33 ヴェルフリート③
※ヴェルフリート視点
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(なんだ、これは)
ティナとフィオの姿が目に入った瞬間、ヴェルフリートの胸の奥で、何かが静かに軋む音がした。
ティナは涙で頬を濡らし、フィオの手を必死に握っている。
その小さな身体が震えているのが、遠目にもわかるほどだった。
(……よくも、こんなことを)
怒りは凶暴な炎のように膨れあがる。
だが、同時にそれを無理やり押し込める理性もまた、確かに彼の中にあった。
ふたりの前で、無様に怒りを爆発させるわけにはいかない。
あの子を、フィオを、今一番安心させるためには、領主としての冷静さを見せる必要がある。
ヴェルフリートは馬から下り、トーマスの前にゆっくりと歩み寄る。
その足取りは静かだが、一歩ごとに広場の空気が重く沈んでいく。
「辺境伯に対する宣戦布告と捉えるがいいのだな」
その言葉だけで、広場の空気が一変した。
地を這うような低い声。抑え込まれた憤怒が、冷たい風のように広がっていく。
「エルグランド辺境伯、ヴェルフリート・エルグランドだ。我が領地でのこの騒ぎについて説明していただきたい」
礼儀正しい声音なのに、調査官の肩がぴくりと跳ねる。
「へ、辺境伯殿……王命に基づく職務遂行中につき、これは――」
「王命であろうと、我が領地での勝手な行為は許容しない」
氷で固めた刃のような声音に、周囲が息を呑む。
「そして、私の妻に剣を向けるなど、断じて看過しない」
その言葉で、広場の空気が震える。怒鳴っていない。威圧してもいない。
ただ事実を述べただけなのに、この場にいる誰よりも強い。
「ヴェルフリート様……!」
フィオの声がする。いますぐ駆け寄りたい気持ちを抑えて、トーマスを見下ろす。
トーマスは取り繕うように笑い、巻紙を差し出した。
「ごご、誤解のないように申し上げますが、こちらは告発状に基づく手続きです。フィオレッタ・グラシェル元令嬢が公金を私的流用し、領主を惑わせているとの――」
「ああ。その告発状に書かれている内容は、すべて虚偽だ」
その断言は鋭い刃のように言葉を断ち切った。
「……な……?」
「その告発状を王都へ送った者こそ、我が家の公金を使い込んだ張本人なのだからな」
ざわり、と広場が揺れる。
「クラウス」
「はーい。持ってきたよ」
ヴェルフリートが顎で合図すると、クラウスが歩み出てきた。肩に担いでいたのは、大きな麻袋だった。ズルズルと地面を引きずり、調査官の目の前に来るとそれを雑に転がす。
「……っぎ……うぐ……っ!」
麻袋の口から、蛙が潰れたような濁ったうめき声が漏れた。
クラウスは手袋を外してため息をつきながら、袋の上を軽く足で押さえる。
「抵抗が激しかったんでね。逃げられても困るから袋詰めにしてきました」
「な、何をしている!? その中はまさか……!」
トーマスが青ざめた顔で袋を見下ろす。
クラウスは肩をすくめ、実にあっさりとした声で答えた。
「オルドフですよ。ほら、あなたのところへ告発状を送った張本人です」
「な……!」
一斉にその袋は渦中の者となった。マルタもヨエルも、町の人たちも、誰もが袋に釘付けになる。
「う、うそ……オルドフさんが……?」
「フィオちゃんを悪女呼ばわりしたってことか……!」
ささやきが広がり、怒りの色が混ざっていく。
袋の中から、くぐもった叫びがじたばたと揺れた。
「ち、ちが……わ、私は――!!」
袋の布を内側から拳で叩く音。しかしクラウスは、淡々と靴先で袋を抑え、逃げ道を封じた。
「黙ってろ。証拠はすでに全部そろっている」
ヴェルフリートが静かに歩み出る。
その足取りは落ち着いているのに、調査官の顔がひきつるほどの圧があった。
「貴殿に送った告発状は、この男が自らの罪をフィオに被せるために書いた偽証。そして――この男が横領した公金の裏付けは、すでに全て押さえてある。クラウス」
「はーい。裏帳簿の写しはこっち。密書はこれ。それとオルドフが王都で違法な賭博行為を行っていたことも調査済みです。必要であれば報告書もどーぞ」
ヴェルフリートの言葉に準じるように、クラウスが次々と袋から証拠品を取り出して地面に並べる。
「な……なんという……」
「我が領地での横領に興味があるならそいつを連れていけ。違法賭博にはどこかの王子も関わっていそうだが」
トーマスは、まるで足元の地面が崩れ落ちていくように顔色を失った。
騎士たちも互いに目を見交わし、動揺を隠せない。
(……やはり、王都は何も調べずに動いたな)
ヴェルフリートはそこでふと振り返る。
ティナはフィオの手を握りしめたまま、不安そうにこちらを見つめている。
(ティナにこの先の言葉を聞かせるわけにはいかない)
そう判断したヴェルフリートは、再びトーマスに向き直り、足音を消すようにゆっくり歩み寄った。そして――トーマスの耳元へ、そっと顔を寄せる。
「この男は公金の横領に気づいた前辺境伯夫妻を、馬車の事故に見せかけて殺害した事も供述している。そんな男の告発状を、王都の高潔な監察局は信用するのか?」
「……っ!」
「この場でフィオや領民に指一本触れてみろ。お前の監察局ごと、俺を敵に回すことになる」
その声音は、氷の底に沈むように低く、静かだった。
トーマスの背筋がぴしりと凍りついたように強張っているのが分かる。表面上は礼儀正しく立っているが、膝がわずかに揺れているのをヴェルフリートは見逃さない。
「……どうして、そんなことしたの……?」
そのとき、泣き声まじりの小さな声が広場の空気を震わせた。
ティナが涙でぐしゃぐしゃの顔で麻袋をにらんでいる。
「フィオおねえちゃまはわるいことなんてしてない。わたしのかぞくなのに、なんでウソなんてついたの……!」
幼い叫びは、鋭くまっすぐに広場へ響いた。場の空気が明らかに変わった。
誰もフィオを疑う者はいない。視線の矛先は一斉に麻袋の中の男へ向けられた。
「ち、違……! 私は、悪くない。全部悪女のせいだ!」
袋の中のオルドフが必死に叫ぶが、誰にも届かない。
トーマスは唇を震わせ、麻袋を見下ろした。
「……オルドフを拘束する。虚偽告発および公金横領の疑いで、王都へ連行する」
騎士たちが袋を押さえ込み、縄を締め直す。
ずるりと引きずられながら、オルドフは情けない声を上げた。
「離せ! 私は悪く――」
「うそつきはだめだよ!」
ティナが涙をぬぐい、きっぱりと言う。
その一言で、完全に終わった。
領民たちは黙ってオルドフを見送り、フィオの疑いは全て晴れた。
調査官トーマスがヴェルフリートに歩み寄り、深々と腰を折る。
「この度は領地を騒がせてしまい、誠に申し訳ありません。虚偽告発については、王都にて厳正に処理いたします。また――別件につきましても、後日あらためてご説明を」
ヴェルフリートは冷ややかな視線で巻紙を受け取った。
「告発状の控えを見せてもらう」
「どうぞ」
トーマスは素直に差し出す。ヴェルフリートは素早く目を通した。
最後の署名欄には、第三王子の名があった。
怒りが胸の奥で重く沈む。だが今は、それを問いただすときではない。
監察局の馬車が去っていき、広場はようやく元の静けさを取り戻し始めた。
緊張の糸が切れたらしいフィオが、その場にへたりと座り込んでしまうのが見えた。
「フィオ!」
ヴェルフリートは急いで駆け寄り、彼女の手を取った。
そのまま胸にぎゅっと抱き寄せる。
「ヴェ、ヴェルフリート様……み、みなさんの前です……!」
フィオが焦っているが、ヴェルフリートは離さない。この華奢な体で、いつも凛とあろうとする彼女が誇らしく、そして愛おしい。
(そうか。これがクラウスが言っていた……)
ヴェルフリートはフィオを確かめるように抱きしめながら、自分の中に湧き起こる様々な感情をようやく理解した。
「おじちゃま! ティナもおねえちゃまをギュウしたい!」
そうティナに言われてしまえばヴェルフリートは弱い。渋々フィオから離れると、彼女は顔を真っ赤にしていた。
ティナが彼女に抱きつき、さらには宿屋の双子もフィオに抱きついている。
(無事でよかった。二度と、こんな目には遭わせない)
この誇り高く真っ直ぐな人を一生守ると決めた。
広場には優しい風が吹き、領地を揺るがす大きな事件がひとつ終わったのだった。




