◆閑話 文官たちのざわめき
王都にある執務塔の一角。
窓の外では、春風が王城の尖塔をなでている。
しかし執務局の空気は、季節とは裏腹にどこか重たかった。
「……あれから、もうひと月か」
「本当のところを知っている俺たちからすれば……冗談にもならん」
「資料整理の大半を担っていたのはあの方だ。いま、誰が代わりをやっていると思う?」
インクの染みた袖をまくりながら、文官たちは疲れた目で積まれた書類の山を睨む。
いつも穏やかだった職場は、今やため息と愚痴で満ちていた。
一様に目の下は隈をこしらえ、もはやフラフラだ。一体何日家に帰っていないだろうか。
「殿下は、フィオレッタ様は役立たずだったとおっしゃったそうですよ」
「……あの方がいれば、ここの書類は三日で片付いたことだろう」
「はは、言えてる……」
皮肉めいた声に、苦笑すら起きなかった。もはや疲労困憊を越えて虚無である。
フィオレッタ・グラシェル――公爵令嬢で第三王子の婚約者。
彼女がいた頃は、山のような案件が驚くほど滑らかに処理されていた。
だが今、その穴を埋める者はいない。
その時、扉がノックされる音が響いた。
「第三王子殿下、御入室!」
慌てて全員が立ち上がり、頭を下げる。
悠々と歩み入ってきたのは、黄金の髪を揺らす若き王子。
隣には、絹のドレスをまとった令嬢がいる。
フィオレッタとの婚約解消とエミリアとの婚約が公に伝えられたのは同時だった。
「ご苦労。ずいぶんな紙の山だな」
第三王子は軽く笑うと、文官たちの疲弊した視線を一瞥することもなく、エミリアの手を取った。
「お前たちにもエミリアを紹介しておこうと思ってな。これから顔を合わせる機会も多いだろう」
文官たちはこのひと月ほとんどこの執務塔から出ておらず、当然の事ながらエミリア本人とは会ったことはない。
「エミリア・グラシェルですぅ。よろしくお願いしますっ」
桃色の髪を揺らして、エミリアがにこりと笑う。
鈴のような声に、数人の若い文官たちがぽうっと頬を染めた。
その隣で、ルシアン第三王子が満足げに微笑む。
「ほらエミリア。君の可憐さに文官どもも見蕩れているぞ」
「まあ、殿下……もう、そんなあ」
エミリアがわざとらしく両手を頬に当てて身をよじる。
ルシアンはその仕草に楽しげに目を細め、周囲の空気を気にも留めずに続けた。
「彼女は最近、僕の補佐の勉強を始めたばかりでね。フィオレッタのように無愛想ではなく、場を明るくしてくれるんだ」
わざわざその名を出され、室内の空気が一瞬ひやりと凍る。
文官たちは机に視線を落とし、誰も口を開こうとしなかった。
だが、ルシアンだけはそんな沈黙を心地よい余韻とでも思っているようだった。
「ねえ、ルシアンさま。今日のお仕事って、もう終わりですか?」
「うん、もう少しだけだ。だが、君の見たいドレスの件も気になるな」
「えっ、いいんですの? また一緒に見に行けるなんてうれしい!」
エミリアが無邪気に笑い、ルシアンはその肩に手を置く。
目の前で繰り広げられる軽薄なやり取りに、文官たちは互いに視線を交わした。
――いつまで続くんだろう、この茶番は。
ようやく二人の笑い声が一段落したころ、ルシアンは思い出したように後ろの侍従から書類を受け取る。
「そうだ、これを頼んでおく。南部のラトゥール地方――あそこの商会のドレスを調べておけ」
「ラトゥール地方、でございますか?」
「そうだ。父上が興味を持たれている件でな。……いや、僕としても少々気になる」
気になる、と口にしながら、ルシアンの視線は明らかにエミリアに向けられている。
どう考えても、私的な案件なのではないか。
そう思っても、王族に対して表立って口にすることはできない。
「期日は三日以内だ。詳しい報告をまとめておけ。では、頼んだぞ」
それだけ言い残し、ルシアンはエミリアの腰に手を回した。
エミリアはくすぐったそうに笑いながら、「もう、殿下ったら」と小さく肩を叩く。
扉が閉まると同時に、重い沈黙が戻ってきた。
積み上がった書類の山と、置き去りにされたため息。
第三王子はこうしてふらりと訪れては、徒に仕事を増やしてゆく。
これまで自分たちの仕事が滞りなく行えていたのは、フィオレッタのおかげだったのだ。
それをこれまで気が付かずにいた。
厳しく書類をチェックする彼女を、疎ましいと思っていた者すらいたのだ。
「……“悪女”を追い出した後の方が、よほど地獄じゃないか」
誰かが小さく呟く。
返す声はない。だが、誰もが心の中で頷いていた。




