03 グラシェル公爵家
グラシェル公爵邸の玄関をくぐると、すぐに母の声が飛んできた。
「まあまあまあ、こんな時間に一人で帰ってくるなんて! 貴女は茶会ひとつまともにこなせないの?」
「申し訳ありません。体調が優れなくて」
「それなら最初から行かなければいいでしょう。ああ本当に困った子ね……エミリアが取り繕ってくれることでしょう」
棘を含んだ声色に、フィオレッタの心はさらに重くなる。
母はいつもそうだ。フィオレッタを心配する言葉はひとつもなく、エミリアのことだけを褒める。
フィオレッタは返す言葉を飲み込み、礼だけして部屋へ戻った。
靴を脱ぎかけたところで、机の上の書類が目に入る。
(そうだわ……この書類を処理し忘れていたわ)
それは、ルシアンが放置していた執務書類だった。自分の執務室に書類が山盛りになっているのは恥だと言って、フィオレッタに強引に持ち帰らせたものだ。
機密文書を持ち出してはいけないと何度も言ったが、最後はこうして代わりに処理をすることになってしまった。
体調は悪いが、このままでは問題になる。
「……こっそり返しにいくしかないわね」
そう決意して机の上の書類を抱えたとき、控えめなノックの音がした。
「お嬢様、もうお休みになられるのではなかったのですか?」
入ってきたのは、年配の侍女リゼだった。
若い頃からグラシェル家に仕え、フィオレッタが物心ついた頃からずっとそばにいる。この冷たい公爵家の中でただ一人、彼女を『お嬢様』と変わらぬ敬意で呼び続けてくれる人だった。
「少し、仕事を片付けてからにするわ」
「お顔の色が優れません。お休みになった方がよいのではありませんか」
「大丈夫。明日にはきっと落ち着くもの」
そう言って笑おうとしたが、リゼは眉を寄せたまま首を振る。
「お嬢様、どうかご無理だけはなさいませんように。誰も見ていなくとも、私は見ております。貴女さまがどれほどお辛い思いをされてきたか……」
その静かな言葉に、胸がかすかに締めつけられる。
「ありがとう、リゼ。でも本当に大丈夫よ。殿下のご機嫌を損ねてしまっては、もっと厄介だから」
「ではせめて、道中お気をつけてくださいませ。私もご一緒いたします」
「いえ、あなたは忙しいでしょう? 馬車の用意だけしてくれる?」
「……わかりました」
リゼは少し不服そうながらも、一礼するとすぐに出発の支度を整えに行った。
彼女の背中を見送りながら、フィオレッタはほんの少しだけ安堵を覚える。
この家で、自分を気にかけてくれる人がまだいる――その事実が、唯一の支えだった。
ドレスの上にショールを羽織り、鏡の前で髪を整える。まだ髪を下ろす前で良かった。
でも、鏡の中にいるフィオレッタの顔色は悪い。それでも、いつものように口角を上げた。
***
夕刻の王都は、茜色に染まっていた。
屋根の上に長く伸びる影が、ゆるやかに夜の気配を運んでくる。
車輪が石畳を叩く音だけが、穏やかな通りに響いていた。
馬車の窓越しに見える王城は、沈みゆく太陽を背に、金の輪郭を帯びて輝いている。昼と夜の真ん中。
誰もが帰路に就くこの時間に、彼女はただひとり、城へ向かっていた。
(これを返却したら、すぐに帰りましょう)
胸の奥に残る疲労を押し込め、フィオレッタは馬車を降りた。
衛兵たちは慣れた様子で敬礼をし、書簡を確かめる。王子の婚約者である彼女が書類を届けに来ることなど、特別なことではない。
けれどその視線に、どこかよそよそしいものを感じた。
(殿下は執務室にはいらっしゃらないはず。お手を煩わせずに、机に置いてこよう)
ルシアンは執務室にはほとんど寄りつかない。フィオレッタがいなければ、印を押す仕事もないのだから。
誰にも会わずに済むようにと願いながら、フィオレッタは小さく息を吐いた。
執務室の扉の前に立つと、日差しがちょうどその取っ手を照らしていた。
ふと、内側から声が聞こえる。
「……もう少しこちらを向いて。そう、上手だ」
耳を疑った。
昼間の穏やかな声とは違う。低く、甘く、誰かをなだめるような調子。
そして、そのすぐあとに、聞き慣れた声が重なった。
「そんな……殿下、誰か来たら……」
「心配はいらない。ここには誰も入ってこないよ」
その二つの声に、胸の奥が凍りついた。
視界がゆらいで、思考が追いつかない。
(そんな……まさか)
フィオレッタは書類を抱えながら、震える指先で取っ手を押した。
扉が静かに開く。
橙の光が差し込む執務室の中、長椅子でルシアンとエミリアが寄り添っていた。
言葉にならない思いが、喉の奥で止まる。
自分の婚約者の唇が、妹のものに重なっている。
信じていた世界が、音を立てて崩れ落ちていく。
「ルシアン様……?」
震える声に、ルシアンが振り返った。
驚くより先に、苛立ちがその瞳に宿る。
「フィオレッタ! 僕の部屋に勝手に入ってくるとは、どういうつもりだ!」
「明日の執務に必要な書類をお持ちして……」
「口答えをするな! 君は王族への礼儀を忘れたのか!?」
突き刺さる言葉に、胸の奥が冷えきっていく。
エミリアは小さく殿下の腕を握り、伏し目がちに囁いた。
「お姉様、ごめんなさい……わたし、殿下のことをお慕いしてしまって……っ」
「ああ、可愛いエミリア。そんなにおびえて……。フィオレッタ、さっさとここを去らないか!」
フィオレッタはびくりと肩を震わせる。まるでこちらが悪者だ。
ただ机に書類を置き、深く一礼する。
「お仕事の書類はお返ししました。……それでは、失礼いたします」
扉が静かに閉まる。
その音と共に、フィオレッタの中で何かが終わった気がした。




