34 決意
広場での事件からまた一週間ほどが過ぎた。
オルドフの横領と虚偽告発、それから前領主夫妻に対する罪が明らかになり、彼が王都に連行されたことで収束した。あの直前、ヴェルフリートの尋問についにオルドフは車輪に細工をしたことを認めたという。彼はなんと、賭博依存だった。
横領した公金は賭博に溶かし、王都への度々の遠征も全て賭博のためだ。額も期間も徐々に大きくなり、引き戻せないところまできていたのだという。
そして、そのことに気がついた夫妻に咎められ、凶行に走った。なんとも身勝手すぎる犯行だ。
(なんてひどいことをするのかしら)
フィオレッタは、隣でスヤスヤと眠るティナの頭をそっと撫でた。
広場で立ち向かってくれた彼女の強さには助けられた。あのまま馬車に乗っていても、誰にもフィオレッタの声は届かなかったかもしれない。
オルドフを支持していた使用人たちも合わせて一掃され、エルグランド城は新たな一歩を迎えた。ティナはいつかこの事実を知ることになるだろう。
だがそれは、今ではないと思った。
(私の勝手を許してね、ティナ)
フィオレッタがティナのまんまるなおでこにそっと唇を落とした時、控えめなノックの音が聞こえた。
「フィオ、まだ起きているか?」
「……ヴェルフリート様?」
声を潜めて問いかけると、扉の向こうから落ち着いた声が返ってくる。
「……少し話がある。場所を移してもいいだろうか」
「はい、わかりました」
フィオレッタは小さく息を整え、ティナに毛布をかけ直すと、そっと寝室を後にした。
廊下は夜の冷気を含んで静まり返っている。ヴェルフリートは寝室の外で待っており、フィオレッタを見ると肩の力をふっと緩めた。
「ティナは眠っているか?」
「ええ。今日は色々ありましたもの」
ヴェルフリートは深く頷くと、控えめに手を差し出した。
「執務室へ行こう。誰にも邪魔されず話せる」
夜の執務室は静寂に包まれていた。燭台に灯る火だけが明滅し、棚に並ぶ本の影が細かく揺れている。
「実は……王都から正式な返答が届いた」
ヴェルフリートはテーブルに分厚い封筒を置いた。封蝋には王太子の紋章である双竜の紋が刻まれている。
その重々しい印を見た瞬間、フィオレッタの胸が小さく跳ねる。
「王太子殿下から、ですか」
「ああ。監察局の暴挙とオルドフの件をジークフリート殿下に直訴したら、即座に監察局を含めた再調査をしてくれた」
ヴェルフリートは封を切り、中の報告書を広げる。
王太子に直訴、という点にフィオレッタはまず驚いたが、ヴェルフリートは何も気にも留めていない。
(王太子殿下とヴェルフリート様はお知り合いだったのね)
第三王子の婚約者だった時に王太子夫妻とは何度か会ったことはあるが、とても聡明な方に見えた。王太子妃も同様に。
「監察局は、オルドフの横領と虚偽告発、それから前領主の殺害について正式に認めた。極刑になるだろう。それから……」
視線がわずかに険しくなる。
ヴェルフリートは数秒だけ言葉を選び、それから封筒のもう一枚を取り出した。
「ジークフリート殿下から直々の招待状だ。来月、王城の夜会に出席するようにとのこと。そして――妻も同伴せよと書かれている」
フィオレッタの背筋に冷たいものが走る。
(正直なところ、夜会にいい思い出はないわ、けれど)
フィオレッタが黙りこんでしまったため、ヴェルフリートはその招待状を破るようなそぶりを見せる。
「大丈夫だ。強制ではない。君が望まぬなら俺ひとりで……いや無視してもいい。そうしよう」
「破らないでくださいませ!?」
ヴェルフリートと視線を合わせて、フィオレッタは悠然と微笑んだ。確かな意志を込めて。
「行きますわ。ヴェルフリート様が一緒にいてくださるのですよね?」
その声音に、ヴェルフリートは驚いたように目を瞬いた。
「それはもちろんだ」
「逃げたくありません。私はようやく向き合える気がするのです」
ヴェルフリートの表情に、微かな誇らしさが宿る。
「俺が隣にいる。何があろうと、今度こそ君を守る。そして殴る」
「まあ」
第三王子のことを言っているのだろう。そう思えて、自然と笑みがこぼれる。とても心強くて、安心できる。とても信頼できる人だ。
「告発状の件も王太子に聞いているところだからな」
「監査局への命令書はルシアン殿下の名前だったのですよね」
「ああ。オルドフとあの男を同じ賭博場で見かけた者がいる。叩けば埃が出るだろう」
あのトーマスという調査官は、高圧的ではあったが考えを正せる人だった。だからこそあの時オルドフを捕縛し、命令書をヴェルフリートに見せたのだろう。
「ジークフリート殿下のことだ。何かお考えがあっての事だと思う。絶対に俺の傍から離れるな」
「はい。そうします」
不思議と心は軽い。フィオレッタはまた自然に笑うことができた。
(ルシアン殿下やエミリアに会うことになっても、きっと大丈夫ね)
ヴェルフリートがいてくれたら乗り越えられる。
その決意を胸に、フィオレッタは王城の夜会へ向かうことを決めたのだった。
***
王城の大広間へと続く前室は、すでに夜会の熱気を帯びていた。
分厚い扉の向こうからは、華やかな楽団の調べと貴族たちのざわめきが波のように伝わってくる。
(……久しぶりだわ、この空気)
フィオレッタは深く息を吸い込む。
身に纏っているのは、エルグランドの仕立て職人が総動員で仕上げてくれた深い青色のドレス。淡い銀糸が裾に向かって星屑のように散っており、歩くたびに夜空を揺らすかのように光っている。
胸元には、ヴェルフリートが「護符代わりに」と贈ってくれた青いペンダント。
澄んだ蒼玉の中で光が揺れ、まるで凪いだ湖面に浮かぶ月を閉じ込めたようだった。
(これがあるだけで……心が折れない気がする)
手袋越しにそっとペンダントに触れた瞬間、横から大きな影が寄り添う。
「フィオ。本当に無理はしていないか」
隣から聞こえた低い声に、フィオレッタはドレスの裾を整えながら小さく微笑んだ。その声音は心地よく、心が凪いでいくようだ。
「少しだけ。でも大丈夫ですわ。ありがとうございます」
フィオレッタが微笑むと、ヴェルフリートはわずかに表情を和らげた。
彼は一度も手を離そうとしないばかりか、会場へ一歩進むごとにさりげなく身体を寄せ、視線で人々を牽制する。
(まるで、絶対に離れないと言っているみたい)
その心強さが胸に沁みて、緊張が少しずつ解けていく。
扉の前に到着すると、王家の礼官が声を張り上げた。
「エルグランド辺境伯、ヴェルフリート・エルグランド様。並びに、夫人フィオ・エルグランド様のご入場!」
大広間の視線が一斉に注がれる。
その中には驚きや困惑の色が見え、ざわめきたつ。
「……あれ、フィオレッタ様じゃない」
「どうして辺境伯と……?」
ささやきがいくつも耳に届くが、フィオレッタは俯かなかった。
背筋を伸ばし、ヴェルフリートの隣で堂々と歩く。
ちらりと隣を見れば、ヴェルフリートがすぐに優しい視線をフィオレッタに向けてくれる。それに笑みを返せば、自然と近くにいた人たちの声色は好意的なものに変わった。
視線を中央に向けると、大広間の最奥にある王族席には、今宵の主催である王太子ジークフリートと王太子妃レナリアが並んでいた。
ふたりは既にフィオレッタたちに気づいたようで、柔らかな微笑を浮かべている。
(王太子殿下と王太子妃殿下。まずはご挨拶へ向かわないと)
喉の奥が緊張でひきつる。
「大丈夫だ、フィオ」
手を包むヴェルフリートの掌が、そっと温度を添える。その一言に背筋がすっと伸び、フィオレッタは頷いた。
王族席へ近づくと、まず立ち上がったのは王太子妃レナリアだった。
相変わらずその佇まいは優雅で、目元に宿る柔らかい光がフィオレッタの胸を少しだけほぐしていく。
「フィオレッタ様。今までさぞ、ご心痛でしたでしょう。お元気そうで良かったわ」
丁寧で真心のこもった声。その言葉を聞いただけで、胸の奥の緊張がふっと緩むのを感じた。
「ありがとうございます、レナリア王太子妃殿下」
フィオレッタが礼を取っていると、横から低くよく通る声が響いた。
「フィオレッタ嬢。我が愚弟が失礼をした」
王太子ジークフリートだ。きっぱりと言い放たれた「愚弟」という言葉に、フィオレッタは思わず瞬きをする。
二人から向けられる言葉が予想外で、ただただ戸惑うことしかできない。
「そうですね。だが彼のおかげでこうして私が妻に巡り会えたので、その点は評価したいものだ」
「えっ」
隣から聞こえた落ち着いた声に、頬が熱くなり、心臓が跳ねた。
(ヴェルフリート様……!? いま、なんて……)
ジークフリートは、フィオレッタとヴェルフリートの様子を面白そうに眺めると、喉の奥でくつくつと笑い声を漏らした。
「ヴェルフリート。お前もそんな顔ができたんだな」
「……どういう意味でしょうか」
「いやいや、二人に会えて嬉しいよ。今宵は楽しんでくれ」
王太子夫妻は満足そうに微笑み、二人を大広間へと送り出した。
***
広間へ戻ると、先ほどまでのざわめきはすっかり落ち着き、代わりに好奇と驚きの視線が温かく混じり合う。
「フィオレッタ様、前よりお綺麗に見えるわ」
「なんだか、雰囲気が変わったような……?」
そんな声が聞こえるたびに、フィオレッタは少しだけ頬が熱くなる。
だが隣ではヴェルフリートが、あたかも当然のようにエスコートし、手を離そうとしない。
「フィオ。疲れていないか」
「大丈夫ですわ。むしろ、こんなに楽しいのは初めてです」
「……そうか。それなら安心した」
ヴェルフリートが柔らかく微笑んだ瞬間、近くの令嬢たちが小さく息を呑む。
(気持ちはわかるわ……破壊力がすごいもの)
彼は自然にフィオレッタの背へ手を添え、混雑からそっと庇ってくれる。
「足元に気をつけるように。手を」
「ありがとうございます」
手を取れば、そのまま指を優しく絡めてくる。
周囲の視線が、驚きから憧れへと変わるのがわかった。
フィオレッタは少し頬を染めるが、ヴェルフリートは当然のように言う。
「妻を大切にするのは当然だろう」
その穏やかな声に、また令嬢たちが小さな悲鳴を上げ、辺境伯夫妻の仲睦まじさが広間に静かに浸透していく。
(怖いだけの場所じゃないのね)
わずかに肩の力が抜けた、その時だった。
広間の奥――人のざわめきとは違う、刺すような気配が流れ込んできた。
「……フィオ」
ヴェルフリートがそっと手を引き寄せる。
その視線の先に、ゆっくりと別の二人が姿を見せる。
そこにいたのは第三王子ルシアンと、婚約者である妹のエミリアだった。




