08 領主さま
(もしかして、やっぱり迷子なのかしら……?)
ティナの様子がやはりおかしい。安心させようと頭に手を伸ばした瞬間、遠くの方から鋭い声が響いた。
「ティナに触れるな!」
「っ!?」
突然の怒号にハッとして振り返ると、茂みの向こうから黒衣の男が姿を現した。春の光を背に立つその人影に、フィオレッタは思わず息を呑む。
淡く光る銀髪に、鍛え上げられた体躯。
すらりとした長身が陽光を遮り、影がこちらに落ちたように感じる。
ただ立っているだけで、空気が一変するような、威圧感のある男だ。
普通の令嬢なら怯えてしまいそうなほどの険しい眼差しをしていたが、フィオレッタは別のことで頭がいっぱいになっていた。
(この御方……あのとき温室で助けてくれた方だわ)
フィオレッタを襲おうとした貴族子息を追い払い、迷子に気をつけろとだけ言って去っていった人。
まさかこんなところで会うことになるなんて、誰が思うだろうか。
しかし、彼の表情はあのときとはまるで違っていた。あのときもフィオレッタには興味がなさそうだった。覚えているはずもない。
底知れぬほどの冷たい眼差しがフィオレッタを真っ直ぐに射抜く。
「ティナから離れろ。お前は何者だ」
低い声が空気を震わせる。
驚いたティナが小さく肩をすくめたが、次の瞬間、花束を抱えたままフィオレッタの背に隠れてしまった。
「おじちゃま……! ち、ちがうの、このおねえちゃまはやさしくしてくれたの。クーちゃんもなおしてくれたよ!」
ティナの声に、銀髪の男は一瞬だけ眉をひそめる。
それでも警戒は解かず、ゆっくりと歩み寄ってくる。
足音が、草を踏むたびに重く響く。
男はフィオレッタとティナの間に視線を走らせ、まるで敵を見定めるようにその瞳を細める。
どうやらティナはフィオレッタから離れる気はないらしく、背に隠れたまま、スカートの後ろをぎゅうぎゅうと握りしめていた。
「見覚えのない住民だな。名をなんという?」
低く、命じるような声音。
フィオレッタはわずかに息を吸い、乱れそうになる心を押さえつけて顔を上げた。
「私はフィオと申します。ひと月ほど前にこの村へ参りました。宿屋をお借りして暮らしております」
その声は穏やかだったが、しっかりと芯がある。
怯えを見せることが、なぜだか許されない気がしたのだ。
男はしばし黙ってフィオレッタを見つめていた。
春の陽光の中で、青の瞳が冷たく光る。
「宿屋……ヨエルのところか。確かに届けが出ていたな」
そう言いながら、男はゆっくりと視線を落とし、顎に手を添える。
考えを整理するように、短く息を吐いた。
鋭さを含んでいた目元がわずかに和らぎ――それでも、油断という言葉とは程遠い。
男の鋭い眼差しに射抜かれながらも、フィオレッタは静かに背筋を伸ばした。
その威圧感に押されそうになりながらも、誤解だけは解かなくてはと思う。
「今日は教会の奉仕を終えて、帰る途中でした。そうしたら、川のほとりで泣いているこの子を見つけたのです。ぬいぐるみが破れてしまって、困っているようでしたので……少し縫ってあげただけです」
「そうなの!」
ティナがその言葉にこくこくと頷き、両腕でクマのぬいぐるみ――クーちゃんをぎゅっと抱きしめる。
「ほんとうだよ。フィオおねえちゃまがなおしてくれたの」
「……」
男はティナとフィオレッタを順に見やりながら、何かを計るように沈黙した。
その鋭い横顔に、風に揺れる草の影が落ちる。
ただその様子を見ているだけで、胸の奥に緊張が走った。
だが同時に、フィオレッタには確認しなければならないことがあった。
(ティナをお返しするにしても、お名前を聞いておかなければならないわ)
ティナは先ほど、この男性のことを『おじちゃま』と呼んだ。
二人になんらかの関係があることは間違いないが、何かあった時のために、身元を聞いておく必要がある。
ああしてひとりで出歩いていたのだ。誰かが彼女を狙っていた可能性もゼロではない。それを思うと、この場を曖昧にしたまま引き渡すわけにはいかなかった。
フィオレッタは一歩だけ前に出て、真っ直ぐ男を見上げた。
「失礼ですが……あなた様は、このティナとどのような関係があるのでしょうか?」
緊張して、少し声が震えてしまった。だけれどそれを表情には出さずに、フィオレッタは真っ直ぐにその男の目を見つめる。夜空に似た深い青色の瞳がわずかに細まり、沈んだ光を宿す。
その反応に、フィオレッタは一瞬だけ息を呑んだが、視線を逸らさなかった。
「俺はこの子の叔父だ。このエルグランド領の領主をしている。名は、ヴェルフリート・エルグランド」
「領主さま……?」
驚いて間抜けな声が出てしまった。それは村人たちが時折名前を口にしていた人物だ。
(けれど待って、エルグランド領の領主であるエルグランド辺境伯はもっと年上の方だったはず)
貴族名鑑で覚えたその風貌は、目の前の男とはまるで違っている。肖像画よりもずっと若く、そして恐ろしいほどの迫力をまとっている。
フィオレッタが知らない間に、代替わりをしてしまったのかもしれない。
「視察で城下に下りていた。ティナは気晴らしのために連れてきていたが、付き人が目を離した隙にいなくなったようだ」
彼が一歩近づくたび、靴底が土を踏む音がやけに重く響く。
その言葉に、ティナが少しだけ肩をすくめた。
「……ごめんなさい、おじちゃま」
申し訳なさそうに小さな声で呟くティナ。
その頭が、フィオレッタのスカートの後ろからひょこりと顔を出す。
その仕草に、フィオレッタは安堵した。
この男――ヴェルフリートがティナに危害を加えるような人物ではないと、確信できたからだ。ならば、保護者のもとに返すのが当然だ。
「ではティナ。叔父さまのところへ行かないと」
優しく促すと、ティナはぶんぶんと首を横に振った。
「や!」
「ティナ……?」
もう一度促そうとすると、ティナはフィオレッタのスカートを両手でぎゅっと握りしめ、涙目で顔を上げた。
「いやったらいや~~~!! フィオおねえちゃまもいっしょがいいの!!」
「ティナ、いけないわ」
「いやーっ! おねえちゃまもくるのー!!」
ティナの泣き声が風に乗って響く。
フィオレッタは困り果ててしまった。どうあやしても、ティナは彼女の腕を離そうとしない。
(どうしたらいいのかしら……このまま泣かせておくわけにもいかないし)
ちらりとヴェルフリートの方を見ると、彼は短く息を吐き、額に手を当てた。
そのため息には、諦めとも呆れともつかない響きがある。
「娘……フィオといったか。今から城に来てもらうことは可能か?」
「城にですか?」
「ああ。エルグランド城に」
落ち着いた声だったが、その底には責任を負う者の重さがあった。
軽々しく断ることのできない響きに、フィオレッタは確認するように言葉を繰り返す。
エルグランド城は、あの小高い丘の上にある城のことだ。
山を背にして立つその姿は、まるで国を守る盾のように見える。
隣国との国境を見張る砦でもあり、辺境の厳しい風の中でもどこか誇らしげにそびえていた。
平民として暮らすことになった以上、ほとんど近づくことはないと思っていた。
「ええと、今日はこれから宿屋の仕事を手伝う予定があります」
正直に答える声が少し揺れた。領主に対してこのもの言いはどうかと思ったが、無責任なことはできない。
「なるほど。働いているのだな」
どんな言葉が返ってくるかと思ったが、ヴェルフリートは静かに頷き、視線をティナに向ける。
「ティナ、俺と二人で城に戻ろう」
「……っ」
彼の視線の先で、ティナは相変わらずフィオレッタのスカートを握りしめたまま離れようとしない。
クマのぬいぐるみも、かわいそうなくらいに強く抱きしめられている。
三人の間に、ぴゅうと山からの風が吹いた。
「宿屋の主人には話を通す。申し訳ないが、城まで同行を願えないだろうか」
その言葉は決して上から押し付ける命令のような言い方ではなく、真摯なお願いだった。
この人は決して強要するような人ではない。そう思った瞬間、フィオレッタの中の警戒が少しずつ解けていく。
「……わかりました。お役に立てるなら、喜んで」
やむを得ない。
フィオレッタが受け入れると、ティナが涙をたくさん浮かべた目でこちらを見上げる。
「フィオおねえちゃま、いっしょ?」
「ええ。ティナをおうちに連れて行くわね」
「やったあ!」
先ほどまでのウルウルが嘘のように、ティナは今度は笑顔になる。その拍子にぽろりと涙が柔らかそうな頬を伝った。
(どうしてこんなことになったのかしら……?)
フィオレッタは戸惑いを隠せないまま、彼らが乗ってきたという馬車に乗り、丘の上の古城を目指すことになったのだった。




