1 桃矢の日常
朝の空気は心地よかった。
灰色じゃないし、血の匂いだってしない。
ただ、すんだ風が頬をなでて、庭の木々がさらさら鳴るだけ。
ここは鬼の世界じゃない。
東京都青梅市。
山に囲まれた、静かな町。
こんなにも朝が心地良いものだなんて、あの頃は思いもしなかったな。
「桃矢君、ぼーっとしない」
声がして、我に返る。
僕の前にはひとりの少女が立っていた。
神薙紅羽。
道着姿で、黒髪を後ろでひとつに結んでいる。
その顔は……やっぱり姉さんに似ていた。
紅羽さんに助けられてから、もう一年が経った。
僕は、人間の世界では「桃矢」と名のっている。
鬼の名も、角も、牙も、全部、胸の奥に押し込んで、息をひそめて暮らしている。
まあ、角も牙も、もとからないんだけどね。
「わかってるよ」
そう返事をして、竹刀を構えなおす。
次の瞬間、紅羽さんは視界からすっと消えた。
そして、気づいたときには、木刀を持つ僕の右手が押さえつけられていた。
「腕が前に出すぎ。癖だよ」
「癖って……直してるつもりなんだけど」
「つもり、ね」
紅羽さんが手首を軽く返す。
それだけで体勢が崩れて膝が落ちる。
「くっ、ま、まいりました」
力を抜くと、紅羽さんがふっと笑った。
「もう一回」
「うん」
何度やっても届かない。
でも、届かないからやめる、なんて性格でもないしね。
僕はこの一年、毎日、必死になって木刀を振るってきた。
すべては、鬼狩りになって、鬼を斬るため。
立ち上がって木刀を握り直す。
息を吸って、吐いて、踏み込む。
そうして――
「っ!」
強く弾かれた。
手が痺れて、柄から力が抜ける。
そして、紅羽さんの木刀が、僕の顔の前でピタリと止まった。
「はい、おしまい」
「ああ、もう」
僕が尻もちをつくと、紅羽は肩をすくめる。
「だいぶ良くなってるよ。最初に比べたら、見違えるくらい」
「ほんと?」
「ほんと。最初は竹刀の持ち方も知らなかったのに」
「それ言わなくていいよ」
「事実だもん」
紅羽さんはくすっと笑う。
その笑い方が、少しだけ安心をくれる。
縁側に並んで座り、空を見上げる。
どこまでも青い。
鬼の世界の灰色の空とは、まるで違う。
こんな色の空があるなんて、知らなかったな。
そのとき、テレビの緊急速報が流れた。
《昨夜、都内商業施設にて鬼の目撃情報――》
紅羽さんが立ちあがる。
僕もあとを追う。
居間のテレビに、あわただしい映像が流れている。
封鎖された建物。
パトカーのランプ。
泣いている女性。
「また……」
紅羽さんの小さなつぶやき。
アナウンサーが続ける。
《被害者は複数名。現在、鬼狩り機関が対応にあたっています――》
鬼――人に害をなす化け物。
恐れられ、憎まれている存在。
人間の世界では鬼の被害が年々増えているそうだ。
「呼び出しかかりそう?」
「状況次第かな」
紅羽さんは落ち着いた声で答えた。
でも僕は知っている。
その目の奥に戦いの色が差し込んでいるってことをね。
僕は迷わず言った。
「連れてって」
紅羽さんが、ゆっくりと振り向く。
「またそれ?」
「僕も戦える。ちゃんと訓練してきたんだ。足手まといにはならないよ」
「そういうことじゃないのよ」
「鬼狩りになりたいんだ」
「桃矢君」
紅羽さんの声はやわらかい。
「鬼狩りになんて、ならなくていいよ」
「なんでさ」
「斬るのって、簡単じゃないから」
「そんなこと、わかってるよ」
「わかってないわ」
紅羽さんは、テレビの電源を切る。
「じゃあ、条件つき」
「条件?」
「私に一太刀入れられたら、任務に連れていってあげる」
紅羽さんは竹刀を持って、縁側から庭にでる。
そして振り返る。
「どうする? やめとく?」
「やるよ」
僕は即答して、庭へ飛び出した。
向き合った瞬間、空気が変わる。
さっきまでの訓練とは違う。
紅羽さんの気配が、すっと研ぎ澄まされる。
――来る。
そう思ったときには、もう遅かった。
足を払われ、背中が宙に浮いた。
「っ……!」
地面。
衝撃。
息が詰まる。
そして、喉元に木刀の感触があった。
視線が合う。
そこには、笑っていない紅羽さんがいた。
本物の刀だったら、僕は死んでいる。
「私の勝ちね」
紅羽さんは木刀を引いて、手を差し伸べる。
「大丈夫?」
そう言って、困ったみたいに笑う。
「鬼狩りには向いてないよ。桃矢君は優しいから」
その言葉で、胸が強く締めつけられる。
優しい?
違うよ。
姉さんの最期が、脳裏によみがえる。
僕を守って、喰われた。
あのときの血の匂い。
あのときの音。
忘れられるわけがない。
「次の任務はあきらめるよ」
そう言って、差し出された手を取る。
紅羽さんは、ほっとしたように微笑んだ。
「朝ご飯にしましょう。お腹すいちゃった」
「そうだね」
僕はこうして“桃矢”として笑う。
青い空の下で。
でも、胸の奥には、灰色の空が残っている。
あの日の夜は、まだ、終わってなんかいないんだ。
毎日一話書いていこうと思います。
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