻で笑う音が耳に届く。
『貴様、話を聞いておらぬのか。……わしは、旨く食いたい、そう言ったのだ』
冗談という雰囲気ではない。本気で言っている。
目の前の人物が一体どういう人なのか、全く想像ができないでいた。
目が見えればこんなこともなかっただろう。ならば、と痛さを堪えながら腕を上げる。
「……手を……貸して、いただけませんか」
見えないであれば、触れるしかない。もしその上で殺されることになっても致し方ないと思っていた。
だが化物は、空中を彷徨う手を見つめながら、再び鼻で笑う。
『手などない。起きたければ自分で起きろ。……生肉が無理、と言うならば、木の実を取ってきてやる。待っておれ。わしが食うまで死ぬことは許さぬ』
そう告げて、化物は洞窟の外へと飛び出た。
一方、玉緒ががっくりと腕を降ろしていた。
――手がない、とはどういう意味なのだろう。自分と同じ障害を抱えている、ということなのだろうか。
考えてもわからない。今はひとまず、身体を起こして自分が置かれている状況を把握しなければいけない。
玉緒は震えながらなんとか腕に力を入れる。
だが、腕に筋力などない。まさに骨と皮しかない腕に、とても体重は支えきれなかった。
何度試みても起き上がることは不可能だった。
虚しく滝の音が遠くから聞こえる。
山だと思っていたのに、今皮膚に当たる感触は土。じめじめと湿気が肌に纏わりつく。
――ここは洞窟で、あの人の住み家。
もしかすると、自分を助けたのは人ではないのかもしれない。そんな風に思っていると――風が吹いた。
『……食え』
そう声がしたかと思うと、ボトボトと何か落ちる音がした。
『これなら貴様も食える。とっとと食え』
微かな甘い匂いが鼻をくすぐる。その方へ腕をじりじりと伸ばしてみると、届いた。
熟れているのか小さいながらも柔らかい。二、三粒なんとか掴み、ぎこちなく口へ持っていく。
「……美味しい」
噛む力はなかったが、少し噛むだけで甘い汁が口に広がり、甘い香りが鼻へと抜ける。
こんなに美味しいものを食べたのは久しぶりだった。
もう一度手を伸ばし、掴んでは口へ運ぶ。
「美味しい……美味しい……!」
無我夢中で食べる。
自分を食べるため、そう分かっていても、食べ物を与えてくれるという行為がただ嬉しかった。
『……泣くほど旨いか』
玉緒は涙を流しながら頬張っていた。
その様子を満足げに見つめながら、化物は自身が腹が減り始めたことに気づく。
仕方なく――捨てられていた小動物の死骸を舌で拾い、口へと放り込む。
ゴリゴリと骨と肉が口の中で噛み砕かれる。
死骸はそこまで旨くはない。生きたまま食うのが新鮮で何よりも旨い。
昔、人間はよく食べることができた。貢物、という名義でよく山へと送られてきたのだ。
決まって貢物は、見た瞬間に『化物』と叫ぶ。
泣き叫び、慄き、逃げ回る。
恐怖に歪む顔をほくそ笑みながら、頭から食らう。
大概が若い女で、柔らかい肉と微かに甘い血が何よりも旨かった。
だが今は、人間自体が寄り付かなくなった。
たまに見かける人間は、武器を持っており反撃されることもしばしばある。
人間の生肉は好きであったが、人間そのものは好かなかった。
だが、この少女は女であるし、何よりも武器を持ってはいない。
太らせれば、昔食べたような旨い肉になる。
そう確信していた。
「ありがとう……ございました」
見ると持ってきた木の実を全て平らげていた。
『よう食った。早く太れ。わしを満足させろ』
「太れば……殺してくれる、のですね」
『あぁ。望み通り……食ってやる』