30 渦巻くもの
ティナと手をつなぎ、部屋へ戻ろうと回廊の角を曲がったところで、フィオレッタは思わず足を止めた。
そこにヴェルフリートとクラウスが立っていたのだ。かなり驚いたのに声を出さなかったことを褒めて欲しい。二人とも、普段とは明らかに違う気配をまとっていて、とくにヴェルフリートは、目の奥に冷たい怒気を宿している。
「……クラウス」
低い、押し殺した声。
クラウスは「はいはい」と額に手を当て、大げさにため息をついた。
「よしティナ様、今度はオレと遊びましょう~! ほら、行きますよ~」
「え、ええ~? でも、おねえちゃま……」
「大丈夫よ。ティナ、後でまた会いましょうね」
フィオレッタがそっと背を押すと、ティナは名残惜しそうに頷き、クラウスに連れられていった。
回廊には、フィオレッタとヴェルフリートの二人きり。
何か話があると察してティナを行かせたのだが、どうしたのだろう。
ヴェルフリートが一歩近づき、その深い色の瞳がフィオレッタの頬に残る涙の跡をとらえた。
「あの者たちは即刻解雇する」
「えっ?」
低い声。鋼が軋むような緊張。
フィオレッタは慌てて首を振ろうとしたが、その動きを待たずにヴェルフリートが彼女を軽々と抱き上げた。
「きゃっ……!? ヴェ、ヴェルフリート様!?」
「ここで立ち話をする気はない」
有無を言わせぬ声でそう告げると、彼はそのままずんずんと歩き出す。
(とても怒っていらっしゃるわ!?)
怒りを内に押し込みながらも、腕の中のフィオレッタは大切そうに抱えられていた。
*
ヴェルフリートの私室に入り、そっと長椅子に降ろされる。どうしたのだろうと思っていると、彼は深く頭を下げた。
「フィオ。オルドフやメイドの件で不快な思いをさせてすまなかった。対応が遅れてしまった」
「聞いていらっしゃったのですか?」
「ああ。オルドフの件を聞いて出てきたのだが、ちょうど聞こえた」
(なるほど、そういうことだったのね)
真剣で、誠実で、言い訳の欠片もない謝罪だ。フィオレッタはふっと微笑む。
「お気になさらないでください。私は大丈夫ですわ。ティナも無事でしたし」
その穏やかな言葉に、ヴェルフリートの肩の強張りがわずかに緩む。だがヴェルフリートはまだどこか沈んだ表情で、俯くように言った。
「しかし、こちらの都合で巻き込んだ君に不快な思いをさせてしまった。俺の監督不足だ」
しょんぼりと落ち込んだような様子は、立派な領主とは思えないほど素直で――フィオレッタは思わず、胸の奥が温かくなる。
(私のことを気にかけてくださるなんて)
けれど、その好意に甘えてばかりではいられない。この家の奥方としてしばらく胸を張れるように、フィオレッタは気持ちを引き締めた。
「大丈夫ですわ。あの方々には、もともと嫌われていましたもの。それに――」
彼女はそっと顔を上げ、まっすぐにヴェルフリートを見る。
その瞳には、揺るぎない意思が宿っていた。
「そんなことより、ヴェルフリート様。私、聞いていただきたいことがあります」
ヴェルフリートがわずかに目を見開く。
「なんだろうか。聞かせてくれ」
「こちらを見てください」
フィオレッタは手に持っていた煤けた帳簿を机の上へ置いた。
ヴェルフリートの視線が、帳簿に吸い寄せられる。
「これは……?」
「先ほど、文官の方と書庫で見つけました。偶然紛れ込んだにしては、あまりに不自然だったので持ち帰ったのです」
数ページ見ただけで分かった。これは正式な帳簿ではないと。フィオレッタは真っ直ぐにヴェルフリートを見る。
「実際の帳簿と数字の食い違いが多すぎます。意図的に隠されたもののように思えました」
静かな声だが、言葉には力がある。
ヴェルフリートは帳簿に触れ、ページをめくりながら眉を寄せる。
「それともうひとつありまして」
「もうひとつ」
「少々お待ちくださいませ。自室に置いていますので」
フィオレッタががそう言った瞬間、ヴェルフリートはハッとしたように顔を上げた。
「フィオ。君の部屋なら、ここの奥から通じている」
「……え?」
言われて気づいて振り返ると、執務室の脇にある古い扉が目に入った。
そこは普段物置のように布が掛けられていたため、まさか通路だとは思わなかった。
「まあ、ヴェルフリート様の私室とつながっていたのですね……!」
「断じて、私的な理由では使っていない。この通路はもともと、領主の動線確保用で……!」
ヴェルフリートは珍しく慌てた声音で手を振った。あの誠実で落ち着いた男が、耳まで赤くして弁解している。
その様子がおかしくて、フィオレッタはつい口元をほころばせた。
「大丈夫ですわ。信頼しております」
「そうか……それはそれで」
ヴェルフリートはまだどこか不穏に落ち着かない。
それを背中に受けつつ、フィオレッタは急いで隣室へと移動する。
ベッドの隣にある鍵付きの棚。フィオレッタはその引き出しを開き、ティナの描いた絵を取り出すとまたヴェルフリートの元へと戻る。
「お待たせいたしました」
フィオレッタは絵を両手で支えながら机の前に立つ。
「それは、ティナの描いた絵か……?」
「はい。気にしすぎかもしれませんが、どうしても気になってしまって。ティナが実物をよく見て描いたという馬車の絵です。きっと、ご両親の出立前の」
「は……」
ヴェルフリートは自然と視線を向け、その表情が徐々に固まっていった。
ティナの描いた馬車の絵。そこに描かれた車輪はどこかおかしい。フィオレッタは指先で絵をそっと示した。
「この車輪、スポークが足りないのです。軸が欠けたまま走れば、当然事故になりますよね?」
絵を見つめるヴェルフリートの瞳が、深く揺れた。胸の奥に沈めてきた痛みが、鮮やかに蘇るような表情。
「……兄上たちの死因は、馬車の事故だった」
低く絞るような声でヴェルフリートは言った。王都までの道のりは長く険しい。最初から欠けた車輪で旅程を全うできるとはとても思えない。
一命を取り留めたとしても、ひどい怪我を負うはずだ。それでもいいと思って細工をした者が屋敷の中にいるとしたら。
フィオレッタは静かに頷き、そっと言葉を重ねる。
「この絵が示す馬車と同じように、夫妻が乗った馬車も、何かの不備があったということはないでしょうか?」
「……馬車の準備はいつもオルドフがしていた」
ヴェルフリートがぽつりとこぼす。その声は悔しさと疑念で濁っていた。
「兄たちはオルドフを信用し、帳簿管理も任せていた。この帳簿の日付の始まりは、ちょうど兄が辺境伯になった時だ」
フィオレッタはそっと帳簿と絵を並べた。
「ヴェルフリート様。これらは偶然なのでしょうか……?」
偶然であればそれでもいい。だが、故意だとしたら。
この帳簿はおそらく辺境伯家の資金を不正に流用したことを隠すための裏帳簿。
実際の帳簿はヴェルフリートの執務室にあり、それらの中で整合性は取れているのだ。
部屋の空気がぴんと張り詰める。
ヴェルフリートは冷たい光を宿した瞳で帳簿を閉じ、深く息を吐いた。
「すでに牢に入れているが、再度オルドフの尋問を行う」
さらりと言われたその一言に、フィオレッタは瞬きを繰り返した。
「えっ……もう、ご存知だったのですか?」
オルドフの異様な態度や数字の齟齬――フィオレッタが今日気づいたことばかりだと思っていた。だが彼はすでに牢に入れられているという。
しかしヴェルフリートは、不思議そうに首を傾げたあと、至極真っ当な声音で言った。
「君に不敬を働いたのだから当然だろう」
「……え?」
「領主家の者に侮辱を向けた。しかも俺の妻にだ。情状酌量の余地はない。あのメイドたちもな」
きっぱりと言い切る声音は、淡々としているのに揺るがない。
「オルドフの件も含め、すべて洗い直す。君が示してくれたものは十分な証左だ」
領地の闇を晴らす気配が、静かに部屋を満たしていった。




