22 執務室
その日の午前、執務室の空気は珍しく穏やかだった。
窓辺から差し込む光が、整然と並んだ書類の束をやわらかく照らしている。
かつて山のように積まれていた案件も、今では人の手で処理できる程度まで整理されていた。
「これで一通りの仕分けは終わりましたね」
「お見事です、奥様!」
クラウスが手を叩くようにして感嘆の声を上げた。
フィオレッタは微笑を浮かべながら、羽ペンをインク壺に戻す。
「まさか、これだけあった案件が一週間で片付くなんて……ヴェルフ――じゃなくて、旦那様のクマも消えますよ!」
「ふふっ、クラウスさんの努力のおかげですわ」
「いやいや、それはもう奥様の手腕のおかげで……」
そこで、クラウスがふと思い出したように手を打った。
「そういえば、昨日、王都に残ってた知り合いの文官から手紙が来たんですよ。仕事を辞めてこっちに戻るって」
「まあ……」
フィオレッタの指が紙の上で止まる。
胸の奥がわずかにざわついた。
「王宮の文官なんてめちゃくちゃエリートなのに、どうしたんだろうな。第三王子付きだったんですけどね」
「……第三王子の?」
クラウスの何気ない言葉に、ヴェルフリートが眉をわずかに寄せた。
その反応に、クラウスは「やっぱり気になります?」とでも言いたげに頷く。
「はい。現場が相当荒れているようでして。文官が次々に辞めてるらしいです」
「第三王子といえば、ルシアン殿下か」
「ええ、そうですね」
ヴェルフリートとクラウスの会話を聞きながら、フィオレッタは動揺を隠そうと必死になっていた。
ルシアン。まさか、この地でその名を耳にすることになるとは思わなかった。どうしても呼吸が浅くなる。
(第三王子の部署が、荒れている……それに文官のみなさんも)
フィオレッタと一緒に働いてくれた文官の顔が思い浮かぶ。彼らの負担が重くなりすぎないようにと仕事の振り分けを必死に考えていたことを思い出す。
あの時の苦労がこの辺境でこうして活かされていることは嬉しく思えたが、王宮の体制が全く変わっていなかったことを知り苦しくもなる。
「旦那様は第三王子にお会いしたことあります? どんな方でした?」
「遠目にな。そうだな……軽く殴っただけで遠くに吹き飛びそうな方だった」
「いや、なんつー基準で王族を見てるんだよヴェルフは」
「っ、ふふ」
クラウスが呆れた声を上げる横で、フィオレッタは思わず唇を押さえた。
けれど、ヴェルフリートの「殴れば吹っ飛びそう」という素直すぎる感想に、思わず笑いがこぼれてしまう。
その音に、クラウスが振り返った。
「ほら、奥様も笑ってるじゃないですか。まったくもう、ヴェルフは!」
「ご、ごめんなさい。ふふっ」
フィオレッタは慌てて笑いを抑えようとするが、どうしてもあのルシアンがヴェルフリートに殴られている絵面を想像してしまってだめなのだ。あまりにもスカッとしすぎていて。
そんなフィオレッタの様子を見て、ヴェルフリートはいつもの無表情のまま、静かに首を横に振った。
「謝る必要はないだろう」
淡々とした声に、かすかに柔らかい響きが混じる。
「君は、笑っている方がいい」
まるで何かの報告をするように、真面目に言うものだから、フィオレッタは思わず瞬きをした。どうしてか胸の奥がくすぐったくなる。
「……あ、ありがとうございます、ヴェルフリート様」
小さく頭を下げると、ヴェルフリートはわずかに頷いて、また書類に視線を戻した。
そのやりとりを見ていたクラウスが、呆れとも感心ともつかない顔で白目をむく。
「……はいはい。お二人とも平和で何よりです。こっちはニヤけそうなのを堪えるのに必死ですよ」
ぼそりと呟いてから、クラウスは帳簿をめくりながら話題を変えた。
「あ、奥様。家令のオルドフがひと月ほど休みを取るそうなので、その間はオレがそっちをやります。しばらく執務は旦那様とふたりでお願いします」
「わかりました」
フィオレッタは軽く頷いたが、心のどこかで小さな引っかかりを覚えた。
ひと月というのは、領務を預かる家令にしては随分と長い休暇だ。
「定期的に休みを取るんですよ。王都に病気の親戚がいるらしくて、その見舞いに」
「そうなのですね」
フィオレッタが不思議そうな顔をしたのがわかったのか、クラウスがさらりと答えてくれる。
それにしても、クラウスはなんと頼もしいことだ。領主の補佐に家令の代行までこなすなど、まさに万能の働きぶりである。
彼がいなければ、今のエルグランドは回っていないかもしれない。
(オルドフさんとは……ほとんど挨拶くらいしか交わしていないわね)
初日に顔を合わせたときから、オルドフの態度は変わらなかった。
冷淡というほどではないが、どこか距離を取っている。形式的な礼節は守っているものの、夫人として迎えられた彼女を「外様」として扱っているのがわかる。
(私が仮の妻だからかもしれないけれど……)
肩にわずかな重さを感じながら、フィオレッタはそっと視線を落とした。
ペン先が紙を滑り、インクの音だけが静かに響く。
その穏やかな空気を破るように――勢いよく扉が開いた。
「旦那様、奥様!」
息を切らせたヘルマが、慌てた様子で駆け込んでくる。
その顔色を見て、ヴェルフリートもクラウスも同時に立ち上がった。
「どうした」
「ティナ様がピアノの授業中に倒れました。いまはお部屋で休ませていますが、体がとても熱いんです」
ヘルマの声は震えていた。その一言で、部屋の空気が一瞬にして張り詰める。
フィオレッタは椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「すぐに行きます!」
躊躇などなかった。書類も机もそのままにして、スカートの裾をつまみ、駆け出した。




