2 逃走
外に出た瞬間、夜の空気が肌に突き刺さった。
岩の隙間を抜ける風は冷たくて、喉の奥まで凍えるみたいだ。
「トウヤ!」
ジンの怒鳴り声で、ぼんやりしていた頭が回りだす。
「早く行くぞ!」
その直後。
ビィィィ――ッ!
背後に角笛が響きわたった。
鋭くて、冷たくて、夜そのものを裂くような音。
掟を破った者がいる――それを里中に知らせる合図だ。
「いやっ!」
シロエの悲鳴が夜に響く。
顔は青ざめ、足は完全にすくんでいる。
「シロエ、大丈夫だ。まだ僕らだとバレたわけじゃない」
そう言っても、シロエの足は地面とくっついたみたいに動かない。
「……だいじょうぶ。わたし、落ち着いてるから」
震えまくってる声で言ったって、まったく説得力がないじゃないか。
掟破り――シロエにとって、それは僕らよりも大きな意味を持つのかもしれない。
「走れ!」
ジンがシロエの腕をつかみ、強引に走り出す。
僕もあわてて続いた。
裏道を必死に走る。
肺が焼けるみたいに痛い。
それに、さっき嗅いだ血の匂いが、まだ鼻の奥に残っていて気持ち悪い。
後ろからは大鬼たちの怒号。
「見つけたぞ!」「逃がすな!」「こっちだ!」
声が重なり合い、まるで夜そのものが追っかけてきてるって感じ。
「どこへ逃げる!?」
息もたえだえに叫ぶと、ジンが振り返らず答えた。
「谷の向こうだ!」
その言葉に、胃が冷たくなる。
谷は深くて、霧で底は見えない。
岩だって濡れて滑りやすいし、向こう岸まではすごく遠い。
――落ちたら死んじゃう
でも、ジンは迷わなかった。
「おおっ!」
声を上げると、助走もそこそこに、勢いよく谷へ飛び込んだ。
反対側の岩に着地したとき、石が砕けてぱらぱら落ちる。
膝をついたけれど、すぐに立ち上がり叫んだ。
「飛べ!」
後ろからは、松明の赤い光と鬼の怒号が、波のように迫ってくる。
「……むり……わたし」
シロエの顔は恐怖で崩れかけていた。
こんな顔はじめてみる。
「大丈夫、一緒に飛ぶよ!」
僕はシロエの手を強く握った。
その手は氷みたいに冷たい。
「助走つけるよ! せーのっ!」
ふたりで岩を蹴った。
ひゅっ――
お腹がふわっと浮く。
風が耳を裂き、霧が視界を奪った。
落ちる――そう思った瞬間。
「うおおおっ!」
腕をグイっと引っ張られた。
ジンが僕らの腕を掴んで、無理やり引き上げている。
足元から岩がぱらぱらと落ちていき、霧の中に消えていく。
どうにか崖の上へ登りきり、息を切らしながら言う。
「助かったよ、ジン」
ジンは犬みたいにニッと笑った。
「礼なんかいらねぇよ。お前らは見捨てねぇ」
……何くさいセリフいってるのさ。
角なしの僕を、当たり前みたいに仲間扱いするのは、いつもジンだけだった。
胸がちょっとだけ熱くなる。
けれど、その余裕は一瞬で崩れた。
谷の向こうで、大鬼たちの怒声が響く。
松明の影が崖のふちを照らしはじめていた。
ジンが空を見上げ、短く吐息をつく。
「シロエ。お前は逃げろ」
「……え?」
シロエの目が大きく揺れた。
「ひとりなら逃げ切れる。北の森を回って、何も知らない顔で里に戻れ」
「でも、ふたりは……」
「いいから行きなよ」
僕も笑ってみせる。
「僕らも逃げられるかもしれないし。ほら、罰を受けるのは慣れっこだからさ」
本当は足が震え、呼吸だってずっと浅い。
でも、シロエにそんな姿は見せたくなかった。
シロエは唇を噛みしめ、目を伏せる。
「……ありがとう。ふたりとも。無事でいて」
そう言って、森の影へ駆け出した。
背中が闇に溶けるまで、僕らは無言だった。
ジンが肩を回し、にやりと笑う。
「さて、時間稼ぐか」
「どうせ捕まるけどね」
「だろうな。でもよ……少しは抵抗してやらねぇと」
ジンらしい。
こういう時だけ、やけに頼もしくなる。
僕らは並んでかまえる。
谷の向こうから、大鬼たちが次々と現れた。
一体、二体、三体――次々と谷を越えてくる。
どれも体がでかくて、角が光っていて、牙がぎらついてて。
こりゃだめだなって思っていると、ジンが叫んだ。
「行くぞ!」
ジンが先に飛び出す。
大鬼の腕をかわし、その腹へ拳を叩きこむ。
鈍い音がして、大鬼がのけぞった。
僕も横から足を振り抜いて、別の鬼をひっくり返す。
「ガキどもがッ!」
怒号とともに鉄棒が振り下ろされる。
避けきれず、肩に直撃。
骨の奥まで雷が走り、視界が白く弾けた。
「ぐっ」
痛みで膝が折れそうになる。
でもたえなきゃ、ジンが戦ってるんだ。
「トウヤ!」
ジンの声が聞こえるが、すぐ別の影に押し倒された。
腹に硬い膝が落ちて、息が押しつぶれる。
「か……はっ……!」
呼吸ができない。
視界がぐらぐら揺れる。
「掟を破るガキどもめ」
低い声が、頭のすぐ上から落ちてきた。
顔を上げると――衛兵隊長ドルガが立っていた。
巨大な角。鉄のような皮膚。
動くたび、地面が沈んだように錯覚する重圧。
ただ淡々と弱い者を壊すだけの鬼。
この男に逆らって生きた者はいない。
「角なしの欠け者が……懲りずに厄介を起こしたか」
その言葉に胸が焼けつくみたいに痛む。
「僕は――」
言いかけた瞬間、拳が飛んできた。
ドカッ!
白い光が弾ける。
二発、三発。四発。
視界がぐにゃりと歪む。
ジンの声が遠くで響いた。
「やめろ! トウヤに触るな!」
その声も、すぐに闇に沈んだ。
最後に見えたのは、血のにじむ地面と、灰色の空。
遠くで、誰かの悲鳴が聞こえた気がした。
それが自分の声なのか、ジンの声なのか、もう分からなかった。
意識はゆっくりと沈んでいく――。
毎日一話書いていこうと思います。
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