20 悪意
フィオレッタがこの城に来てから、あっという間にひと月が経った。
その間に、契約も正式に交わされた。
「日中の数時間だけ」という約束のもと、フィオレッタは執務室で書類整理を手伝うようになった。
今日はティナがお勉強の時間ということで、こうして執務室で三人作業をしているところだ。机の上には山のようだった書類が整然と並び、インク壺の位置までもきちんと整っている。
例の大量の釣り書は、翌日には木箱に全部詰められて庭で焚き火の資源となっていた。
「奥様……! 格段にやりやすいです……!」
クラウスが両手を胸の前で組み、涙を堪えるような表情でフィオレッタを拝んでいる。その仕草に、フィオレッタは思わず苦笑した。
「お役に立てているなら何よりですわ」
「立ちすぎております! いやもう、神の采配ですよお!」
書類を仕分けしながら、クラウスは大げさな身振りで感動を表してみせた。
一方、執務机の向こうでは、ヴェルフリートがいつものように無言でペンを走らせている。
だが、以前よりも表情がわずかに穏やかで、目の下のクマも少しだけ薄くなっているように見えた。
フィオレッタがそんなことを思っていると、クラウスがこっそり囁く。
「旦那様も最近ちょっと元気になりましたよね!」
「そうですね。顔色も良くなっているようにお見受けします」
あれから寝室は完全に分かれているのでよくわからないが、眠れていないということはなさそうなので安堵する。
「昨日なんて体力が有り余りすぎて、旦那様はムキムキのにわでも大暴れでした」
「……っ」
至極真面目な顔で言うクラウスに、フィオレッタは思わず噴き出しそうになって慌てて唇を押さえた。
『ムキムキのにわ』というのはティナが呼んでいる名前だ。本当は辺境伯家私設騎士団の訓練場なのだけれど、彼女がそう呼んだのが強烈で、つい笑ってしまう。
すると、書類に目を落としていたヴェルフリートが、ちらりとこちらを見上げる。
「……何の話だ?」
「い、いえ! 何でもありません!」
「そうか」
短くそう返して再びペン先を走らせるヴェルフリート。
きっと、書類仕事の負担が減ったことで訓練に時間を回せるようになったのだろう。とてもすばらしいことだ。
(全てが良い方向に進むといいな)
フィオレッタは静かにそう感じながら、今日もまた新しい書類の束を手に取った。
***
午後の執務が一段落したころ、扉の向こうから控えめなノックが響いた。
「失礼いたします、ヘルマでございます」
入ってきたのは、やわらかな笑みを浮かべたヘルマだ。その手には、小さなティナの手がしっかりと握られていた。
「奥様、ティナ様のお勉強が終わりましたのでお連れしました」
「まあ、お疲れさま。頑張りましたね、ティナ」
「うんっ! もじのれんしゅう、まるもらったの!」
ティナは嬉しそうに胸の前で紙を広げて見せた。
そこにはまだ幼い筆跡で、ぎこちなく大きな文字が並んでいる。
――ヴァルティーナ・エルグランド。
フィオレッタは思わず目を細めた。その下には小さく、「ヴェルフリート」「フィオ」と書かれている。きっと、書き方の練習の一環として、家族の名前を書いたのだろう。そこに自分の名前が並んでいることが、とても嬉しい。
「まあ……とっても上手ね。これ、あなたが書いたの?」
「うんっ! ヘルマがね、かぞくのなまえもいっしょにかいてみようって!」
ティナは誇らしげに笑い、フィオレッタの袖をくいくいと引っ張った。
「とても素敵よ、ティナ。あなたの文字、きっとすぐにもっと上手になるわ」
「ほんと? またかくね!」
フィオレッタは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、その紙を大切に大切に受け取った。初めて自分の名前を書いた日、とても嬉しかったことを覚えている。
そしてそれを母に伝えに行ったら、「下手くそね」と一蹴されたことも。
(私は私なりに、この子を大切にしたい)
そう思いながらティナを撫でると、彼女はうっとりと目を閉じた。
そのやり取りを見ていたヘルマも、穏やかに微笑んでいる。
「それでは奥様、ティナ様。お茶にいたしましょうか」
「おちゃする!」と弾むティナの声に、ヘルマも嬉しそうに微笑みを返す。
フィオレッタはしばし考え、ヴェルフリートたちの方を向いた。
今日の執務は順調だ。クラウスもヴェルフリートも真面目なので、仕事自体はさくさく片付いている。
「せっかくですし、旦那様とクラウス様もご一緒にいかがですか?」
フィオレッタの提案に、クラウスがぱっと顔を上げる。
「おお、それは素晴らしい。執務の合間に一服など久しくしておりませんでした!」
ペンを置いたヴェルフリートは、少し考えるように顎に手を添え、それから静かにうなずいた。
「……そうだな。たまには悪くない」
***
中庭が見えるガラス張りのサロンに設けられた丸いテーブルの上には、ハーブティーの香りと焼きたてのサブレが並び、白い茶器が陽光を受けてきらめいている。
「素敵な場所ですね」
この場所でお茶をするのは初めてだ。
フィオレッタが思わず声を漏らすと、クラウスが得意げに笑った。
「そうですね。最近はここでお茶をすることはなくなっていましたが、奥様が来られてから花々もいっそう元気になりましたからね~」
中庭の庭園にも、いくつか意見を言わせてもらい、それらもすんなりと通ってしまった。いち平民の女の意見だと見下さず、ヴェルフリートはいつも公平な判断をしてくれる。
(貴族の中に、このような方がいると思っていなかったわ)
フィオレッタが見てきた世界は、暗くて苦しい世界ばかりだ。身分差にも厳しく、文官たちはこき使われて倒れる者たちもいた。
公爵令嬢のフィオレッタではなく、ただのフィオをきちんと評価してくれる。
そのことがとてもうれしく思える。
お茶会には穏やかな空気が流れる。ティナの笑顔も随分と増えた。
フィオレッタも久しぶりに心からリラックスして、ティナとハーブティーの味比べをしたり、ヘルマと庭の花の世話について話をしたりした。
「このハーブは、夜になると香りが強くなるんですよ」
「まあ、そうなのですね。……きっとお庭がとても素敵な香りに包まれるでしょうね」
「ええ、奥様にもぜひ見ていただきたいです」
日差しが傾きはじめ、テラスにやわらかな影が落ちる。すでにヴェルフリートたちは執務に戻っており、今はティナとヘルマと三人だ。
昼下がりの風は少し冷たく、ティナが小さなくしゃみをした。
「へっくしゅんっ」
「まあ、ティナ。少し冷えてきましたね」
フィオレッタはそっと席を立つ。ここからフィオレッタの部屋までは近い。
「少しストールを取ってまいりますね。すぐ戻ります」
「奥様、私が行きますよ」
「いえ。ヘルマさんはティナを見ていてください」
ヘルマは少し膝が悪い。それならばフィオレッタが行った方がいい。
ティナが「いってらっしゃい!」と元気に手を振る。その明るい声に見送られながら、フィオレッタはゆっくりと自室へと向かった。
ストールを手に自室から戻る途中、角を曲がったところで、あのときのメイドたちと鉢合わせた。
フィオレッタは軽く会釈をし、彼女たちも形式的に頭を下げる。
「ほんと。たぶらかすのがお上手ですこと」
通り過ぎたところで背後から聞こえた小さな声に、足がふと止まった。刺すような言葉に。思わず振り向くと、メイドたちはわざとらしくツンと顔をそらし、そのまま廊下の角を曲がっていった。
遠ざかる足音だけが、静かな廊下に響く。
(……気のせいではないのでしょうね)
胸の奥にかすかな痛みが走る。けれど、今はそれに構っている場合ではない。
フィオレッタは小さく息を整え、再び前を向いた。
(気にしてはいけないわ。ティナが待っているもの)
ストールを抱え、彼女は足早にサロンへと向かったのだった。




