◆閑話 文官たちのざわめき ②
一方その頃。
王城の一角にある第三王子ルシアンの執務室には、今日も重苦しい沈黙が漂っていた。
紙をめくる音、羽ペンの擦れる音。
そして、それらを断ち切るような苛立ちの声。
「……また文官が三人も辞めただと? 王宮の文官たちは一体どうなっている!」
机を叩く音が乾いた衝撃となって響く。
散乱した書類の束が床を覆うが、誰も拾おうとしない。
単純に――拾う人間すら、もう残っていなかった。
「そ、それが、みんな体調を崩して実家に帰るそうです、殿下」
若い従者が恐る恐る口を開く。
「体調不良だと? ただの逃げ口上だろうが!」
怒声に、炎の揺れるランプがかすかに震えた。
その光を見ながら、端の席にいたエミリアは小さく肩をすくめる。
(また始まったわ)
彼女は机上の紙を整えながら、無意識にため息を漏らした。
この数週間、ルシアン殿下の機嫌は悪化の一途だ。
執務が回らなくなっているのは明白だった。
そして、いなくなった今になって、周囲が「あの方がいれば」と口にする、忌々しい存在がある。
(お姉さまなんて、ほんの少し気が利くだけじゃない。皆、どうしてあの人をそんなに持ち上げるの?)
心の奥にどす黒いものが広がる。
エミリアにとって「優秀な姉」という存在は、誇りではなく呪いそのものだ。
「エミリア、手が止まっているぞ」
「……ごめんなさぁい。少し考え事をしていました」
ルシアンの苛立った視線が向けられたが、エミリアはいつもの笑顔をつくった。皆がかわいいと褒めてくれる、とびきりのものを。けれど、ルシアンの視線は冷たく突き刺さる。
「お前はどうしてこうも要領が悪い? 書類一つまとめるのに何分かかっているんだ。フィオレッタなら――」
「っ……」
「くそっ、追放まではせずに執務室には置いておけばよかったな」
フィオレッタなら完璧だった――その言葉が続く前に、エミリアは唇を噛み締める。
もう何度聞かされたかわからない。
最初は「殿下の支えになりたい」と思っていたのに、こんな屈辱があっていいわけがない。
(全部、姉さまのせいよ……! あの人がいなくなってから、誰もわたしを助けてくれない)
数日前、王太子の執務室に呼ばれた。
兄である王太子セドリックは、ため息交じりにこう告げた。
「エミリア嬢。公務の補佐をしているのなら、もう少し責任感を持ちなさい。ルシアンの評判が落ちれば、貴女の立場も危うくなる」
「そ、そんな……わたしは一生懸命やっております」
「一生懸命なだけでは務まらないのですよ」
王太子の穏やかな声が、皮肉にも痛烈だった。
その隣で、王太子妃レナリアが優雅にお茶を傾けていた。
そして、何気ない仕草で――しかし確実に軽蔑を含んだ目を向けた。
「まあ、まだお若いものね。けれど、社交の場で第三王子とその婚約者が失態を重ねれば、我々も困りますわ」
その「我々」が、自分を含んでいないことは明らかだった。
エミリアは笑みを貼りつけたまま、ひたすらうなずくしかなかった。
(どうして、わたしだけが責められるの? 姉さまのときは、皆あんなに褒めていたのに)
唇を噛んでも、心の中の焦りと嫉妬は止まらない。
このところ家でも父母が冷たい。「お城で大変な目に遭ったの」と告げたら、怖い顔をして怒られたのだ。
どうやら公爵家の執務のいくらかもフィオレッタに任せていたらしく、なにかとバタついている。
「エミリア、急げ。これを今夜中に仕上げる」
「え、あの……この量を、ですか?」
「フィオレッタなら半分の時間で終わらせていた!」
案の定。
その名を聞いただけで、エミリアの中に熱い怒りがこみ上げる。
(またそれ。何でもお姉さま、お姉さまって……不公平だわ!)
エミリアは拳を握りしめた。
指先が震え、爪が皮膚に食い込む。
紙に落ちたインクの染みが、まるで嘲笑うように広がっていった。
***
王宮の西棟、文官詰所。
夕方になると、辞表を持った者たちが次々と出入りしていた。
「もう無理だよ。三日徹夜で王子の暴言を聞く仕事とか、限界だ」
「お前も辞めるのか?」
「もちろん。明日の朝には王都を出る。実家の農園を手伝うことにしたよ」
げっそりとした文官は、それでも清々しい顔をしている。
「お前の地元って、どこだっけ?」
「エルグランド。辺境の領地だよ。何もないけど、空気がうまい」
「へえ、あの辺境伯のところか。代替わりしたんだっけ」
「そうそう」
焦げ茶髪の文官は、これから荷物をまとめて王城を出る予定だ。
明日には乗合馬車に乗り、そこからいくつか馬車を乗り継いで、辺境の地にたどり着く。
「田舎かあ……いいなあ、僕も行きたい」
「再就職のアテがないなら来るか? 城勤めの知り合いがさ、文官募集してるって言ってた。田舎の城だが、待遇は悪くない」
「え、マジで。最高じゃん」
緑髪の文官は身を乗り出す。もう無理だと思って文官の職を辞したが、この後の仕事のあてがあるわけではない。
ただ、このまま仕事を続けていれば先輩のように倒れてしまうことが容易に想像がついたため、事前に手を打ったまでだ。
「なんかさ、うちの親が言うには、辺境伯のとこに新しい奥方が来て、だいぶ雰囲気が良くなったらしい」
「へえ~」
「はやく広場のセムラが食べたいなあ。パンに甘いクリームが挟んであってさ、熱い茶と飲むと最高で」
「……なんだ、それ。うまそうだな」
「だろ? 王都の冷えたパンより、ずっとマシさ」
「絶対行く。荷造りするわ」
「じゃあ明日の早朝に乗り場で集合な」
二人は笑いながら、詰所を後にした。
笑い声の余韻だけが部屋に残る。
その音が、他の文官たちの耳にも届いていた。
足取りの軽い辞職者たち。そして、まだ残ってはいるが、このまま続けていてもとてもじゃないが何か得るものがあるとは思えない。
「……エルグランド、かあ」
ぽつりと、誰かが呟く。
その声に、近くの文官が顔を上げた。
彼の瞳の奥には、かすかな羨望と、少しの希望が混ざっている。
「いいかもしれないな。気分転換に、北の空気吸ってみたい」
王都の夕陽が、窓の外で沈んでいく。
書類の匂いとインクの染みついた空気の中で、彼らはそれぞれの未来を思い描いた。
――遠い北の地。
雪に包まれた静かな町の広場で、湯気を立てるお茶を飲みながらセムラとやらを頬張る自分の姿を。
冷えた王都ではもう感じられない、あたたかな時間を夢見ながら。




