1 禁じられた保管庫
鬼の里の夜は、いつだって灰色だ。
空は重くて、風は冷たくて、星なんかほとんど見えない。
僕はこんな夜が好きじゃない。
だって、世界が息をひそめて、何か悪いことが起きるのを待っているみたいだから。
「おい、トウヤ、こっちだ!」
前を走るジンが、低く、押し殺した声で呼んだ。
額の上で短い二本の角がぎらりと光る。
反射的に額をさわると、ひやりとした肌しかなかった。
……まあ、いつものことさ。
ため息がもれる。
「ふたりとも待って。本当に行くの?」
追いついてきたシロエが、不安そうに息をはずませる。
白い髪が夜風にゆれ、欠けた角がちらりとのぞいた。
ジンとシロエ――ふたりは、僕を仲間として扱ってくれる唯一の鬼だ。
「仕方ないだろ。ジンが行くってきかないんだから」
あくまで“仕方なく”って顔をつくる。
ほんとは、僕が一番乗り気なんだけど、ふたりには内緒だ。
だって、人間を近くで見てみたいじゃないか。
角がなくて、僕と似ている生き物。
近くで見たら、どんな匂いで、どんな声なんだろう。
「15歳になるまで“保管庫”には入るべからず。掟で決まってるのよ」
シロエの声はいつもより硬い。
「だからこそ行くんだろ」
ジンがにやりと笑う。
こいつは本気だ。
この顔の時のジンは、大抵ろくでもなくて、最高なんだ。
「大鬼たちが隠してるもんを、この目で見るんだよ」
シロエは唇をかみしめ、視線を落とす。
「……人間に近づくなんて、危険なだけよ」
その声には、怯えが混じっていた。
「ちっ、人間なんかにビビるなよ」
ジンが乱暴に言い捨てて、ズカズカ歩き出した。
人間の話になると、ジンはいつも感情的になる。
理由は知らないけど、少しだけ怖くなることがある。
「ほんとに行くのね」
シロエが小さな声でつぶやいた。
シロエは、だれよりも賢くて、掟にもくわしい。
だから、たぶん、シロエの言うことを聞いとくべきなんだろう。
それでも、もちろん足は止まらない。
だって、僕とジンは、里一番の大馬鹿だからね。
僕らは、岩山の裏手を抜けて歩いた。
湿った土の匂いが鼻にまとわりつき、風が吹くたびに血と鉄の匂いがにじむ。
鬼の里ってのは、どこを歩いても“まともな場所”なんてないんだ。
「お、見えてきたぞ」
先頭のジンが声をはずませる。
そこにあったのは、巨大な岩の扉。
「ここが……保管庫」
思わずつぶやくと、ジンがうなずいた。
「狩った人間を入れておく場所だ」
わかっていたけどさ…‥実際に目の前にすると、体が震えてきた。
興奮なのか、恐怖なのか、そんなの僕にだってわからないよ。
このなかに人間がいる?
成鬼の儀の直前の今なら、生きたまま捕らえられた人間もいるかもしれない。
「やめようよ……ねぇ、ほんとに」
シロエの手が、僕の袖をそっとつまんだ。
小動物みたいに怯えている。
「ちょっと覗くだけだって」
僕は笑ってみせる。
笑顔とは正反対に、心臓はバカみたいな速さで騒いでるけど。
ジンが錠前に爪をかけ、器用にこじ開ける。
カチリという音に、シロエが小さく息をのんだ。
「やめようってば……おねがい」
シロエの声には、ただ怖いだけじゃない、もっと嫌な予感が詰まっているみたいだった。
「ほら、行くぞ」
ジンは迷いなく扉を押す。
ギィィィ……という、長くていやな音。
中から冷たい空気が流れ出し、僕の足首にまとわりつく。
血と鉄、それに腐った花のような甘い匂い。
「おじゃましまーす……なんてね」
軽口を言ってみたけど、声がひっくり返っちゃった。
ジンが一歩目を踏み出し、僕も続く。
シロエも、一度立ち止まったけど、ついてくるようだった。
石の床に足音が響く。
その音がどこまでも伸びて、暗闇に飲み込まれていく。
そして、一瞬の静けさのあと、背後で扉がガチャンと閉まった。
「……っ!」
心臓がはね上がる。
暗闇が僕らの上に覆いかぶさってくる。
「ジン」
声をかけると、カチリと火打石が鳴った。
パチッと火花が散り、乾いた藁が燃え始める。
オレンジ色の光が、少しずつ闇を押しのけた。
そして――僕は見た。
石台の上からダラリとたれた白い腕。
光を失ったどす黒い瞳。
口元はわずかに開いていて、息を吸おうとしたまま止まっているようだ。
「……人間」
胃がギュルギュル縮んで、冷たいものが湧き上がってくる。
「死んでるわ」
シロエの声がかすれる。
ジンがごくりと喉を鳴らす。
そして、ゆっくり近づき、死体の前に膝をついた。
炎に照らされた横顔の影がゆれ、瞳の奥で鬼の血がうごめく。
「ジン、やめ――」
声を上げたときには、もう遅かった。
ぐちゃり。
肉がちぎれる、生々しい音。
鉄の匂いが、一気に空間に満ちた。
ジンの喉が、ごくりと動く。
その音だけが、異様に大きく聞こえた。
「生臭いな。これが、人間の味か」
ジンの声は震えていて、でも、どこか満足そうだった。
「成鬼の儀より前に人間の肉を食べるなんて……最低ね」
シロエは冷たく言ったけど、その瞳はかすかに血の色を帯びている。まるで、わたしは欲しがってなんかいないって自分に言い聞かせているみたいじゃないか。
僕は世界がグニャリとゆがんだような気がした。
目の前に広がるのは“鬼として普通の光景”のはず。
なのに、どうしてだろう――僕だけ、別の生き物みたいに感じてしまう。
そう思ったとき、奥の暗闇から小さな音。
擦れるような、生き物の息。
「今の……聞こえた?」
僕が言うと、ジンが立ち上がる。
松明をかかげて奥へ進む。
通路を抜けると、牢が並んでいた。
鎖につながれた人間たち。
男も、女も、僕と同じくらいの子どもさえも。
怯える目、泣き声、震える肩。
息が止まった。
本当に、心臓まで止っちゃったのかと思った。
だって、そこにいたのは、僕とそっくりの“生き物”だったんだ!
角がなくて、肌が白くて、声が震えていて。
怖がっているのに、必死で誰かを庇おうとなんかしていて。
「こっちに来るな! 化けものめ!」
誰かの叫ぶ声に、ジンが口元をゆがめる。
「化けもの、ね。まあ合ってるか」
「やめて。人間の言葉に構わないで」
シロエが低く言ったときだった。
「子どもかい?」
おだやかな声が、奥から響いた。
一番奥の牢で白い髪の老人が、静かにこちらを見ていた。
鎖につながれながらも、不思議なほど落ち着いた表情で僕たちを見つめてくる。
ジンは鼻で笑った。
「子ども? 違うな。俺たちは鬼だ」
老人は首を横に振る。
「いや。角があっても……目が、まだ子どもじゃ」
ジンの顔がひきつる。
僕は気づくと一歩前へ踏み出していた。
まるで、老人の目に吸い寄せられるみたいに。
「怖くないの?」
僕が聞くと、老人は笑った。
「子どもと話すだけだ。何を怖がる」
その笑みは、無理に作った虚勢なんかじゃなかった。
ほんとうに――あたたかかった。
「人間は弱い。だから僕らを恐れる。そう教えられてる」
僕が言うと、老人は静かに首を振った。
「弱いからこそ、人は思い合う。倒れた者がいれば支え、飢えた者には食べ物をわける。奪うより与える道を選ぶ……それが、人間の強さじゃよ」
胸の奥がちくりと痛んだ。
「おぬしは、やさしい目をしておる」
その言葉が、心の一番深い場所に落ちていく。
触られたくなかった場所を、簡単に見抜かれたようで、息がつまった。
そのとき、巡回の声が近づいてきた。
「来るわ!」
「チッ、もう時間かよ!」
ジンが舌打ちし、シロエが松明を握り直す。
「行きなさい、子どもたち」
老人のやさしい声が、背中を押した。
逃げろ、と叫ぶでもなく。
怯えるでもなく。
ただ、僕らの行く先を願うように。
僕たちは駆け出す。
扉の外、灰色の夜風が肌を刺した。
この夜、僕はまだ知らなかったんだ。
これから訪れる地獄の入口に、足を踏み入れてしまったことを。




