薔薇の日(本編開始前)
本編が始まる前のファムとヴィルの話です。
今日は一年のうちで一番忙しくて、稼げる日。私も日が出ないうちから働き通しだったわ。
数日前から市場から届けられる花を受け取ったり、ラッピング用の準備をしたり、鉢植えを飾り付けたり……当日はいつもの何倍もの作業が待ち受けていた。
「じゃあ、これで失礼します」
「おつかれさま、ファムちゃん」
「お疲れさまです」
忙しかったけど、花を買って行く人たちの、贈る人を思ってうかべる笑顔に心が温まった。
夜遅くになってようやく店の仕事が終わり、私は家路を急いだ。
道行く人たちはほとんどが赤い薔薇を持った恋人同士で、しかもみんな密着して歩いている。
私は薄手の外套の襟を閉じて、ポケットから小ぶりの包みを解いてあめ玉を取り出し口に入れた。甘酸っぱいサクランボ味に思わず吐息が漏れる。
小道から広場に出ると、やっぱり恋人だらけ。ガス灯に照らされたベンチのいくつかには密着した二人組が座っている。あら、あの隅にいるの、お菓子屋の二人かしら……いつのまにくっついたのかしら
見知った顔も見知らぬ顔も、皆それぞれの甘い世界に浸っているのを眺めて、自分には帰っても冷えきった家が待っていることを思い出した。
「今日は疲れたし、何か暖かい物でも買って帰ろう」
「ではそこの通りに新しく出来たデリカテッセン(総菜屋)はどうですか? 今夜はサービスでホットワインがつくそうです」
「それって素敵! コロッケはあるかしら? ……ってヴィル?」
振り返るといつの間にか後ろにヴィルが立っていた。口に手をあててなにやらクスクス笑っている。
「お疲れさま。ファム」
「ちょっとなんて格好してるのよ! 風邪ひくわよ!」
マフラーも外套も無いじゃない! 慌てて私の黒いマフラーを外してヴィルにぐるぐると巻き付けた。
「そこのカフェにいたんです。窓からあなたが見えたから思わず手ぶらで出て来てしまいました」
「何してるのよ。取りに行きましょう」
「はい」
ヴィルの手をとって歩き出すと、さっきまで重く感じていた体が嘘のように軽くなっていた。
「飲食店も特別な飾り付けをして遅くまでやっているそうですよ。行きません?」
「今日は疲れているから、あまり華やかな場所に行きたい気分になれないわ。それに、こんな手だし」
沢山の薔薇を扱ったからあちこちトゲがささってまだちくちくする。
目の前で軽くひろげた私の手を、ヴィルはそっとつかんだ。
「ヴィル?」
「手がこんなに荒れてしまって……」
「み、水仕事が多いから」
ヴィルは私の両手を自分の両頬にあて、目を閉じて深呼吸した。
「こうしていると、ファムに包まれているような気持ちになりますね」
私は手をのばしているだけなんだけど!
腕が疲れて来たので、ヴィルの頬を両側からつまむ。
「ならもっと幸せそうな顔しなさいよ。こう、口の端を横に伸ばして、上に持ち上げるのよ!」
私がむにむにと頬を引っ張ってあちこちに動かすと、ヴィルは驚いたように目を見開いて私を見て、それから自分で頬の筋肉を動かした。
「こ、こうですか」
「そうよ、もっと大きく、顔全部の筋肉で動けばもっと素敵になるわ」
「そういった笑みはした事が無いのですが」
「練習と、気持ちが伴えば自然にできるわよ」
「気持ち……ですか」
「そうよ、心の底からの気持ちよ」
「できたら何かいいことがありますか?」
期待した目をしているわね。こういう時だけヴィルの瞳は雄弁になる気がするわ
「素敵な笑顔ができたら、私からご褒美をあげましょう」
私はお手本のつもりで目一杯の笑顔で彼に抱きついた。
「では努力します」
「それにしてもヴィル、今日は突然どうしたの? 次の約束の日はもっと後よね」
カフェから荷物を取って戻って来たヴィルは手に持っていた白いマフラーをゆっくりと私に巻き付けてきた。なにこのマフラー、ものすっごく柔らかくて、感動するくらい手触りがいいわね!
「今日は薔薇の日の行事が沢山あって、色とりどりの薔薇を見ているうちにファムに会いたくなったんです」
そんなこと言われて一気に顔が熱くなってきた。耳まで熱痛い。
「そ、そういえば今年はやけに街の飾りが多かったわよね。通りのあちこちで芸術家の作品を飾ってあるの、見かけたわ。国が働きかけて街中も薔薇で飾られていたし。お偉いさん達もたまには素敵なことをしてくれるのね」
「ええ。……楽しかったですか?」
「うーん、どうしてか知らないけど他の街は色んな薔薇を使っていいのに、この街だけ赤い薔薇だけで飾るって指定があったらしいの。おかげで店に置く赤い薔薇が足りなくって、隣町まで買いに走らされて大変だったわ」
「そうですか……」
「どうかしたの、ヴィル」
「いえ、ここ数日の疲れがちょっと……」
「大丈夫? 体調悪いならもう帰る?」
「いえ、平気です。慣れてますから」
「そ、そう? あ、そうだ」
私は鞄の中から紙袋を取り出した。
「これね、ジャムにする予定で貰った売れ残りの花なんだけど……」
一番綺麗な形をしている薔薇を取り出して、そっとキスをする。
「はい、『あなたに幸せが訪れますように』!」
そう言って笑顔で薔薇をヴィルの胸元のポケットに飾る。
「今日は薔薇の日だったから、こうやって薔薇を売ったのよ」
「……キスをして?」
「ええ。幸運のおまじないなの。特別料金の大薔薇を買ってくれた中で、希望するお客さんにおまけでするの。これは売れ残った普通の薔薇だけど」
薔薇の日は元々ある貴族の女性の事が好きだった平民の青年が、妖精が作った薔薇に想いを託して贈った昔話が元になっている。その愛の告白の伝説にちなんで、うちのお店では売り子をその妖精に見立て、薔薇にキスをして幸運のおまじないをかける演出をした。店長がこういった事考えるのが好きなのよね。
「あなたはおまじないつきで何本売りました?」
ヴィルは胸元の薔薇を見つめながらつぶやくように言った。
「え……白が四本とピンクと黄色が三本だったから……たぶん十本かしら? 私ほとんど薔薇を買いに行ったり花束を作っていたから売り子に長く立っていなかったの」
「そうですか……」
ヴィルはため息をついた後、ゆっくりと私の腰に腕をまわして抱きしめて来た。
「どうしたの?」
「十個ください」
「ええ? な、何を?」
「幸運のおまじない、私にください。十個、いえそれ以上。そうでないとあなたがばらまいた幸運を探して街中を駆け回りたくなる」
えーとつまりそれって
「妬いてるの? 花にちょっとキスした事が?」
「ええ、ものすごく」
そんな真剣な目で見つめられても……
「赤い薔薇にはしなかったから良いじゃない」
「でも、キスは贈ったんですよね」
「そ、そうだけど。あのね、ヴィル。ここ道の真ん中よ?」
押しの強いヴィルから逃げるように腕をほどいて早歩きで先に行こうとすると、彼は手を掴んできて引き止めてきた。
「貰えないなら私からおまじないをしますよ」
「それ何回やるつもり?」
「何回がいいですか?」
「わ……わかんないわよ!」
ヴィルの目がなにやら本気だったので、私はポケットから飴の包みを取り出して、すばやく中身をヴィルの口に放り込んだ。
「それ食べて我慢してちょうだい!」
歩き出して数歩、まだ立ち止まったまま無言で飴を食べているヴィルを振り返る。
「う、うちに着いたらおまじないしてあげるわ!」
投げつけるように言うと、ヴィルは目を見開いて、それから微笑んだ。さっき指導したとおりの笑みだわ。
「初めてあなたのお家に招待してもらえました」
「さ、さっさと暖かいご飯と、ホットワイン買って帰りましょう」
あの日はヴィルの胸元を飾る赤い薔薇が目に入るたびに、胸のうちがくすぐったくなってしょうがなかったわ。
ちなみに、その時の私はかなり動揺していたので、背後でちいさくつぶやくヴィルの声に意識が向いていなかった。
「街中を飾るのはやりすぎましたか……」
「薔薇の日」は、想いを薔薇に託しして相手に贈る日。
白い薔薇は尊敬の証
黄色い薔薇は友情の証
ピンクの薔薇は感謝の証
そして赤い薔薇は情熱的で、真摯な愛の証
あの日、私の街を赤い薔薇で飾るように誰が指示したのかを知ったのは、ずっとずっと後になってからだった。
ファムの勤める店は普通の花屋ですがサービス旺盛で商売熱心。
ちなみに妖精って、本編の妖精とおなじような外見です。人間社会では違ったイメージが流通してる。
薔薇の意味は花言葉を元にしていて、本来はもっと細かく複数の意味があります。