26 帰城
ヴェルフリートが王都へ向かって、もう十日が経つ。
屋敷は変わらず穏やかで、留守を守ると気合いの入った騎士たちや使用人たちと共にに日々を刻んでいた。
(……何か、落ち着かないわ)
フィオレッタは部屋の窓辺にある椅子に座り、針に糸を通したまま手を止めていた。
何がとは言えない。けれど、胸の奥がぽっかりと欠けたような感覚が、ふとした瞬間に顔をのぞかせる。
膝の上には、ヴェルフリートのシャツ。
二日に分けて縫い上げるつもりだったが……どうにも集中できない。
集中が途切れるせいで糸が何度も指に絡まり、刺繍のラインも定まらない。
「フィオおねえちゃま、どうしたの?」
隣で絵を描いていたティナが、首を傾げる。
その大きな緑の瞳に見つめられ、思わず苦笑した。
「あら、ごめんなさい。少し、考え事をしていたの」
「きょうのおやつのこと? ティナがきいてこようか?」
「ふふ。違うの。ありがとう」
「ん~じゃあおじちゃまのこと!」
急に図星を刺されて、フィオレッタは針を落としそうになる。
(いけない。平静を保たなくっちゃ)
ティナは、本当に侮れない。幼いのに、人の心の動きを敏感に察するところがある。確かにフィオレッタはヴェルフリートたちの旅の安全のことを考えている。そう思って、素直に頷くことにした。
「ええ、少しだけね」
「だいじょうぶだよ。おじちゃまもクラウスもつよいもん」
元気よく紙を広げるティナの横で、ヘルマがほほえんだ。
「奥様。旦那さまもきっと、そのシャツを喜んでくださいますよ」
「そう、でしょうか……」
自分で驚くほど弱い声が出てしまった。
帰りを待つのがこんなにも落ち着かない。
それは、もうすぐ約束の期限が来てしまうことも要因のひとつかもしれなかった。ティナは随分落ち着いたように思う。ヘルマといる時も落ち着いているし、メイドたちとも明るく話せるようになった。
(そうだわ! 今度は侍女として置いてもらえないかしら)
できれば今のままがいいけれど、そんなわがまままでは言わない。侍女としてであれば、ティナと過ごせる時間はあるはず。
(そうね、そうしましょう! お願いするだけしてみたらいいのよ)
そう考えたら気持ちが楽になった。我ながらいいアイディアだ。妻の立場に固執する必要もない。
裁縫をする手も早くなり、シャツがスルスルと縫えていく。ヴェルフリートは体が大きいので、このシャツもかなり大きい。
縫う範囲が広くて大変だが、その分腕がなった。
裁縫は貴族令嬢の嗜みとして仕込まれたが、フィオレッタは単純にその黙々とした作業が好きだったのだ。
裁縫がようやく調子づいてきたそのとき、ティナが声を上げた。
「フィオおねえちゃま、みてみて!」
絵筆を握った小さな手で、先ほどから紙に向かってカリカリと描いていたティナが、得意げに絵を持ち上げる。
「できたの! ティナの、おとうちゃまとおかあちゃま」
差し出された紙には、カラフルに描かれた馬車と、そこに寄り添って立つふたりの人物。ぎこちない線ではあるが、幼子が精いっぱいに描いた家族がそこにあった。
「まあ……とっても素敵ね」
ティナが両親の絵を描くのは初めてのことだ。それも笑顔で。
少しづつ、彼女の中で整理がついているのだろうか。
微笑みながら受け取ったフィオレッタは、ふとその絵の馬車に視線を留めた。
車輪が大きく描かれているその部分は前輪と後輪だろうか、どちらもしっかりと描かれているが、なんだか二つの車輪に差異がある。
(子どもの描いたものだから、かしら……?)
馬車の車輪の骨組み部分は本来、中央から均等に伸びる木の棒――いわゆるスポークによって支えられている。車輪への衝撃を分散するため、どの馬車でも一定の数が使われているのが常だ。
けれどティナの描いた馬車では、右の車輪には八本、左の車輪には四本しかスポークが描かれていない。幼い子供が描く絵としては不思議ではないはずなのに、妙に具体的で、目が離せなかった。
(片方だけ……こんなに少なく描くことがあるのかしら)
ティナは絵を描くのが好きで、よくこうしてお絵描きを楽しんでいる。空想上の風景だったり、クマのぬいぐるみだったり、種類は様々だ。
でも庭や物を見ながら描くときのティナはいつも、驚くほど観察が細かい。それをフィオレッタは知っている。
「ティナ、馬車もとってもよく描けているわ」
不思議に思いつつも褒めると、ティナはぱっと顔を輝かせた。
「うん! このまえね、ちゃんとみたのよ!」
胸を張って紙を掲げる。
「しゃりんのぐるぐるのね、こっちがよんこで、こっちは……はちこ、あったの!」
元気いっぱいに言い切るティナの声に、フィオレッタの心臓がどくりと波打った。
「……いつ、見たの?」
思わず声が震える。
ティナは絵を抱えたまま、無邪気に答えた。
「おとうちゃまたちがおうとにいくまえ。こっそりばしゃをみたんだあ」
前辺境伯夫妻が王都に行く時。二人は不慮の事故で亡くなった。
馬車の事故で亡くなる人は多い。
そう、たとえば、車輪の一つが壊れていて、それを知らずに走り出したら――。
胸の奥がひやりと冷える。それを見せないようにしながら、フィオレッタはそっとティナの髪を撫でた。
「そう……ティナはよく見ていたのね。えらいわ」
「えへへ!」
満面の笑み。
その無邪気さが、逆に胸を締めつけた。
(この絵は私が持っておきましょう)
ティナが見たもの――それは、何かの手がかりかもしれない。
誰かが見られる場所に置いておくべきではない、と直感が告げていた。
「ティナ、この絵は私がもらってもいいかしら?」
「うんっ! じゃあティナ、あたらしいのかくね!」
「クーちゃんのドレスを書いてごらん。今度それを作ってあげるわ」
「わあ、うれしいな~。ええっとねぇ、クーちゃんはリボンとハートがすきでぇ」
あっさりと次の絵を描きはじめたティナに、フィオレッタはほっと息をついた。
「ありがとう。この絵はとても大事にするわ。しまってくるね」
「はーい」
絵をそっと胸に抱きながら、フィオレッタは立ち上がる。
(この胸騒ぎ、気のせいだといいけれど)
すべてがどこか、いやな形で結びつきそうな気がして。
フィオレッタは絵を丁寧に折り畳んで、自室の机の引き出しにしまった。鍵をかけて厳重に。
さっきの部屋に戻ると、ティナは明るく歌いながらクマのぬいぐるみの絵を書いている。その愛らしい歌声が背後で続く中、その胸の奥では、小さなざわめきが広がっていくのをどうしても抑えられなかった。
それからまた二日が経った。
朝の光が柔らかく差し込むこども部屋の一角でフィオレッタが針仕事をしていたそのとき。
廊下の向こうから、急ぎ足の靴音が近づいてきた。
「奥様! 領主様が城下町へ入られたとの報せが!」
メイドのひとりが扉を開けながら告げた瞬間、フィオレッタは椅子から勢いよく立ち上がっていた。
(ヴェルフリート様が、帰ってきた)
胸の奥がふわりと跳ねる。
エルグランドでは昔から、領主が城下町に入った時点で報せが城へ届く仕組みになっている。馬を走らせた伝令が合図の旗を掲げ、それを城門の見張りが受け取り、次に城内へと即座に伝える――古いが無駄のない体制だ。
その知らせを聞くだけで、フィオレッタの心は一気にざわめいた。
ヘルマが微笑みながら言う。
「奥様。まだ城へ着かれるまで少し時間がありますから、慌てなくても大丈夫ですよ」
「ええ……そう、ですね」
そう言いながらも、落ち着かなかった。
糸を切るハサミを持ったまま、どうしようもなく胸が温かくなってしまう。
「おじちゃま、かえってきたの?」
「ええ。無事にお戻りになったみたい」
「やったあ!」
ティナが飛び跳ねて喜ぶ。その純粋な声に、フィオレッタの胸のこわばりもすっとほどけていく。
この期間の心細さが、たった一言で溶けてしまったようだった。
「いこっ、フィオおねえちゃま!」
ティナの小さく温かい掌が、勢いよくフィオレッタをぐいっと引っぱる。
フィオレッタは思わず微笑み、その手を握り返した。
「そんなに急がなくても……でも、ええ、行きましょう」
「おみやげあるかなあ~!」
ティナは嬉しさを隠しきれず、小さな靴でぱたぱたと廊下を駆ける。
その後ろでフィオレッタは、転ばないようにと支えるように歩きながらも、心は少しだけ彼女と同じ速度で弾んでいた。
大きなエントランスに近づくほどに、風の冷たさが増していく。
扉の向こう、城壁に囲まれた前庭からは馬の蹄の音と、使用人たちのざわめきが聞こえてきた。
「……あ」
外へ出ると、灰色の冷たい風の中、長身の影がゆっくりこちらへ歩いてくるのが見えた。
馬を降り、重い外套を揺らしながら進むその姿は、見間違えようがない。
「おじちゃまだ!」
ティナはぱっと手を放し、その影へ一直線に駆け出した。
「おかえりなさ~~~い!」
ティナが風のように駆け出していく。
手を離されたフィオレッタは、風に髪を揺らされながら立ち止まった。無事な姿を見ただけで、安堵の気持ちで胸がいっぱいになる。
ヴェルフリートの後ろにはクラウスの姿も確認できる。二人の様子を見るに、なにか怪我をしたとか病になったなどの問題はなさそうだ。
(よかった、無事にお帰りになったのね)
胸がふわりと温かくなる。
けれど同時に、理由の説明できない緊張が喉の奥で固まっていた。
「おじちゃまっ!」
ティナが勢いよく飛びつくと、ヴェルフリートは驚いたように目を瞬かせ、すぐに大きな手で彼女を受け止めた。
「ティナ、危ないだろう」
「へへっ、だって、はやくあいたかったんだもん!」
「……そうか」
笑うティナを抱き上げながら、ヴェルフリートは目を細める。まるで本当の親子のようで、フィオレッタもその光景をとても眩しく感じて微笑む。
刹那、ヴェルフリートの視線がゆっくりとフィオレッタの方へ向いた。
その青い瞳が、確かに彼女を見つける。
フィオレッタは胸がきゅっと縮むのを感じながら、そっと裾をつまんで礼をした。
「お帰りなさいませ、ヴェルフリート様。ご無事で何よりでした」
言い終えてからゆっくりと顔を上げる。ヴェルフリートの表情がわずかに緩んだように見え、そこには確かに安堵の色が混じっていた。
「ただいま戻った。留守を任せてすまなかったな」
たったそれだけの言葉なのに、フィオレッタは思わず胸が熱くなる。
「いえ。何も問題ありませんでした。ティナもお利口にしていましたし」
「ティナ、おりこう!」
「ふっ、そうか。それはよかった」
ヴェルフリートがティナの頭を軽く撫で、ふっと爽やかに笑った。
その瞬間――玄関ホールの空気がわずかに揺れた。
「……笑った?」
「旦那さまが……?」
「ちょ、ちょっと珍しくない?」
そばに控えていた侍女たちが、互いに小さく目を丸くし合って囁き合う。
普段は寡黙で無表情気味な主が、何のしがらみもない笑顔をフィオレッタたちに向けていた。




