27 文官
玄関での挨拶を終えると、ヴェルフリートとクラウスは「ひとまず着替えてくる」と言い残し、それぞれ自室へと向かっていった。
城の空気がようやく落ち着きを取り戻す中、フィオレッタはティナとともに二階の子供部屋へ戻った。
ティナの好みに合わせて淡い色合いでまとめられた部屋は、陽だまりのように明るい。
「ティナ、おもちゃ箱を片づけてしまいましょうね」
「はーい!」
そんな和やかな時間がしばらく続いたあと、控えめなノック音がして、フィオレッタは振り向いた。
「失礼する」
静かな声とともに扉が開く。
いつもの黒衣ではなく、旅装を解いて軽装になったヴェルフリートが立っていた。後ろにはクラウスもいる。
「おじちゃまーっ!」
ティナがまた勢いよく駆け寄る。
ヴェルフリートは膝を折り、小さな体をしっかりと受け止めた。
「ティナ、怖いことはなかったか?」
「うん! フィオおねえちゃまがいたから、こわくないよ!」
胸に抱きつくティナの声は、誇らしげで、どこか安心しきっている。
そのやり取りを見ながら、フィオレッタはそっと微笑んだ。
ヴェルフリートがティナを抱き上げたあと、ふとフィオレッタへ視線を向ける。
「フィオも。ティナと城を守ってくれてありがとう」
その一言は驚くほど真っ直ぐで、温かかった。
「い、いえ。ヘルマさんや皆さんのおかげですわ。私は……その、普通に過ごしていただけで」
言い訳のように答えてしまうと、ヴェルフリートは首を横に振った。
「そんなことはないだろうが、それでもいい。こうして二人の顔を見て、安心した」
ぽつりと落とされた言葉に、フィオレッタの胸がじんわり熱くなる。
クラウスが後ろで「おお~」と感心したように口を結んでいるのは、見ないふりをした。
ヴェルフリートは腕の中のティナをそっと下ろし、クラウスから包みを受け取る。
「二人に土産を買ってきた。これはティナとクーちゃんのものだ」
「ほんと!?」
包みを開くと、そこには小さな髪飾り。
澄んだ青色の布で作られた、大きなリボンがふたつ入っている。
ティナの瞳が一瞬できらきらと輝く。
(ヴェルフリート様の口からクーちゃんの名前を聞くと、なんだか不思議だわ)
そう思ってパチパチと瞬きをしていたら、彼の後ろにいたクラウスは声を出さずに笑っていた。
「かわいい! これ、クーちゃんとおそろいなの!?」
「ああ。よく似合うと思ってな」
ティナはフィオレッタの方を振り返る。
「フィオおねえちゃまにも、あるよね!?」
その言葉を聞いた瞬間、ヴェルフリートの表情が僅かに硬くなった。
そして、ゆっくりともう一つの包みを取り出す。
「……ああ。フィオにも、ある」
フィオレッタの胸がふわりと高鳴った。
そっと受け取った包みの中には、ティナのものより少し大人びたデザインの細い紺色のリボンが入っていた。きっと、揃えてくれたのだろう。
「まあ、とても素敵ですわ。ありがとうございます」
心からの笑みを向けると、ヴェルフリートは一瞬だけ、目をそらした。
それに、クラウスがすかさず肘で彼の脇腹をつつきながら囁く。
「はいはい、旦那様ー。奥様に渡すときだけ反応が固いよ、ほんと」
「黙らないか」
低く呟く声に、ティナが首を傾げる。
「おじちゃま、どうしたの?」
「なんでもない」
ヴェルフリートはそっぽを向きながら答えるが、その耳はほんのり赤い。
その様子が可笑しくて、フィオレッタはそっと笑みをこぼした。
「ヴェルフリート様。予定よりお早いお帰りでしたね」
そう問いかけると、ヴェルフリートの動きがぴたり、と止まった。
まるで全身が固まってしまったかのように、表情まで凍りついてしまっている。
(あら……? 聞いてはいけないことだったかしら)
辺境伯領までの道のりは、馬車を乗り継ぎながら早くても二週間はかかると思っていた。往復したり用事を済ませることを考えると、二週間以内で戻ったのは早いと思ってのことだったのだが。
フィオレッタは戸惑いながら、固まったまま動かないヴェルフリートを見つめるしかない。
「ヴェルフリート様……?」
そっと声をかけると、ようやくわずかに肩が揺れた。
石像が命を取り戻したかのように、微かに瞬きし、ぎこちなく口を開く。
「いや、なんでもない。長く領地を空けていい立場ではないからな。すぐに仕事に戻ることにする」
普段より少し低い声。そして、なぜか視線が合わない。
「では、奥様もティナ様もまた!」
クラウスも笑顔で挨拶をして、部屋から出ていくヴェルフリートの後を追う。
やけにバタバタと二人は部屋を出ていった。
*
(そうだわ。今日これをお渡しするつもりだったんだった)
それから数分して。シャツのことを思い出したフィオレッタは、ティナをヘルマに預けたあと、シャツを抱えてヴェルフリートの執務室の前に立った。
ノックをすると許可の声が返ってきたため、扉を開ける。
「失礼いたします」
「どうした、フィオ?」
「私も、その、ヴェルフリート様にお渡ししたいものがありました」
そっと差し出したシャツを受け取った瞬間、ヴェルフリートの動きが止まった。
指先が、細かな縫い目をゆっくりとなぞる。
「……これは、君が?」
「はい。お世話になっていますし、少しでもお役に立てればと思ってご不在の間に作りました」
ヴェルフリートはしばらく黙ったままシャツを見つめ、それから低くつぶやいた。
「驚いた。こんなものをもらえるとは思っていなかった。ありがとう……大切にする」
短い言葉なのに、ひどく真剣で、胸に響く声だった。どうやら迷惑ではなかったことに、フィオレッタはほっと胸を撫で下ろす。
「良かったですわ。お直しも出来ますので、着てみて不備がありましたら教えてください」
「わかった」
「では、私はこれで失礼致します」
最後に礼をして、フィオレッタは執務室を出た。
そっと扉を閉め、静かな廊下を歩き出す。胸のあたりがふわふわとして、どこか落ち着かない。
迷惑でなくて良かったなどと考えながら角を曲がったそのときだった。
「……フィ、フィオレッタ様!」
ふいに本当の名前を呼ばれ、フィオレッタは思わず足を止めて振り返ってしまった。
フィオレッタは反射的に振り返る。そこには、王都から来ていた若い文官二人が立っていた。顔はこわばり、まるで意を決したような表情で、こちらを見つめている。
(浮かれていた)
胸がひやりと冷える。
彼らは王都から来た若手文官たち。初めて顔合わせをしたときも、驚いていたような顔をしていたと思う。だから、近づかないようにと思っていたのだけれど。
「……やはり、フィオレッタ様なのですね」
震える声でそう告げられ、もう逃げ場はないと悟る。
ここへ来て、ようやく落ち着ける場所を見つけたというのに。
悪女と噂される自分が、辺境伯領で過ごしていることが知られれば、迷惑がかかるに決まっている。
ごまかすこともできず、フィオレッタはきゅっと手を握り、静かに頷いた。
「……はい。私がフィオレッタですわ」
観念してそう答えると、文官たちの顔がクシャリと歪んだ。
「よ、良かった……ご無事で……!」
「まさか、辺境にいらっしゃったなんて……! 王都では、皆……皆、あなたが……」
言葉が続かず、文官のひとりは目元を拭う。
フィオレッタは呆然とした。
(……どういうことかしら? 私は、嫌われていたはずで)
動揺しているのは、フィオレッタだけではなかった。
彼らはまるで失われた大切な人を見つけたかのように、深い安堵を滲ませている。
「フィオレッタ様……本当に、お元気そうでよかった……!」
ひざまずきそうな勢いで頭を下げる文官たちに、フィオレッタは思わず一歩後ずさる。どうやら、彼らに悪意があったわけではないようだ。
「……知り合いの伝手でこの領に来たの。この城に来たのは、色々な偶然が重なってのことです」
「そうなんですね……! 俺も思い切って辞めてきてよかったです!」
「本当に! あんなクソみたいな職場」
「まあ」
二人はよっぽど鬱憤が溜まっていたのか、とんでもないことを口にしている。
どうやら、フィオレッタがいなくなった後の執務は大変なことになっていたようだ。
「私のことは、その名前では呼ばないでくれますか? ヴェルフリート様たちは、知らないんです」
「……えっ、そうなんですね」
「そ、それは失礼致しました……!!!」
事情を察したらしい文官たちは、さっと青ざめながらコクコクと何度も頷いている。フィオレッタも、彼らが敵ではないことに深く安堵した。
「あなたたちの働きぶりはよく覚えているわ。これからも、この城を支えてくださいね」
それは、フィオレッタにとって心からの言葉だった。この優秀な文官たちがいてくれたら。ヴェルフリートの執務は一段と効率的になるだろう。
「それは勿論ですよ。ヴェルフリート様も無口で怖いけど理不尽なことは何も仰らないし、フィオレ……フィオ様だって。全く、なんであんな根も葉もない噂が――」
「お、おいっ!」
隣の文官が慌てて肘で突く。
一人は「しまった!」という顔で口を押さえ、二人そろってバタバタと姿勢を正した。
「し、失礼しました! では、我々は執務に戻ります!」
「引き留めて申し訳ありませんでしたっ」
妙に揃った声とともに、二人は慌ただしく踵を返す。
足音を響かせながら廊下の角を曲がって消えていった。
(やはり、噂は彼らも知っていたのね)
フィオレッタはそっとため息をつき、胸のざわつきを押さえながら歩き出した。
先ほどの会話の余韻がまだ胸に残っている。驚きと、安堵と、少しの不思議と。
気を取り直して子供部屋へ向かおうと角を曲がった――その瞬間。
「フィオ様」
「……!」
正面に立っていた影に、フィオレッタは思わず胸に手を当てた。
いつの間にかそこに立っていたのは、クラウスだった。
いつもの飄々とした笑みは消えており、珍しく真面目な表情をしている。
「少し……お時間ありますか?」
低く抑えた声は、先ほどの文官たちとはまるで違う種類の緊張をはらんでいた。




