曖昧酩酊
喫茶の席、祖母の視線から隠すように手元をテーブルの下へ。塩の入った小瓶をひっくり返す。掌の上に広がった少量の粒を口元に寄せ舐めてみる。舌の上でざらざらとした粒子を優しく包むように唾液が染み出す。
「何しとんの。あんま行儀悪いことすんない。そんなもん舐めとっても美味かないやろ」
あんまり優しくたしなめるので、何が悪いのかわからなくともそれが恥ずかしいことだと理解できた私は小瓶をテーブルの上に戻す。塩が小瓶の内で転がった。
祖母の前に置かれたカップには黒く濁った汚い水。雨天の学校帰りのアスファルト。ヒビに埋まる水たまりと変わりないように見える。体内に注ぎ入れるにしては重く暴力的な渦を描いている。それを祖母が軽く口に含む。湯気で白く曇る眼鏡。レンズ越しに映る目元が柔らかく緩む。
「コーヒーって言うんでしょ。そんなにおいしいの?」
カップを指差しながら問いかけた。
「これな、美味いよ。あんたには、まだはやい大人の味。」
店内は平日の午前というのにどこを見ても視界に人がいた。難しい顔でパソコンのキーボードを叩く男。悲しそうな顔して窓の外を見つめる女。ゆっくりと静かに会話を楽しむ老人達。
どのテーブルを見ても置かれたカップから漂うは焦げた豆の匂いだった。
「苦いんでしょそれ。一回飲んだことあるから知ってるよ。苦いのがそんなにいいの?」
祖母がカップを置き、口を開く。
「苦いさ。苦いけんど、そんなに苦くは感じひんよ。子供は大人に比べて味がはっきりわかるんよ。だからあんたには不味く感じるんさ。」
祖母の口から漂うのも焦げ豆の匂いだった。
子供から大人になることは成長することだ。体が大きくなって重いものを持てるようになり、どんなに遠くへでも行けるようになる。賢くなってたくさんのことを知り、得た知識は自分のため、人のため、世界のため。できること、わかることがたくさん増えていく。学校の先生だって言っていたこと。みんな知っていること。
「じゃあ、大人になれば美味しくなるんだね。苦いの嫌いだから早く大人になりたい」
不快なものを舌で感じなくなるのは紛れもない良いこと。疑いもしなかった。
いつもの喫茶。今では祖母の席に私が座り、目の前の私の席に息子が座っている。
私の前にコーヒーが運ばれてくる。砂糖もミルクもない。溶液はカップの中で黒々と重厚な歪みを見せている。一口飲むと鼻腔を香ばしくも深い豆の香りが抜けていく。
カップを置く。湯気で覆われた眼鏡を手に取り、レンズを服の裾で拭く。
目の前にある円い顔はぼやけた視界でも判別できるほどカップと私に向かって軽蔑の表情を浮かべていた。ずいぶん生意気に、強く育ってくれたものだ。
「ねぇ、コーヒーって何がいいの?苦いだけでしょ」
改めて舌の上で染み込む液体に意識を向けた。確かに苦い。だが吐き出してしまいたいとは思わない。苦味はやがて口の中で軽く優しく溶けていった。
この喫茶は祖母が死んだ後も何も変わっていない。あの頃と同じ席の配置。店内の客も顔は違えどまるで誰かの代わりを務めるように客が座っている。
だが、鮮明に脳裏に浮かぶのはあの平日の正午。壁に貼られた壁の文字も今よりはっきり見えた。大人が美味いというものも不味いと簡単に言い切っていた。視界も味も鮮明だった。鮮やかな過去は思い出せるのに、昨日の夕食はなんだったかな。昔と比べると、私は曖昧な今を生きている。長い時間が過ぎていったようだ。色褪せてしまったようだ。
息子の髪をわしゃわしゃと乱すように撫でる。
「大人になればわかるよ。」
息子は髪型を崩させるの我慢ならなかったのか、私の手を強くはたいた。鋭い感覚はあれど痛みが肌を突き抜けはしなかった。




