29 かぞくのえ
執務室には朝の光が差し込み、いつもより柔らかい空気が流れていた。
お試し結婚の契約書の再確認と延長の手続きを終えたばかりのフィオレッタとヴェルフリートは、どこか自然と微笑んでしまうような穏やかな表情をしていた。
「これで、引き続きよろしく頼む」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたしますわ」
「ふたりがそれでいいなら、いーよ……」
クラウスはなぜか遠い目をして、机に肘をつきながら天井を見ている。
(どうしたのかしら?)
不思議に思っていると、そこに文官の一人が書類束を抱えて入室してきた。フィオレッタが軽く会釈すると、彼はきりりとした礼を返す。
「ヴェルフリート様、治水工事の件について資料をまとめてきたのですが……まだ情報が不足している部分がありまして」
言いながら机の上に広げた紙束。その一枚にフィオレッタの視線がとまった。
「どの部分でしょう?」
フィオレッタがそっと資料を覗き込むと、文官が指で示す。
「この、川幅の変遷と氾濫頻度の記録です。古い年代のものがどうしても見つからず……」
フィオレッタは一瞬考え、それから迷いなく言った。
「それなら書庫の『旧河川管理誌』に記載があるはずですわ。年代別の水位変化も丁寧にまとめられていたはずです」
文官の顔がぱっと明るくなる。
「そ、そうなんですね。助かります、フィオ様」
「一緒に行きましょうか? 書物の場所は大体わかっていますので」
「ぜひ……! 非常に助かります!」
彼らのやり取りを黙って見ていたヴェルフリートは、静かに立ち上がる。
そしてフィオレッタへ向ける目は、どこか誇らしげだった。
「重い本は必ず文官に運ばせるように」
「はい、行ってまいります」
過保護にしか聞こえない言葉に、文官が思わず背筋を伸ばす。
そうしてふたりは並んで執務室を出た。
「フィオ様は領地の書物にもお詳しいのですね」
「少し読ませていただいただけですわ。慣れればすぐに見つかります」
「その“慣れ”が難しくて、我々はいつも迷いまして……本当に助かります」
そんな穏やかな空気のまま、ふたりは書庫へと向かった。
**
ちょうど書庫の前に差し掛かった時だった。
扉が勢いよく開き、誰かが出てくる。
「――!」
フィオレッタは思わず立ち止まった。
現れたのは、どことなくよれた衣服に薄い隈、そして落ち着きなく揺れる眼差しのオルドフだった。
長期休暇を終えたのだろう。ここにいること自体にも驚いたが、なによりその異様な気配が気になった。
「ごきげんよう、オルドフさん」
「……ここには何の御用で?」
フィオレッタが会釈すると、オルドフはぎょろりとした濁った目を向けてくる。
挨拶を返す気配すらない。文官が困惑して横目でフィオレッタを見るが、彼女は微笑みのまま一歩前に出た。
「治水工事の資料を探しに参りましたの。河川の記録を確認したくて」
オルドフの喉がひくりと動く。
視線がせわしなく揺れ、額に汗が浮かんでいくのがわかる。
「客人が、我がエルグランド家の書庫を我が物顔で使うなど許されない!」
怒声に近い声が廊下に響き、文官がびくりと肩を跳ねさせた。
いつもは丁寧な物腰のオルドフの豹変に、フィオレッタは目を瞬く。
(どうしたのかしら? こんなことで声を荒らげるなんて)
オルドフの顔は青ざめ、まるで大事な秘密に触れられたかのような恐怖すら滲んでいた。
「し、失礼ながら、奥様にはその権利があるかと! ヴェルフリート様の許可もいただいております!」
文官が素早くフィオレッタの前に出た。
オルドフはその肩越しに、ぎろりとした視線を向け、鼻で笑う。
「……さすが、悪女様は男をたぶらかすのがお上手ですねえ。旦那様も、この新参者も手のひらの上……いやはや、気持ち悪い」
「貴様、何を――!」
文官が思わず声を荒げかける。だが、フィオレッタが静かに手を上げて制した。
「いけません。大丈夫ですわ」
その声音は不思議なほど落ち着いていた。
オルドフの侮蔑は刺さる。それでも彼女の瞳は揺れない。
「オルドフ。あなたには、私の行動を制限する権限はないでしょう? 書庫には入ります」
凛とした声に、一瞬だけオルドフの顔が引きつる。
「……ふんっ! 悪女はきっと裁かれる!」
最後に足掻くように舌打ちし、オルドフは乱れた足取りで廊下を去っていった。
「……なんですか、あれ」
「行きましょう」
文官は呆れたように眉を寄せたが、フィオレッタは気丈に微笑んで書庫の扉へ向かった。
(ティナとの時間も控えているのだから、あの人に時間をかけてはいられないもの)
書庫は薄暗く、背の高い棚が幾重にも影を落としている。古い紙の匂いが漂う中、二人は目的の棚へと向かう。
「こちらの棚に河川管理誌があるはずです。どうされましたか?」
「あっ、すみません、これも気になって……!」
焦っているのか、文官は端の棚の本に手を伸ばす。
だが、その拍子に本がずるりと崩れ――バサバサと大きな音を立てて数冊が床に落ちた。
「きゃっ……! だ、大丈夫ですか?」
フィオレッタは慌てて駆け寄り、落ちた本を拾い上げようと膝をつく。
「す、すみません! 触り方が悪かったみたいで……!」
「いえ、怪我がなくて良かったですわ。ゆっくりで構いませんから」
言いながら、一冊の本にふと手が触れた。
革表紙はすすけ、背には何の表記もない。だが、中の紙だけやけに真新しい。
(こんな本はこの分類にはなかったはずなのに)
少なくとも、前は見つけることができなかったものだ。
胸の奥に小さなざわめきが走る。フィオレッタはその本をそっとめくり、最初の数行を読んだ。そして、息が止まるかと思った。
「……!」
――これは、偶然紛れ込んだ帳簿ではない。冷たい予感が、背筋をひたひたと這い上がってくるのを感じる。
フィオレッタは、文官には先に執務室に戻ってもらうことにした。
あの謎の帳簿のことをもう少し調べたいので、「今日の執務は急用ができたので手伝えない」と伝えてもらうことにしている。
回廊へ出たとき、ふと、先の方に小さな影が見えた。
(……ティナ? どうして一人なのかしら)
見間違いようのない、小さな少女の後ろ姿がそこにある。午前中は文字の勉強だったはずなのに、どうしたのだろう。
思わず歩みを早めかけたその時――
ティナの前に、ふたりのメイドがすっと立ちふさがるのが見えた。
「まあ、ティナ様。こんなところで何をしているんですかあ?」
「えっと、フィオおねえちゃまのところにいくの!」
元気いっぱいに答えるティナ。
メイドふたりはその返事を聞いた瞬間、ちらりとティナを頭の先からつま先まで値踏みするように眺め、それから互いに目配せしてクスクスと笑う。
「まあまあ……そうでしたの」
「でもね、ティナ様」
声色だけは優しく保ちながら、口元には意地の悪い笑みが浮かぶ。
「あんな悪女といつも一緒にいたら、ティナ様までおんなじになってしまいますわよ?」
そこには明確な侮蔑があった。メイドたちは口元を隠しながら、クスクスと笑っている。
(見過ごすわけにはいかない)
そう思った瞬間、フィオレッタは迷いなく歩み出た。軽い靴音が回廊に響く。
「ティナ」
フィオレッタが声をかけると、ティナがくるりと振り向く。その手にはいつものクマのぬいぐるみと、それから何か紙のようなものが握られている。
「フィオおねえちゃま!」
フィオレッタはティナの前にすっと立った。メイドたちは一瞬たじろぐが、すぐに嘲るような笑みを戻す。
フィオレッタは深く息を吸い、静かに口を開いた。
「子どもにそんなことを言わないで。何か言いたいことがあるなら、私に直接言いなさい」
メイドたちは一瞬たじろぐが、すぐに顔を歪める。
「ふん、よく言うわ。追放された女が、えらそうに……!」
ひとりが鼻で笑い、周囲の侍女たちがクスクスと笑い出す。
「悪女が夫人だなんて、この領地の評判を落としにきたの?」
「男に取り入るのが上手いんだから」
「ねえ」
オルドフと同じ論調だ。
よく見れば、いつもすれ違いざまに陰口を囁いてくるメイドたちだった。
フィオレッタは一度だけゆっくりと瞬きをし、足を止めた。
「言いたいことはそれで全てかしら?」
凛とした声。感情的な怒気は一切ない。むしろ、静かに澄んでいて、刺すような鋭さがあった。
メイドたちの笑みが固まる中で、フィオレッタは続ける。
「私に対して何か申したいことがあるなら、ティナを巻き込む必要はないはずよ。子どもを盾にして陰口を言うのは、領地の名誉以前にあなた方自身の品位を疑います」
フィオレッタの言葉に、メイドたちはわずかに後ずさった。
まっすぐ向けられた視線に、嘲りは一瞬で霧散する。
「……っ、行きましょう」
「ええ、関わるだけ無駄ですもの」
負け惜しみのように吐き捨てて、メイドたちはパタパタと音を立てて逃げるように去っていく。廊下には、ふたたび静けさが戻った。
「フィオおねえちゃま、かっこいい……!」
ティナが胸の前で手をぎゅっと握り、目をキラキラさせている。
その無垢な瞳に真正面から見られると、フィオレッタは少しだけ照れた。
「ふふ。かっこいいだなんて、そんなこと初めて言われたわ」
「ティナ、ずっといおうとおもってたの。フィオおねえちゃまは、やさしくて、きれいで、つよいの!」
その言葉は、胸の奥にじん、と温かく染みていく。
フィオレッタはゆっくりとティナの手を取った。
「ありがとう、ティナ」
自分の心の中に、ふっと凪のような静けさが広がる。
(私は、私自身の偽りの悪評を恥じる必要はないわ)
誰かが勝手に作った虚像など、自分の価値ではない。そう思えたのは、ティナやヴェルフリートのように信じてくれる人がいるからだ。
「これをね、フィオおねえちゃまに渡したかったの」
「これは……とっても幸せそうね」
ティナに手渡された紙には、ティナのような小さい女の子と赤髪の女性、それから銀髪の大きな男性が手を繋いでいる。 皆が笑顔で楽しそうなこれは家族の絵だろうか。
そう思ったところでティナが大きな目をキラキラとさせていた。
「これはねえ、ティナと、おねえちゃまと、おじちゃまだよ!」
その無垢な瞳に射抜かれて、気づけば涙が頬を伝っていた。




