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もう家には戻りません~婚約破棄されたら、辺境伯様とお試し結婚することになりました~  作者: ミズメ


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28 悪女と辺境伯

 夜気は冷たく澄み、庭に降り立つと肺の奥まで静けさが広がった。

 フィオレッタはライトケープを肩にかけ、ゆっくりと石畳を歩いていく。


(ついに、知られてしまったわ)


 いや、正確には「知っていて、黙ってくれていた」。

 文官たちのあと、クラウスに呼び留められたフィオレッタは、そこでさらに驚くことを聞かされた。


 クラウスはすでに少し前から、“フィオ”が元公爵令嬢フィオレッタであることに勘づいていたというのだ。

 それ自体はさほど問題ではない。彼は有能で、観察力も鋭い。気づいてしまってもおかしくはない。


 問題はその次だ。


『旦那様は、王都に行ったことがきっかけで、温室でお会いした時のことを思い出したそうです』


 あの温室で、男の腕をねじ上げて助けてくれた長身の男性。

 あの時のヴェルフリートはさほどフィオレッタにも興味を持っているとは思えなかったため、まさか自分だと思い出してもらえるとは思っていなかった。


(……だって、迷子になるなっておっしゃっていたもの)


 思わず、クスリと笑ってしまう。あの時は事前の状況もあって軽く混乱していたからよくわからなかったが、彼の人となりを知った今となってはきっと本気で忠告してくれていたのだとわかる。


 クラウスにその事を伝えると、頭を掻きながら『うわあ……ヴェルフは実はめちゃくちゃ方向音痴で』とこっそり教えてくれた。

 どうやら本当に迷子になっていたらしい。


 その後クラウスにはいくつか確認されただけで、このままでいいとまで言われた。

 それ自体はありがたく、心強い言葉だった。しかし。


(気がかりなのは、夕食の時のことだわ)


 ヴェルフリートがどこかよそよそしかったのだ。

 というより、目が合わなかった。ティナの言葉には反応するのに、フィオレッタが話しかけると途端に口数か少なくなる。


 視線が逸れて、落ち着かないように見えて……いつものように穏やかに話すこともなかった。シャツを渡した時までは普通に見えたような気がしたけれど。


(やっぱり、王都で噂に触れてしまったから嫌になったのかしら?)


 そう考えかけて、フィオレッタは小さく首を振る。決めつけるのはよくない。


 もし迷惑をかけるようなら、またどこか別の場所に行ったっていいのだ。


 ヴェルフリートは誠実な人だ。

 だからこそ余計に、自分の過去が足を引っ張ってしまうのではないかと、不安が膨らむ。


(悩んでいても仕方ないわ。明日、直接お話をしましょう)


 庭園の奥に立つガゼボの影に入り、フィオレッタは静かに息を吐いた。


「そうよ、出ていくなら早い方がいいわ」


 自分に言い聞かせるようにそう呟く。ティナはとても懐いてくれているけれど、前からしたら少し心も落ち着いたように思える。


 ヴェルフリートが新しい妻を招いても、きっとその人もティナとうまくやれるだろう。そうできない人を彼が選ぶわけがないという確信もある。胸の奥が妙に痛いのも、いつかは薄れる。


 フィオレッタが決意を固めたそのときだった。

 芝を踏む足音が、ゆっくりと近づいてきて、フィオレッタははっと顔を上げる。


 そこに、月光に照らされたヴェルフリートが立っていた。

 迷うような一歩を踏みしめ、視線はまっすぐこちらへ向いている。


 フィオレッタの胸が、ひとつ大きく跳ねた。


「ヴェルフリート様。どうして、こちらに……」

「……出ていく、とはどういう意味だ」


 低く抑えられた声が、静かな庭園に落ちる。

 怒っているというより、必死に感情を抑えているような、そんな響き。


 フィオレッタの喉が、かすかに震えた。


 怒気を含んだヴェルフリートの声音は、先ほどから微かに震えている。


「どういうことだ。留守の間に本当は何かあったのか?」

「い、いえ、その……」

「しかし今、出ていくと言った。君は理由もなくそんなことを言う人ではないはずだ」


 フィオレッタは、ぽかん、と口を開きかけた。


(ええっと?)


 頭の中で疑問符がいくつも跳ねる。

 ヴェルフリートの視線は真剣そのもので、嫌悪どころか、心配と苛立ちが混じっているようにさえ見えた。

 むしろ、追放された悪名高い公爵令嬢だということを隠していたのはフィオレッタの方だ。それに気付いたから、様子がおかしかったのではないのか。


「……あのメイドか? オルドフの遠縁というから配慮していたが……これを機に解雇するか……くそっ、あの時しておけばよかったな」


 フィオレッタが混乱している間に、ヴェルフリートはなにやらブツブツと呟いている。目が完全にこわい。


「ヴェルフリート様……あの……私のことをお気づきになったのですよね?」


 胸の鼓動が早まるのを感じながらも、フィオレッタはなんとか言葉を絞り出した。

 その問いに、ヴェルフリートの眉がぴくりと動く。驚きとも苛立ちともつかない、感情の揺れがほんの一瞬見えて――彼は息を呑んだようにフィオレッタを見つめ返した。


「君が本当はグラシェル公爵家のフィオレッタ嬢であるということか?」

「はい、そうです」


 やはり知られていた。

 フィオレッタはまっすぐに彼を見る。逃げもしない。泣きもしない。

 ただ、誠実に、彼に向き合おうとしていた。


「王都から戻られて少ししてから、ご様子が変でしたし、夕食の時もどこか、距離を置かれているようでした。噂のことも、耳になさったのですよね?」


 ヴェルフリートは一瞬だけ眉を寄せた。

 すぐには言葉が出てこない。それでも目を逸らさない。


「……ああ、聞いた。耳に入れたくもなかったがな」


 低く、抑えた声。その声音に抱えてきた苛立ちがにじむ。

 やはりヴェルフリートは噂のことも知っていた。クラウスから聞いて知っていたのに、なぜだか胸がズキリと痛む。


「私がいつまでもここにいるのは良くないと思ったのです」


 フィオレッタは静かに息を吸う。

 悲しげではなく、淡々と。しかし芯の強さは揺らがない。


「私がルシアン殿下から婚約破棄されたことも公爵家から勘当されたことも本当です。ティナは辺境伯家の大切なお嬢様ですし、ヴェルフリート様が新しい方を迎えられるにしても、醜聞まみれの私がいてはいけないと」


 そこまで言うと、ヴェルフリートの気配がぴたりと変わった。


「そんな予定はない」


 低く落ちた声が、空気を震わせる。聞き捨てならないと言わんばかりに遮る声は鋭く、それでいてどこか必死だった。

 フィオレッタは目を瞬かせ、ゆっくりと彼を見つめ返す。


「フィオ」


 ヴェルフリートがフィオレッタをまっすぐに見つめる。変わらずにフィオと呼んでくれるその人の銀の髪が月明かりに揺れ、とても綺麗だと思った。


「俺は、自分の目で見たものしか信じない」


 ヴェルフリートがこちらに一歩近づく。風がそよぎ、フィオレッタの髪の先も揺れる。


「君は誠実な人間だ。ティナにも、城の者にも……俺にも、真っ直ぐに向き合ってくれる。そんな君を、王都で流れるような安い噂で測るつもりはない」


 言葉は静かだが、力があった。フィオレッタは、大切に胸の奥を撫でられたような気持ちになる。


「ありが、とう、ございます」


 それだけで、涙がこぼれそうになった。泣くまいと思ってうつむくと、ヴェルフリートの影がすっと近づく。


「夕食の時は済まなかった」


 低く落とされた声は、どこか気まずげで、珍しく語尾がわずかに揺れていた。


「君にこれをどう渡そうかと悩んでいて、上の空だった」

「?」


 顔を上げると、ヴェルフリートは普段の冷静さとは違い、どことなく不器用に目をそらしていた。


(怒っていたわけでも、避けていたわけでもないということ……?)


 彼が懐から包みを取り出す。そして示されたのは、淡い青の宝石をあしらったペンダントだった。


「君に似合うと思って、買った。感謝の気持ちだ」

「まあ、ありがとうございます」


 言葉は淡々としているのに、耳だけはしっかり赤い。

 その不器用さが可笑しくて、フィオレッタは胸の奥からそっと微笑みがこぼれた。


「大切にいたしますわ」


 宝石の小さなペンダントを胸に握りながら言うと、ふたりの間に落ちる空気は、ほんの少しだけ柔らかくなる。

 さっきまで胸を締めつけていた不安は、跡形もなく消えていた。


 けれど、どうしても聞きたいことがあった。


「私は……まだ、ここにいてもいいんでしょうか?」


 息をのむような短い沈黙ののち、ヴェルフリートは迷いのない口調で答えた。


「当たり前だろう」


 そして、少し間を置いて、急に事務的な声色になる。


「あ……いや。君と交わした契約書の期限のことがあったな。確認しておきたい。君さえ良ければ、まだここにいてくれないだろうか?」


 表情も声も整然としているのに、わずかに背筋が伸びてしまっているのは隠しきれていない。

 フィオレッタもまた、なぜか急に真面目な顔になり、同じ調子で頷く。


「ええ。契約書の内容は再確認致しますので、明日改めてご相談しましょう」

「助かる」

「では、そのように」


 さっきまでの濃密な空気はどこへ行ったのか。

 ふたりは妙にかしこまって淡々と会話し、事務手続きを確認する役人のように頷き合う。


「ここは冷えるな。中に戻ろう」

「……は、はい」


 自然と延ばされたヴェルフリートの手に、フィオレッタはそっと手を重ねた。その手は温かい。

 当たり前のようにエスコートしてくれること、疑われていなかったこと、まだここにいてもいいこと。そのどれもが嬉しくて、ふたりで城に戻る道のりはやけに早く感じられた。


そして――。


「なんで二人してそんな感じになるんだよ!? えええ~~~!?」


 ガゼボの反対側、植え込みの陰で。必死に小声を抑えたクラウスが、両手で頭を抱えていることなど、当然ふたりは知らないままだった。


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i1050295
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