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10 脱出

雨は止んでいた。


だけど、地面はまだ冷たくて、血の匂いがただよっている。


広場にはもう誰の姿もない。


残っているのは、泥にまみれた肉片と、踏み荒らされた血のあとだけ。


「……姉さん」


しゃがみこんで、手を伸ばす。


赤黒く固まった髪。


皮膚の一部。


折れた指。


削れた爪。


拾いながらふと思う。


――こんなにも軽かったんだ。


姉さんは、もっと温かくて、もっと大きかったはずなのに。


石壇のそばに、小さな骨のペンダントが落ちていた。


姉さんが肌身離さず持っていたものだ。


拾い上げると、まだ少しだけ温度が残っている気がした。


「……ごめん」


声が震える。


でも、涙は出ない。


両腕いっぱいに抱え、ふらふらと森のはずれへ向かう。


森の奥の、花が咲かない斜面。


姉さんが「静かで好き」って言っていた場所。


膝をつき、土を掘った。


指の皮がめくれても、痛みはほとんど感じなかった。


「ここでいいよね」


肉片をそっと置く。


土をかける。


ひとすくい、ひとすくい。


かけるたび、心に冷たい石が沈んでいくようだった。


最後にペンダントをのせ、手を合わせた。


祈りの言葉は何ひとつ思いつかなかった。


だって、神さまなんて、きっとこの世界にはいないから。


「さよなら、姉さん」


そのとき、やっと涙が落ちた。


一粒だけ。


背後から小さな足音が近づいてくる。


「……トウヤ」


振り向くと、シロエが立っていた。


白い髪が乱れ、目ははれて赤い。


何度も泣いた顔だった。


「ごめん……私のせいで……」


後悔を感じさせる声。


でも、もう何もかも遅いんだ。


僕は視線を墓に向けたまま言った。


「消えろよ」


空気がピンと張りつめた。


「トウヤ……私は、あなたを守りたくて」


「もう言わなくていい」


あまりにも冷め切った声。


知らない誰かが話しているみたいだった。


「僕はもう、誰も信じない」


シロエの息が止まる音が聞こえた。


「……トウヤ……そんなこと……ごめんなさい」


「シロエ。次に謝ったら……僕は本当に許せなくなる」


シロエは何も言えなくなった。


風がそっと吹き抜けて、葉がサラサラと揺れた。


その音がとても優しかった。


「もう、どこか行ってよ」


やがて、乾いた足音がゆっくりと遠ざかっていく。


僕はひとりになった。


墓と、湿った土の匂いだけが残った。



夜が明ける前に、僕は立ち上がった。


まだ、終わってない。


あの少女がいる。


困っている子は助けてあげるのよ――姉さんはそう言っていた。


あの子まで殺されたら、姉さんの死が無駄になってしまうような気がした。


「助ける」


口に出してみる。


つぶやきは小さかったけど、内側では黒い炎が燃えている。


保管庫へ向かう。


まもなく、岩山の裏にある巨大な扉が見えた。


数日前は震えていた場所。


でも、今は何も感じない。


錆びついた金具に指をかけ、力任せに引きちぎる。


皮膚が切れ、赤いものがにじむ。


それでも構わなかった。


ギィ……と扉がいやな音を立てて開く。


冷たい空気と鉄の匂いが流れる。


松明に火をつけ、迷いなく足を進める。


牢の前まで来ると、すぐに少女の姿が見えた。


少女は壁にもたれて座っていた。


髪はぐしゃぐしゃで、服も汚れていて、あちこち傷だらけだった。


「むかえに来たよ」


意外にも穏やかな声を出すことができて、自分でも驚く。


少女は、信じられないものを見るように目を見開く。


「あなた……そんな目してなかった」


「変わったんだよ」


僕は牢の錠を壊し、中へと入った。


「立てる?」


少女はゆっくりうなずく。


そして、手を伸ばそうとして、途中でやめた。


「触らないで。でも……そばにいて」


牢を出ようとしたとき、通路の向こうから声が聞こえた。


少女に目配せして、通路の先をのぞく。


衛兵が二体。


彼らの笑い声が響く。


「最高だったよな。ユナの肉、やわらけぇんだわ」


「俺なんか、左耳だけだぜ。でも、味が濃くてよ」


ガンッ。


頭を殴られたような衝撃が走り、視界の端が赤く染まる。


少女が何か言った気がする。


でも聞こえなかった。


通路へと躍り出る。


「おい、誰だ――」


その声の途中で、一体の顎を蹴り飛ばした。


骨が砕ける音。


歯が飛ぶ。


男の体が壁に叩きつけられ、ずるりと崩れた。


もう一体が叫ぶよりはやく、指をその喉につき刺す。


肉が裂ける感覚。


温かい血が手を伝う。


男は空をつかむようにもがき、すぐに倒れた。


静かな通路に、僕の呼吸だけが響く。


「な、なんで、殺したの」


少女の声は震えていた。


僕は答えなかった。


「行くよ」


少女は視線をそらしながらも、ついてくるしかなかった。


森の入り口まで来たところで、ようやく足を止めた。


少女が心配そうに振り返る。


「見つかってないよね?」


「すぐに追手がくるさ」


そう答えて、森へ踏み出そうとしたとき。


「おい、トウヤ」


低く、押し殺した声。


でも、耳にこびりつくほどよく知っている声。


振り返ると、木々の影から、ジンがゆっくりと姿を現した。


いつもの笑顔は消えている。


鬼気があふれ出て、瞳がギラギラと光っている。


「何やってんだよ」


少女が小さく息をのむ。


僕は一歩、彼女の前に出た。


――夜明け前の暗い森に、僕とジンの瞳だけが赤く光っていた。

毎日一話書いていこうと思います。

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