23 看病
夜は深く、外では冷たい風が窓をかすかに揺らしていた。
暖炉の火がぱちぱちと音を立て、橙色の光がゆらゆらと部屋の中を染めている。
寝台の上では、ティナが苦しげに寝返りを打った。額には薄い汗が浮かび、頬は熱で赤く染まっている。
フィオレッタは濡らした布を手に取り、そっとその額を拭った。
「ティナ。もうすぐ楽になるわ」
呼吸は浅く、時おり小さな咳が漏れる。そのたびに、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。
医師の診立てでは風邪とのことだったが、子どもの熱は侮れない。
濡らした布を絞りながら、フィオレッタの脳裏にふと過去の光景が浮かんだ。
幼いとき、熱で何日も寝込んだことがあった。けれど、母も父も来なかった。
ただ、幼い彼女のそばにいてくれたのは、侍女のリゼだけだ。
夜中にうなされると、リゼは何度でも手を握ってくれた。冷たい布で額を拭き、優しい声で「大丈夫ですよ」と囁いてくれた。
あの手の温もりがなければ、あの夜を乗り越えられなかったかもしれない。
(だから今度は、私がその役をやらなくちゃ)
フィオレッタはティナの小さな手を包み込み、指先をそっと絡める。
その手は熱に浮かされているせいか、いつもよりも力が弱く、ひどく頼りない。
「私がそばにいるからね」
額を撫でながら、穏やかに語りかける。
ティナはうなされるように寝返りを打ち、か細い声でうわごとを呟いた。
「……おとうしゃま……おかあしゃま……いかないで……」
その声にフィオレッタの胸の奥が、きゅうと痛んだ。
幼い子どもが見る夢の中でさえ、寂しさを感じているのだと思うと、どうしようもなく切なくなる。
こんな幼い子を、一人置いていくことになってしまった彼らの無念を思うと、込み上げてくるものがある。あのクマのぬいぐるみや、ティナのために用意されているたくさんの絵本。赤ちゃんの頃のおもちゃや服がずっと綺麗に保存されていること。
そのどれもが両親からティナへの愛を存分に示してくれている。
「大丈夫よ……おかあさまたちはティナをいつも見守っているわ」
ティナの小さな手が、夢の中でフィオレッタの指をぎゅっと握りしめた。
そのぬくもりが、「ひとりじゃない」と教えてくれるようで。フィオレッタは小さく微笑んだ。
フィオレッタは静かに子守唄を口ずさむ。
震える声でも、優しい旋律が夜の部屋に溶けていく。
外では風が木々を揺らし、暖炉の火がぱちぱちと鳴っている。
その静かな音の中、ティナの呼吸は少しずつ落ち着き、やがて穏やかな寝息へと変わっていった。
(よかった。眠れたのね)
頬はまだ赤いが、彼女の呼吸に合わせて布団も規則正しく上下している。咳もでていないし、このままゆっくり眠れたら回復もはやそうだ。
そのときだった。
扉が静かにノックされ、控えめに開く音がした。
部屋の明かりに照らされて、銀色の髪が柔らかく光る。
「……フィオ。まだ起きていたのか」
低く穏やかな声。
ヴェルフリートだった。寝間着姿のまま、気配を殺すように静かに部屋へ入ってくる。
「君がずっとここに?」
「はい。どうしても私が見ていたくて。ヘルマさんにわがままを言って代わってもらいました」
ヘルマにも随分と言われたが、フィオレッタは譲らなかった。
発熱している時のあのなんともいえない心細さを、少しでも自分が緩和してあげたいと思ってのことだ。
(おこがましかったかもしれないわ。私なんて、まだ屋敷に来て間もないのに)
そう思うと、少しだけ体が強ばる。ヴェルフリートに何か言われるのではと身構えたが、彼は無言で頷くと寝台のそばに立った。
ティナの額に触れ、少し考えこむような表情を見せる。
「……まだ熱いな」
ヴェルフリートの手が、ティナの額から離れてゆっくりと布団を直した。
その仕草に、フィオレッタの胸の奥が不思議と温かくなる。不器用だけれど、彼の指先は驚くほど丁寧で優しい。
「君も、少し休んだほうがいい」
「いえ、大丈夫です。私……こうしている方が落ち着くので」
「……そうか」
それ以上、彼は何も言わなかった。
しばらくの間、部屋には暖炉の音と、ティナの浅い寝息だけが響く。
やがて、彼は無言のまま部屋を出て行った。
その背を見送り、フィオレッタはふっと寂しさのようなものを覚えかけた――その瞬間、肩に柔らかな感触がのった。
振り向くと、ヴェルフリートがフォレッタの肩にそっと毛布をかけていた。
目が合うと、彼は何も言わず、ただ静かにうなずく。
「……ありがとう、ございます」
小さな声で礼を言うと、彼は短く息をつき、低く答えた。
「君まで体調を崩してはいけないからな」
ヴェルフリートは静かにフィオレッタの正面へ回り込み、ほんの一瞬、彼女の顔をじっと見つめた。
その真剣な眼差しに、フィオレッタは息をのむ。
「少し、目が赤い」
思いがけない指摘に、胸の奥がどきりと鳴った。先ほど涙が出たせいだ。
「い、いえ……なんでもありません」
「……ならばいいが」
上手く言い訳が思いつかなかったフィオレッタにヴェルフリートは短く答える。
視線を外し、ティナの寝台へと目を向けた。
その横顔はいつもよりも穏やかで、暖炉の灯に照らされた銀髪がやわらかく光を返している。
「ありがとう、フィオ。ティナに、君がいてくれてよかった」
その低く静かな声が、夜の空気に溶けていく。
まるで小さな灯を胸の奥にともされたように、フィオレッタの心が温かく満たされていくのを感じた。
「私のほうこそ……あの子に出会えて、本当によかったです」
そっと微笑み返す。
ヴェルフリートはそれ以上何も言わず、ただ一度だけうなずいた。
静かな夜。暖炉の火がゆらめき、ティナの寝息が穏やかに響く。
毛布の重みとともに、静かな安心感がフィオレッタを包みこんでいた。
***
昼の陽射しが柔らかく庭を包み込む。
ティナの風邪が治ってから数日が経ち、ようやく外に出たいとせがむようになった。
(次の日には果物も食べられたからよかったわ)
目を覚ましてからも、ティナはフィオレッタにべっとりだった。ヘルマやクラウスと交代して……時にはヴェルフリートも看病をしながら、元気になった。
庭には薄桃色の小花が咲き誇り、吹き抜ける風が草をそよがせている。
その真ん中でティナは嬉しそうにスカートを翻し、花を摘んでは小さな籠に集めていた。
「フィオおねえちゃま、みて! ティナ、ひとりではなのかんむりをつくるの!」
「まあ、素敵ね。上手に編めるかしら?」
「うんっ、がんばる!」
指先に小花をくるくると絡めながら、ティナは真剣な顔つきで作業を続ける。
フィオレッタはそんな姿を見守りながら、庭のベンチに腰を下ろした。
少し遅れてヴェルフリートもやってくる。
今日は珍しく、執務が早く片付いたらしい。クラウス曰く「奥様のおかげでずいぶん片付いたので」とのことだ。
「ティナ。体はもう大丈夫か」
「はい! フィオおねえちゃまがね、おててギュッとしてくれたから」
ティナの元気な声に、ヴェルフリートの口元がかすかに緩む。
その微かな変化を見て、フィオレッタは胸の奥がふわりと温かくなった。
ティナは小さな手で花冠を持ち上げ、慎重にフィオレッタの前へと歩み寄った。
真剣そのものの表情で、そっとその花の輪を彼女の頭の上に載せる。
「はい、できました! フィオおねえちゃまのかんむり!」
淡いピンクと白の小花が織り込まれた冠が、陽の光を受けてやわらかく輝いた。
フィオレッタの赤い髪に花々の色が映え、まるで春の精のように見える。
「まあ……ありがとう、ティナ。とっても綺麗ね」
「えへへ、おねえちゃまかわいいねえ」
嬉しそうに胸を張るティナの笑顔に、フィオレッタも自然と微笑む。
その姿を見ていたヴェルフリートの瞳にも、穏やかな光が宿っている。
「おじちゃまも、まっててね。ここにすわってて」
ティナがぴょこんと立ち上がり、籠の中の花々をもう一度かき集めはじめた。
指先で茎を器用に編み込みながら、唇をむっと結んで集中している。
「ここに座ってもいいか?」
「はい。もちろんです」
ヴェルフリートはティナに促された通り、フィオレッタの隣に腰かける。
二人で並んで、ティナのたどたどしい花冠づくりを眺める。とても穏やかで静かな時間だ。
「ほら、できた!」
ティナは両手で花冠を持ち上げ、ヴェルフリートの前にちょこちょこと歩み寄る。
少し背伸びをして……届かないと気づくと、フィオレッタの方を見上げた。
「フィオおねえちゃま、だっこして!」
「ええ、どうぞ」
フィオレッタがティナを抱き上げると、ティナはうれしそうに笑って、ヴェルフリートの髪の上に花冠をそっと載せた。
「できた! おじちゃま、すっごくにあうの!」
銀の髪に散る花々が陽光を受け、ふわりと光を返す。
いつも厳格な印象のヴェルフリートが、その瞬間だけは驚くほど柔らかく見えた。
「……似合わないだろう」
「そんなことありません。とても素敵ですわ」
思わず口にしてしまい、フィオレッタははっと息をのむ。
ヴェルフリートも少し驚いたように視線を向けたが、次の瞬間、ほんのわずかに口元がゆるんだ。
「ありがとう、ティナ。それにフィオも」
ティナは満足げに笑い、ぱちん、と小さく両手を叩く。
「おねえちゃまとおじちゃま、おそろいだね。おひめさまとおうじさまみたい!」
その一言に、フィオレッタの胸がどくんと跳ねた。
陽射しが頬に当たったせいだろうか――それとも、ティナの言葉のせいだろうか。
顔の奥がじんわりと熱を帯びていくのを感じる。
「お、おひめさま……?」
「うんっ! だって、おねえちゃまはきれいだもん。ねえ、おじちゃま」
無邪気に言い切るティナの笑顔に、フィオレッタは言葉を失った。
けれど、その横でヴェルフリートもわずかに息を呑むのがわかる。
(ど、どうしてそこでヴェルフリート様に話を振るのかしら……)
そんなことを聞かれても、彼は困ってしまうだけだ。
フィオレッタは慌てて花冠に手をやり、視線を逸らした。
頬が熱くなっていくのを必死に隠そうとするが、ティナはそんな空気などお構いなしだ。
「おじちゃま?」
小首をかしげて見上げるティナの瞳は、期待でまっすぐに輝いている。
ヴェルフリートは一瞬、言葉を失ったように黙りこむ。けれど逃げることなく、その静かな青の瞳をフィオレッタへ向けた。
「女性のことは正直、よくわからない」
低く、けれどどこか穏やかな声。
フィオレッタが驚いて顔を上げると、ヴェルフリートはゆっくりと言葉を継いだ。
「だが、フィオは綺麗だと思う」
あまりに率直で、飾り気のない言葉だった。
虚勢も気取りもなく、ただ事実を述べるような声音。
けれど、それがかえって真っすぐに胸に響いてくる。フィオレッタは息を呑み、どう返せばいいのかわからず、指先で花冠の縁をなぞった。
「……そ、そんな……ありがとうございます」
「ねっ、フィオおねえちゃまはおひめさま~!」
声が震えてしまう。けれど、ヴェルフリートは特に気にした様子もなく、ティナに視線を戻して小さく微笑んだ。
「ティナの言うとおりだな」
その笑みは穏やかで、どこかあたたかい。フィオレッタの鼓動が、風に溶けていく午後の空気の中で、ひときわ強く響いた。
「えへへ、きょうがずっとつづいたらいいねえ」
ティナのその声は、春風のように澄んでいた。
フィオレッタは一瞬、言葉を失い、それからゆっくりとヴェルフリートの方へ視線を向けた。彼もまた、同じようにティナを見つめていて――そして、ふいに二人の視線が重なる。
何かを言おうとしたけれど、どちらも口を開かなかった。
ただ、穏やかな沈黙が流れる。
それが不思議と心地よくて、胸の奥がきゅっと締めつけられるように痛んだ。
(形式だけの家族関係のはずなのに……どうして、こんなにあたたかいのかしら)
ティナの笑い声が、やわらかな陽射しの中に響く。それを見守る時間が、こんなにも愛おしいものだとは思わなかった。
ヴェルフリートがそっとティナの頭に手を置く。厳しく見えるその人は、本当は誰よりも領地思いで公平で、本当はとても優しくて――。
(もう少しだけ、この時間が続いたらと思ってしまうなんて)
契約の期限が迫っている。
本来なら数えるべき日を、いつの間にか数えたくなくなっていた。




