31 広場の異変
城下町へ向かう馬車の中、ティナは窓辺にぴったりくっつき、きらきらした瞳で外を眺めていた。
「フィオおねえちゃま、きょうはクーちゃんのおようふく、つくるんだよね!」
「ええ、生地もリボンも、ティナが選んであげましょうね」
ティナが抱えるクーちゃん――くたっとしたクマのぬいぐるみは、今日も少し首が傾いていて愛らしい。
馬車が城下へ入ると、人々の声が賑やかに響き、ティナは小さく跳ねるように喜んだ。
二人だけのお出かけは初めてだが、馬車の後ろには騎士たちも数名控えている。ヴェルフリートも随行すると言ったのだが、クラウスが執務に連れていっていた。
まだ、オルドフから聞き出さないといけないことがあるらしい。拘束はすでに二週間に及んでいる。
「わあっ……! きょうはいつもよりにぎやかだね!」
「市の日ですもの。きっと何か特別なものも見つかるわ」
広場では月に一度マーケットが行われる。フィオレッタも一度だけ参加したことがあるそれに、今度はティナと向かうことができて嬉しい。
二人は手をつなぎ、仕立て屋へ向かう。
棚いっぱいに広げられた布地を前に、ティナは目を輝かせた。
「このピンク、かわいい~! こっちのレースはおはなみたい!」
「クーちゃんに似合いそうね。少し刺繍を加えても素敵かもしれないわ」
悩んで悩んで、ティナが選んだのは桃色のサテン地と、小花柄の繊細なレース。リボンはクーちゃんの目と同じ、柔らかな水色だ。
「これでクーちゃん、もっとかわいくなるよね?」
「ええ、とびきりかわいくなるわ」
笑顔で店を出ると、広場から甘い香りがふわりと漂ってくる。
「フィオおねえちゃま。いいにおいがするね」
「今日もたくさん屋台が出ているのね。行ってみましょうか」
期待に満ちた大きな瞳。
フィオレッタはたまらず頬をほころばせた。
「わあい! うれしいな」
「走ったら危ないわ。はぐれないように手をつなぎましょうね」
駆け出そうとするティナの手を取る。
最初の屋台で買ったのは、ハッロングロットルという名前の焼き菓子だ。バターの香りが豊かで、ほろりと崩れる小さな丸いクッキーの中央には赤いジャムがちょこんとのっている。まるで宝石みたいだ。
「じゃむのくっきー!」
「ハッロングロットルっていうお名前みたいね。真ん中のジャムはこけももですって。」
「ろっとんぐはっとる! みたことある~!」
噴水のそばに座り、ティナはクッキーをそっとつまんで口に運ぶ。
ほろほろと崩れる食感に、こけももジャムの甘酸っぱさが重なり、ティナの顔がぱあっと明るくなる。
「おいしいね! クーちゃんにも、はいどうぞ」
「クーちゃんもとっても美味しいみたいね」
フィオレッタは笑いながら、ティナの頬についたジャムをハンカチで拭う。『ろっとんぐはっとる』を気に入ったらしく、二枚目を頬張っているところだ。
「ティナ、口のまわりにたくさん付いているわ」
「えへへ……おいしいもん!」
笑い声と甘い香りが、春の陽だまりのように広がっていく。
広場は市の日で賑わっており、売り子の威勢の良い声、子どもたちの走る音、パンの香ばしい匂いが混ざりあう。
町の人々の笑顔を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなる。
(とても穏やかなところね。ますますエルグランド辺境伯領が大好きになってきたわ)
広場に来る前に寄った宿屋で、少し驚く話を聞いた。
あのリゼが、公爵家の侍女を辞してこちらへ移り住むことになったらしい。
マルタたちと暮らすことが決まり、もうじき辺境へ到着するという。
(それなら、今度は私が道案内をしてあげたいわね)
思えば王都での息苦しい生活では、こんなふうに誰かの明日を素直に願う余裕もなかった。
今のグラシェル家や王都の事情も、不思議なほど心に影を落とさない。それだけフィオレッタの心は、この土地で満たされていた。
「フィオおねえちゃま、つぎはなにたべる?」
「ふふ、ティナ。お昼ごはんが入らなくなってしまうわよ?」
そんな他愛もない会話をしていると、広場のざわめきがふいに変質した。
「……?」
盛り上がりでも、市の賑わいでもない。
何かが押し寄せるような、ひそめた声が重なるざわつき。
フィオレッタはティナの手を握り、そっと振り返った。
人々が道を避けるようにして左右へ割れていく。
その奥から、硬い蹄の音を響かせながら、一台の馬車が無理やり広場へ進み入ってきた。
深紅の布地と黄金の縁取り。見覚えのある、王家の紋章がくっきりと刻まれている。
(どうして、こんなところに)
馬車は広場の真ん中でぎしりと停止する。
その瞬間、広場の空気が冷え込むように静まり返った。
王家の紋章入りの馬車の扉が、ぎい、と音を立てて開いた。
中から現れたのは、濃紺の礼服に身を包んだ男だった。胸元には監察局の紋章を模したブローチが光っている。整えられた口髭に、冷たい湖面のような灰色の瞳。
「なぜこんなところに監察局が……?」
フィオレッタが小さく息を呑む横で、周囲の人々がざわりと声を潜めた。
「なんでこんなところに役人が?」
「何かあったのか……?」
男の後ろから、同じ紺色の制服を着た従者が数名降りてくる。彼らの動きは無駄がなく、広場の中央を空けるよう人々を静かに下がらせていった。
「ティナ、こっちへ」
フィオレッタはティナの肩にそっと手を置き、人波から少し離れた噴水のそばへ移動する。様子をうかがおうとした瞬間、その灰色の瞳がまっすぐこちらを射抜いてきた。
「グラシェル公爵家元令嬢、フィオレッタ・グラシェルだな」
広場に、よく通る声が響く。
ざわめきが、一瞬で静まり返る。
(今、私の名前を)
思わず背筋が強張る。
男は一礼だけは欠かさず、しかし微塵も笑わないまま続けた。
「貴女がエルグランド辺境伯領に潜伏中との報を受け、王都より派遣されました。監察局所属の調査官トーマスと申します」
丁寧な言葉遣いなのに、そこには冷たい空気が滲んでいる。
フィオレッタはティナの小さな手を握りしめ、静かに一歩後ろに下がった。
「ああ。そういえばこちらでは『フィオ』と名乗っているそうですね」
ここで否定しても意味がないとすぐに分かった。迷いなくフィオレッタの方に進んでくるその足取りは確かなものだ。
「フィオおねえちゃま……」
ティナの瞳が不安に揺れている。フィオレッタは彼女を安心させるためにそっと頭を撫でて、それから高圧的な調査官に向き直った。
「私に、王都からわざわざ何のご用でしょうか」
男は手にしていた巻紙を広げた。上部には見慣れた王家の紋章と、鮮やかな朱の印章が押されている。
「フィオレッタ・グラシェル前令嬢。あなたを、公金の私的流用の容疑により拘束いたします」
広場にはっきりとした言葉が通り、空気が凍った。
「こ、公金……?」
誰かが小声で繰り返した。すぐそばで、屋台の主人が手にしていた布袋を落とす音がする。
「お待ちください。私は公金に関わるような立場ではありません。王都でも辺境伯家でも――」
「王都に送られた告発状には、こうあります」
調査官の声は終始穏やかだ。だが、言葉の端々に「どうせ言い逃れだろう」という色が混じっている。
男は巻紙の一枚を抜き取ると、わざとらしく咳払いをした。
「『グラシェル公爵家を追放された悪女が、辺境伯家に取り入り、領主を惑わせております』」
悪女、という単語が、広場にじくりと滲むように響く。フィオレッタは唇をきゅっと結んだ。背後で領民たちがざわめくのを、はっきりと感じる。
「『領主不在の折に帳簿を改変し、自身の趣味嗜好に公金を流用している疑いが濃い。放置すれば辺境伯家及び王家の威信にもかかわる』と」
淡々と読み上げられる文面。そこに並ぶ言葉は、あまりにも悪意に満ちていた。
(オルドフ……あの言葉はそういうことだったのね)
書庫から立ち去る際、彼は捨て台詞を述べていた。それに王都にも滞在していた。そのとき、こうやって密告したのだろう。なにもかも根拠がなく、そして彼の罪を被せるためのものだ。すべてが一本の線で繋がっていく。
「告発の首謀者については申し上げませんが、信頼ある家臣が身を賭して告発した。重く見ないわけにはいきません」
調査官の灰色の瞳は、冷ややかな勝ち誇りを宿している。
「もちろん、すでに王都でもあなたの噂は有名ですな。辺境なら上手くいくとお思いでしたか?」
その挑発めいた一言に、胸の奥がひやりと冷える。
だが、フィオレッタは俯かなかった。むしろ背筋を伸ばし、王都の貴族として培ってきた矜持を静かに纏い、まっすぐ調査官を見返す。
「その噂は虚偽ですもの。私が行ったことではございません」
声は震えていない。凛と澄んでいる。
「私は、私の行いに一点のやましさもございません。陰口や悪意で歪められた虚像に、弁明する必要も感じませんわ」
その言葉は、言い訳でも反論でもなかった。ただひとりの人間として、誇りを持って立つ者の宣言だった。
周囲でひそめていた人々のざわめきが、わずかに静まる。
トーマスは目を細め、薄い笑みを浮かべた。
「――ほう。存外、強いお方だ。しかし、身に覚えがあるかどうかを判断するのは、あなたではなく王都の調査です」
調査官は微笑みさえ浮かべた。礼儀正しいその笑みは、氷より冷たい。
「『一見、領地のためを思うような行動を取りつつ、裏では己の利益のために数字を操る女』だと告発状にも書いてありましたのでね」
その瞬間、フィオレッタの中で何かがすっと冷えた。ここで何を言っても、この男ははじめから結論を決めている。
(私の話を聞く気などない人だわ。両親やルシアン殿下と同じ)
悔しさよりも、静かな諦めが胸の奥をかすめる。
周囲で見守っていた人々の間にも、不安の色が広がり始めていた。
顔見知りのパン屋の夫婦、宿屋の女将マルタの姿も見える。皆、固い表情で様子を見ている。




