04 王都追放
翌朝の公爵家。
居間には両親と妹、そしてルシアンが揃っていた。
フィオレッタが呼ばれて入ると、空気がすでに張り詰めている。
「来たな、フィオレッタ」
「皆を待たせて……本当に貴女はのろまね!」
父の声は硬い。その隣で、母はフィオレッタを睨みつけ、エミリアの肩を撫でている。
起きてすぐに呼びつけられて準備をしたというのに、その時にはすでに全員揃っていたのだろう。いつだってフィオレッタは後回しだ。
「お前、なんという真似をしたのだ」
父が呆れたようにため息をつく。
昨日起きたことに、フィオレッタ自身の落ち度があったとは思えない。
「……真似、ですか?」
「ルシアン殿下の書類を勝手に持ち出し、挙句に殿下とエミリアの仲を侮辱したそうではないか」
「違います! あの書類は殿下ご自身が――」
「黙りなさい!」
父の怒声が響いた。その衝撃に、胸の奥がじんと痛む。
「お前は昔からそうだ。言い訳ばかりして、可愛げというものがない!」
「お父様……」
「いいか、フィオレッタ。お前の行いはすでに社交界でも噂になっている。男を惑わせ、妹を虐め、公金を使い込んだ。さらに機密文書を持ち出していたなどしれたら、この公爵家の威厳に関わる問題だぞ!」
「ああ……本当に嘆かわしいわ」
母の目が、まるで汚れを見るように冷たい。
エミリアは悲しげに俯きながら、小さく呟いた。
「お姉様……ごめんなさい。でも、わたし、殿下のことを心からお慕いしてしまったのです」
「かわいそうなエミリア。言い出せなかったのね」
その声は震えていたが、涙は一滴もない。むしろその横顔には、どこか勝ち誇った影があった。
どう考えても不貞を働いたのは妹なのに、母はエミリアをなぐさめてフィオレッタを睨みつける。どうしてそうなるのか、もう何も期待はしていないけれど。
それに、公金とはなんのことだろう。
「僕から説明する」
ルシアンはそっとエミリアの手を取ると、涼しい笑みを浮かべてフィオレッタの方を見た。
「私はエミリア嬢を愛している。婚約の形式上、フィオレッタに義理を果たそうとしたが、昨日のことで決心がついた。あの茶会で、男と密会をしていたのだろう? 君のようなふしだらな女とは、未来を築けない」
「そんなことはしておりません」
「うるさい! 見ていた者が教えてくれたんだ!」
その言葉が刃のように胸を刺す。
静まり返った空間で、誰もフィオレッタを庇う人はいない。
あの庭園での出来事を見ていた者がいるなら、あの人がフィオレッタを助けてくれたことも知っているはずなのに。
ここはフィオレッタを糾弾するための場で、味方もいない。もう何もかも無駄だと思えた。
「フィオレッタ。お前との婚約は破棄し、新たにエミリアと縁を結ぶことにする」
「まぁ……なんて素敵なことなの。これも神の導きですわ」
「それは公爵家としてもこの上ない名誉です。ルシアン殿下、ありがとうございます」
ルシアンの言葉に母が満足げに頷き、父もすぐに同意を示す。
空気が祝福に満ちていく。
(――とんだ茶番ですわね)
その中心に、フィオレッタの居場所はなかった。
彼女はただ、目の前で微笑み合う二人を静かに見つめる。
涙は、もう昨日の夜に枕へと吸い込まれてしまった。泣きすぎてもう出るものもない。それでも、胸の奥が軋む。
(いつかきっと、わかり合えると思っていたのに)
あの人の隣に立つために学び、努力を積み重ねてきた日々。
夜遅くまで王子妃教育を受け、完璧であるよう自分を律してきた。それらすべてが、今は滑稽に思えた。
ルシアンが椅子から立ち上がる。
その瞳には、もはや情のかけらもない。
「昨日の件――機密文書の持ち出しについては、今回だけ不問とする。公金の件についても、これから妃となるエミリアのことを思えば公にはできまい……彼女に降りかかる火の粉は減らしたいからな」
「ルシアンさまっ」
二人は見つめ合い、エミリアは目を潤ませている。
父と母もウンウンと頷いていて、なぜかとても滑稽に思えた。
フィオレッタだけが知らない話で、皆が罪をなすりつけようとしている。
「公金の使い込みとはなんのことです? わたくしにはそのような権限はありません」
「うるさい! 罪人の言うことなど聞けるか! お前は二度と王都に足を踏み入れるな」
冷ややかに告げられた宣告に、室内の空気がさらに重く沈む。
父が低く頷き、言葉を継いだ。
「聞いたな。殿下の温情をありがたく思いなさい。グラシェル家の名を汚した娘をこれ以上置いてはおけぬ。今すぐこの屋敷を出て行け」
隣で、エミリアが悲しげに両手を胸の前で組んだ。
大きな瞳を潤ませ、絞り出すように言う。
「そんな、お姉様がかわいそうです……!」
その言葉に、部屋中がどよめいた。
「なんて優しいんだ、エミリア」
「あなたは心まで美しいのね」
賛美の声が次々と上がり、フィオレッタの存在は完全に掻き消された。
――この家では、誰も真実など見ようとしない。
それなら、もう言葉も要らない。
「わかりました」
声は驚くほど静かだった。
微笑さえ浮かべて、フィオレッタは深く頭を下げる。
「これまでお世話になりました。すぐに支度を整えます」
扉を閉め、廊下に出ると、外の光がまぶしかった。
もう、涙は出ない。胸の奥に残るのは、ただ乾いた痛みだけ。
(もう、泣いてなんてあげません。そんな価値もないもの)
フィオレッタは背筋を伸ばして歩き出す。
足音が廊下に響くたび、胸の奥の何かが少しずつ剥がれ落ちていくようだった。
執事や侍女たちが遠巻きに視線を向けるが、誰一人として声をかける者はいない。
玄関の扉を押し開けると、午後の光が頬を照らした。
庭の花々が風に揺れ、鳥の声が遠くに聞こえる。
すべてがいつもと同じはずなのに、この場所は自分の居場所ではないという思いが強くなる。
簡単に荷造りを済ませたフィオレッタは、馬車へと歩み寄った。
御者が静かに頭を下げる。その隣には涙をたくさん浮かべたリゼがいた。
「お嬢様……なんてひどいことを……!」
「私のために泣いてくれるのは貴女だけよ、リゼ」
「きっと、きっと旦那様たちは後悔いたします。でもお嬢様にとってここが良い場所であるとは思えません」
リゼは怒りを露わにしてくれる。母よりも母親であり、フィオレッタにとって大切な人だった。
「お嬢様。北のエルグランド領の町に娘夫婦がおります。紹介の手紙を書いていますから、そこに向かうのはどうですか?」
「ありがとう。どこに行くかは決めていなかったから助かるわ」
急なことで、何も決めていない。
ただ王都を出ていけたならどこでも良かった。
フィオレッタはリゼから手紙を受け取ると、御者に行き先を告げた。エルグランドは少し遠い地にはなるが、その方がかえって好都合だ。
フィオレッタのことを誰も知らない遠い地で、また一から始めよう。
(誰のためでもなく、自分のために生きていく。今度こそそうするわ)
そう決意して、フィオレッタ・グラシェルは王都を去った。




