36 戻る場所
エミリアとルシアンが騒々しく退室していき、扉が閉まる。大広間には嘘のような静寂が落ちた。
空気が震えるほど張り詰めていた緊張が、すっと解けていく。誰もが状況を飲み込めず、ただフィオレッタと王太子を見つめていた。
そんな中、王太子ジークフリートがゆっくりと一歩前に出た。
「フィオレッタ嬢」
その声音は、先ほどルシアンに向けたものとは違い、深い悔恨と敬意を含んでいた。
「長きにわたり、王家の無力と不備により、不当な疑いをかけ、苦しませてしまった。王太子として、そして兄として謝罪する」
大広間にいた全員が息を呑む。王族の謝罪は稀なことだ。それが今行われている。
(王太子殿下が私に謝罪を……)
胸の奥がじんと熱くなる。フィオレッタは静かに、しかしはっきりと前を見据えた。
「謝罪を受け入れます。起きてしまったことは、もう過ぎたことです。ただ……今日、真実が明らかになったことに、心より感謝申し上げます」
その毅然とした声に、周囲の貴族たちが小さくざわめき、やがて、尊敬の色を帯びた視線が次々に彼女へ向けられた。
(やっと……終わったのね)
胸に積もっていた重しが、ふっと軽くなったような気がする。ジークフリートは深く頷き、広間全体に向かって宣言した。
「フィオレッタ・エルグランド夫人の名誉は、今この場をもって完全に回復された。彼女は潔白であり、むしろ王家を救った忠義の人である!」
その言葉が響き渡った瞬間――最初は遠慮がちだった拍手が、波のように広がっていく。さっきまでフィオレッタを疑っていた者たちでさえ、今は尊敬の眼差しを向けていた。
胸の奥が熱くなり、視界が少し滲む。
「よく頑張ったな。フィオ」
ヴェルフリートの大きく温かい手が、そっとフィオレッタの手を包む。驚いて顔を上げると、彼の瞳はこれまで見たこともないほど優しく柔らかい光を宿していた。
「我が妻が強く誇らしい」
「ヴェルフリート様!」
指先に唇を落とされ、心が一気にほどける。
こうしてここに立てたのも、逃げずにいられたのも、全てこの人が隣にいるという安心感からだ。
「……本当にありがとうございました」
フィオレッタは心からの笑顔で、それに応じた。
王太子が皆に夜会を楽しむようにと呼びかけたことで場が落ち着きかけたその時、フィオレッタの耳に、聞き慣れた声が飛び込んできた。
「おおフィオレッタ!」
「娘よ、よく戻ってきたわね!」
「……お父様、お母様」
グラシェル公爵夫妻が勢いよく駆け寄ってくる。先ほどの空気とは打って変わって、満面の笑顔だ。どうして今更そういう顔ができるのか分からない。フィオレッタは顔を強張らせる。
「あなたが名誉を回復したと聞いて、胸がいっぱいよ。さあ、公爵家に戻りましょう。今なら全て許してあげるわ」
「家出など早まったことをして……我々は本当に心配したのだぞ」
その言葉が、胸にひやりと落ちた。
(嘘ね。私のことを大切にしてくれたことなんてないくせに)
血が繋がっている家族はいつも、フィオレッタに愛をくれなかった。もう信じることはない。
辺境での生活の方がずっと、愛と自由に満ちている。
フィオレッタは両親を見据え、背筋を伸ばした。
「私はもうそちらに戻るつもりはございません」
静かに告げると、公爵夫妻の表情が固まる。
「な、何を言っているの! 公爵家の名を捨ててどうやって生きていくの」
「身分がなければ困るのはお前だろう! 平民に価値などない!」
何て勝手な言い分だ。フィオレッタが息を呑むより早く、すっと影が差し、ヴェルフリートが前に出た。
「身分で困ることは一つもない」
低い声は氷のように冷たく、しかし揺るぎなく響いた。
「フィオはもうエルグランド辺境伯夫人だ。彼女が困る未来など、私が許さない」
公爵夫妻は言葉を失い、半歩後ずさる。
「し、しかし! 平民の子など後継には不適格だ!」
「おや、公爵閣下は我が辺境伯家の後継問題もお考えなのだな。その点についても安心してください。正統な後継はもういます」
「ぐ……! 不愉快だ!」
「こ、後悔するのだからね、フィオレッタ!」
ヴェルフリートがきっぱりと言い放つと、公爵夫妻は捨て台詞を残してそのまま人混みに消えていった。
(正統な後継とはティナのことね)
ティナの顔を思い浮かべてフィオレッタが小さく息を吐くと、ヴェルフリートは振り返り、そっと手を取った。
「……すまない。カッとなって俺が勝手に答えてしまった」
バツの悪そうな顔をしている。そのしゅんとした様子がどこか可愛らしく、フィオレッタはくすくすと笑みをこぼした。
助けられたのはフィオレッタの方だ。あの両親ともちゃんと決別できてよかった。
「それに、アレも殴り損ねた」
拳をじっと見下ろすヴェルフリートにそっと近づいたフィオレッタはゆっくりと首を横に振る。
「私、早くエルグランド領に帰りたいです」
そう答えると、ヴェルフリートは安心したように笑い返してくれたのだった。




