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8 裏切り

あいかわらず、森は暗くて、空気は冷たかった。


白い霧が足もとを、ゆらゆら流れていく。


――はやく“裂け目”を見つけないと


裂け目は、前触れなく世界をつなぎ、前触れなく道を閉ざす。


一度閉じてしまえば、次にいつ開かれるか、わかったもんじゃない。


そう思って、茂みをかきわけていると、声がかかった。


「トウヤ」


ふり返ると、白い霧の向こうにシロエが立っていた。


いつもより表情がかたい。


「もう日が暮れるわ。こんな時間に何してるの?」


「散歩だよ。森の空気を吸いたくてさ」


言った瞬間、自分でも嘘くさいなって思った。


シロエはゆっくりと首を振る。


「その言い訳、何度聞いたんだろうね」


思わず、口元が引きつった。


シロエの瞳はどこか沈んで見える。


「トウヤ、掟を破ったら、どうなるか知ってる?」


喉がきゅっと細くなる。


「……知ってるさ。粛清、だろ」


「私は見たことがある。掟を破った鬼がどうなるか。身体も、名前も、魂も……全部食べられるの。何ひとつ残らないわ」


その声は、かすかに震えていた。


なんだか、いやな予感がふつふつと湧き上がってくる。


「シロエ? いきなりどうしたんだよ」


シロエは視線を落とし、ためらいを噛みしめるように言った。


「もし私が掟を破って……粛清されることになったら。あなたはどうする?」


突然の問いに、胸の奥がざわざわと波立つ。


だけど、迷いなく答えが出た。


「逃げるよ。シロエと一緒に」


シロエはわずかに目を丸くし、すぐ微笑んだ。


でも、その笑顔はひどく悲しかった。


「そっか。トウヤならそう言うと思った」


「どういう意味だよ?」


僕が聞くより早く、彼女は小さく息を吸った。


「ごめんね、トウヤ」


その声音は、なにか決意を飲み込んだ人間のものだった。


「シロエ、何を――」


言いかけたとき、森の奥で淡い光が揺れた。


霧を押しのけるように、薄い線がきらりと灯る。


――裂け目だ!


思考より先に、足が地面を蹴っていた。


「トウヤ、待って!」


シロエが伸ばした手は、空をつかむだけだった。


追いかけようとして、けれど彼女は動かなかった。


霧の中で揺れる肩が、やけに小さく見えた。


「……ごめん」


シロエの声は霧に沈んで、すぐ消えた。



白い光が、空中でゆらゆら揺れている。


風も触れないのに、そこだけ世界が裂けていた。


「あった!」


胸が熱くなって、笑いが勝手にもれた。


ようやく見つけたんだ。


これでやっと、少女を人間の世界に帰せる。


「知らせないと!」


踵を返し、森を駆ける。


霧を切る風が痛いほど冷たいのに、気持ちはどんどん熱くなった。


少女のいる洞窟が見えるころには、空は深いオレンジ色に染まっていた。


「入るよー!」


軽く声をかけて踏み込む。


――そこで、足が止まった。


壁にぶつかったみたいに、動けなくなる。


食料は荒らされ、布は引き裂かれ、灰は踏み散らかされていた。


そして、地面には点々と落ちた黒い染み。


少女の姿は、どこにもない。


「……嘘だろ」


呼吸が浅くなる。


胸の奥がぐちゃぐちゃにかき回される。


「そんな……どうして……」


膝から力がぬけ、泥に手をつく。


――ブォオオオオオッ!!


空気をえぐる角笛の音。


掟破りの合図。


「……やめてくれ」


心臓を鷲掴みにされたみたいな痛み。


二度目の角笛が重く響く。


「くそっ!」


僕は里に向けて走り出した。


降り始めた雨が視界をにじませる。


――人生で最悪の夜が始まった。



広場は鬼たちのざわめきで満ちていた。


「トウヤ!」


ジンが他の鬼たちを押しのけてやってくる。


「何があったの?」


「森で人間が見つかったらしい」


心臓がドクンと大きく跳ねた。


「……にんげん?」


「ああ、暗がりの森でな。生きてやがった」


ジンの声には怒りがにじんでいた。


「しかも、かくまってた鬼がいるらしい。何日も食い物を与えてたってよ。バカげてるよな。そんなやつ鬼じゃねぇ」


僕は何も言えない。


ダラダラと頭から汗が流れる。


「長老がグレン様を呼んだ。裏切り者に逃げ場はねぇよ」


父さんの名前を聞いた瞬間、ついに息の仕方がわからなくなった。


「……つ、つかまった人間は?」


「保管庫だ。まだ生きてるけど、すぐ食われるだろ。って、お前顔色悪くねぇか?」


「なんでも、ないよ」


僕のおびえに、ジンは気づかない。


「行くぞ。集会が始まる」


ジンが歩きしたとき、視界の端に白い影が見えた。


――シロエ。


両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、僕の視線をさけるように目をそらした。


そして、逃げるように広場をはなれる。


胸がざわつく。


僕は人混みを抜け、シロエのほうへ向かった。


「シロエ、待って!」


腕をつかむと、シロエの肩が小さく震えた。


「……来たのね」


雨でぬれた顔で振り返る。


「どういう意味だよ」


問い詰めると、シロエは一歩下さがって言った。


「長老に報告したの」


「何を」


「森に人間がいるって」


心がぐしゃりと潰れるみたいだった。


「トウヤを守りたかったの」


「僕を?」


シロエは必死に続ける。


「人間をかくまっていたでしょう? 匂いで分かったわ。あなたなら助けるって思った。だから見つかる前に報告したの。トウヤの名前は出してない」


「黙っててくれればよかっただろ!」


声がはねた。


「全部うまくいってたのに! どうして余計なことしたんだ!」


シロエが泣きそうな顔で返す。


「トウヤを守りたかったのよ!」


「それで、あの子はどうなるんだ!」


シロエは言葉を失い、顔をふせた。


「あの子は殺されるんだぞ。生きたまま喰われるんだ!」


シロエは涙をこぼしながら、弱く笑った。


「トウヤは……本当に優しいね」


雨の空を見上げ、ふるえる声で続ける。


「トウヤ、私のお母さんの話……知らないよね」


「今そんな話――」


「関係あるの」


シロエは唇を噛んで、絞り出すように言った。


「お母さんは人間と恋をしたの。そして子を産んだ。ある日、それが長老に知られたわ。掟を破ったって……粛清された。生きたまま喰われていくの、よく覚えてる」


肺に冷たい水を流し込まれたみたいに、息が詰まった。


シロエが掟破りを恐れていた理由が、ようやくわかった。


「だから、あなたを同じ目には遭わせない。たとえ誰が犠牲になっても。私はトウヤを失いたくない」


涙に濡れた瞳で、シロエは微笑んだ。


「友達だもの」


ドン……ドン……ドン……


太鼓の音が雨に混じり、地面が震える。


「始まったわ。逃げたら疑われる。一緒に行こう」


シロエが差し出した手。


僕はその手を見た。


でも――握れなかった。


胸の奥で、何かが音もなく崩れていった。


毎日一話書いていこうと思います。

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最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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