19 町の広場
昼下がりの陽光が、通りの石畳をやわらかく照らす。
昼の市場は賑わいのピークを迎え、行商人の声や焼き菓子の甘い香りが風に乗って流れてくる。
フィオレッタも何度か足を運んだことがあるが、市場は活気にあふれていてとても楽しい。
そんな喧噪の中を、フィオレッタたちは宿屋へと向かっていた。
ティナはすっかり上機嫌で、ヴェルフリートとフィオレッタの両手を交互に握りながら歩く。
「おねえちゃま、ここがパンのいいにおいがする道だよ!」
「ティナも食べたことがあるの?」
「うん、おかあさまとっ!」
にこにこと笑っているティナに、フィオレッタは勝手に切なくなってしまう。
ヴェルフリートと目線が合ってしまい、お互いにそっと遠くを見るしかない。
やがて、通りの角に見覚えのある木造の宿屋が見えてきた。
白い壁に深緑の屋根、窓辺にはマルタが育てた花が咲き誇っている。
「では、入りますね」
フィオレッタが扉を押すと、木製の看板が軋むように揺れた。
カラン、と小さな鈴の音が鳴る。
「いらっしゃ――あらまあ! フィオちゃん!」
カウンターの奥から、マルタが目を丸くして飛び出してきた。
エプロンの端で手を拭いながら、信じられないものを見たような表情で駆け寄ってくる。
「クラウスさんから聞いたわよ、領主様のお屋敷にお世話になることになったって!」
「はい……いろいろと、ご縁がありまして。マルタさんとヨエルさんにはとてもお世話になったので、直接お礼を伝えたくて来ました」
「まあまあ、優しい子だねえ。本当に……」
マルタは感心したようにうなずきながら、ふと目を細めた。
「まったく、あんたみたいに気立てのいい子を手放すなんて、貴族ってやつはほんと――」
そこまで言って、マルタの言葉がぴたりと止まった。
口を半開きにしたまま、彼女の視線がフィオレッタの背後へと吸い寄せられる。
そこには、ヴェルフリートが立っていた。腕にはティナを抱っこしている。
昼下がりの陽光を背に受けたその姿は、鋭くも静かな気配を放っている……のだが、なにぶん幼女を抱いているので、なんともちぐはぐではある。
「ヴェルフリート様じゃないですか! それにヴァルティーナ様まで」
マルタが慌てて声を張り上げると、ヨエルが厨房から顔をのぞかせた。
「ん? おいマルタ、そんな大声……って、おっ! 領主様じゃねえか!」
「だから言ったでしょ、すごいのって!」
慌てて布巾で手を拭きながら、ヨエルはどたどたとカウンターの外へ出てきた。
ティナが抱かれたままぱっと顔を上げる。
「おお、ティナもおおきくなったなぁ、いや、こないだも会ったか!」
「ふふっ」
ティナはうれしそうに笑い、ヴェルフリートの腕の中でもぞもぞと動く。
(ヴァルティーナというのはティナのことなのかしら)
勝手にティナが名前だと思っていたが、どうやら愛称だったようだ。
「いやはや、領主様がお越しになるなんて夢にも思わなかったわ。フィオちゃん、ヴェルフリート様はいい人だからね、安心してお城仕えしてね」
マルタは人のいい笑顔を浮かべている。そこでふと気がついた。もしかしたら、昨日のクラウスの説明では詳細が伝わっていなかったのではと思い直す。
訂正するべきか悩んでいるところに、割って入ったのはヴェルフリートだった。
「使用人ではない」
「え?」
マルタがぽかんと口を開けると、ヴェルフリートは短く言葉を継いだ。
「彼女には、辺境伯夫人となってもらうつもりだ」
「ええええええええ!?」
マルタの目が大きく見開かれ、手に持っていた布巾が床に落ちる。
あんぐりと口を開けたまま、ヴェルフリートとフィオレッタを交互に見比べ――言葉が出てこない。
「そ、そんな……フィオちゃんが……お、奥様っ!?」
「え、ええと……その、事情がありまして」
フィオレッタは慌てて両手を振るが、顔がみるみる赤くなる。
ティナはというと、ヴェルフリートの腕の中で誇らしげに胸を張った。
「フィオおねえちゃま、おじちゃまのおくさん!」
言葉を探して視線を泳がせたあと、マルタは深呼吸をひとつして、無理やり笑顔を取り戻す。
「ま、まあ、領主様のご判断なら間違いないでしょうね。フィオちゃん、ほんとに……よかったねえ……!」
その声には驚きと喜びが入り混じっていたが、最後はフィオレッタに優しい言葉を投げかけてくれた。王都から追放されたことを知っているのはこの夫婦だけだ。
ふたりがこれほど喜んでくれているということは、本当にヴェルフリートは誠実な領主なのだろう。そしてそれは、前の辺境伯夫妻も同じだったに違いない。
「マルタさん、その節は本当にありがとうございました。私……あのとき助けていただけなかったら、きっとどうなっていたかわかりません」
「もう、いいのよ。こうして元気そうな顔を見せてくれて、それだけで十分。でもほら、またいつでも食べにおいでね!」
マルタが優しく笑う。
ヴェルフリートはそんな二人を静かに見守りながら、ティナの髪を撫でていた。
ちょうどそのとき、外からばたばたと足音が近づいてくる。
扉が開くなり、陽の光の中から二人の小さな影が飛び込んできた。
「フィオお姉ちゃん!」
「フィオ! どういうことだよ!」
宿屋の双子――トールとニコルの二人が、勢いよく宿屋の扉を開けて飛び込んでくる。
風と一緒に、昼下がりの光がふわりと店内に流れこんだ。
「フィオお姉ちゃん!」
「フィオ! どういうことだよ!」
ニコルがまっすぐに駆け寄ってきて、思わず足を止める。
その顔は真っ赤で、口をぱくぱくと開け閉めしている。
「け、結婚って……本当なのか……?」
「ええと、そう、ですね……?」
期間限定とはいえ、そういう契約であることは確かだ。フィオレッタがあたふたと答えると、ニコルはがくりと肩を落とした。
まるで世界の終わりを聞かされたような顔をしている。
「うそだろ……」
「ニコル、男はあきらめが肝要だよ」
穏やかな声でたしなめたのはトールだった。
にこりと笑ってフィオレッタの方を見つめると、優しく言う。
「おめでとう、フィオお姉ちゃん」
「ありがとう、トール。二人とも元気そうで安心したわ」
フィオレッタが微笑み返すと、ヴェルフリートの腕の中からティナが顔を出した。
ぱっと表情を明るくして、手を振る。
「トールとニコルだ! ひさしぶり!」
「ティナさま。お元気ですか」
「うん! フィオおねえちゃまといっしょにおでかけなの!」
ティナが嬉しそうに笑うと、トールも頬をゆるめる。一方のニコルはというと、まだどこか複雑な表情のままだ。
「そうか、フィオは城で……くそっオレが大きかったら」
「領主様にかなうわけないって~ははは」
双子が何やら話しているが、フィオレッタにはよく聞こえない。
会話が聞こえているらしいヴェルフリートがちらりとこちらを見たが、首をかしげるとちいさく嘆息したように見えた。
「ティナさま。今日は広場にあめ細工とセムラのおみせ、きてるよ」
「ほんと? いきたい!」
「いこうよ~!」
「あ、でも……」
ヴェルフリートに抱き上げられたティナが、きょろきょろとこちらを見る。
広場に行ってもいいか尋ねたいのだろう。フィオレッタが思わずヴェルフリートと顔を見合わせると、彼も苦笑を浮かべ、肩をすくめた。
「少しくらいならいいだろう」
「良かったね、ティナ」
「わあい、ありがとう! じぶんであるく!」
ティナはヴェルフリートに下ろしてもらうと、トールたちと並んで立った。
三人で何やら話しながら、わいわい楽しそうに広場へ向かっていく。
(子どもたちだけでお話ししているのって、とってもかわいいわ)
その後ろを、フィオレッタとヴェルフリートがゆっくりと歩く。
賑やかな笑い声が先を行く三人から聞こえてくる一方で、ふたりのあいだに流れる空気は、少しだけ気まずい沈黙を孕んでいた。
何か話したほうがいいのではと思い、フィオレッタはそっと口を開く。
「……あの、先ほどは本当にありがとうございました。書類の件、出すぎた真似をしてしまったかと心配で」
「いや、助かった。おかげでようやく机の上が見えるようになった」
ヴェルフリートの声は低く静かだが、どこか柔らかい響きを含んでいる。
ふたりの足音だけが、石畳の上でかすかに響く。屋台のざわめきが聞こえてきて、賑やかな雰囲気になってきた。
それでも、話題が途切れてしまった――また沈黙が落ちる。
(な、なにか……何か話さなければいけないわ)
必死に言葉を探すが、何も浮かばない。
すると、不意にヴェルフリートの方から声がした。
「……フィオ」
「は、はいっ」
「先ほどの書類の件だが」
彼は前を向いたまま、ほんの少し歩調を緩めた。
昼下がりの陽光が彼の横顔を照らす。
「もし差し支えなければ、明日から少しの時間――執務の手伝いをしてもらえないだろうか」
「え……?」
思いがけない申し出に、フィオレッタは瞬きをした。
ヴェルフリートは視線を落とし、苦笑いめいた表情を浮かべる。
「もともと文官の数が足りていない。クラウスが補ってくれているが……君の手際の良さを見てから、ずっと考えていたんだ」
「まあ」
彼は少し言葉を選ぶように間を置き、静かに続けた。
「もちろん、無理に頼むつもりはない。ティナの時間を最優先にしてほしい。手が空いたときに、ほんの数時間だけでいい」
「それなら、お手伝いできると思います。確か、ティナにも習い事があると聞きました」
「そうだな。週に三回ほど、講師が来て楽器や勉強などを教えている」
思わず表情がほころぶ。押しつけではなく、あの時のフィオレッタをちゃんと見てくれた上での頼みなのだと分かるから。
ヴェルフリートも小さく頷き、真面目な口調に戻る。
「当然、労働には対価を支払う。――ああ、それに。元の契約もきちんと交わしておく必要があるな。後回しになっていてすまない」
「いえ、それは大丈夫で……」
大丈夫だと言いかけて、フィオレッタは言葉を止めた。そうやってなんでも肯定していたら、最後は捨てられてしまったはずだ。
ぎゅっと唇を噛みしめる。
「そうですね、きちんと契約を交わしましょう」
そう伝えると、ヴェルフリートは足を止めてフィオレッタの方へと視線を向けた。
その青の瞳は、曇りひとつない光を宿している。己の言葉に責任を持つ者だけが持つ、まっすぐな眼差しだった。
「もちろんだ。約束は必ず守る」
静かな声に、揺らぎがなかった。どこまでも誠実で、逃げ場を与えないほど真っ直ぐな響き。
「フィオおねえちゃま、おじちゃま~~っ!!」
弾む声にふたりがそちらを向くと、ティナが両手を振りながら駆けてきた。
「あっちにね、あのね、クーちゃんのあめがあったの!」
「まあ、本当に?」
「みてみて! こっちなの! みて~~!」
興奮して頬を紅潮させるティナを見て、ふたりは思わず顔を見合わせた。
ヴェルフリートの口元に、珍しく柔らかな笑みが浮かぶ。その表情を見たフィオレッタも、胸の奥があたたかくなった。
「おねえちゃま、いっしょにいこ!」
「ええ、もちろん」
ティナが差し出した小さな手を、フィオレッタはやさしく握る。そのもう片方の手をヴェルフリートが取り、三人は自然と並んで歩き出した。
広場には人々の笑い声と、焼き菓子の香ばしい匂いが満ちている。
領主の姿に気づいた商人たちがざわめくも、ヴェルフリートは気にする様子もなく、ティナの目線に合わせて屋台を眺めていた。
フィオレッタもまた、その横顔を見つめながら――こんな穏やかな時間があるのだと、胸の奥でそっと噛みしめる。
飴細工の屋台を楽しんだあと、屋台で買ったセムラを、みんなでベンチに座って食べた。
セムラとは、ふんわりとした丸いパンの間に白いクリームと香ばしいナッツがはさまれた郷土菓子らしい。
ひと口かじると、ふわふわの生地の中から、ほんのり甘いアーモンドクリームが舌に広がる。バターの香りと、粉糖のやさしい甘みがあとを引く。
「おいしいねえ」
ティナの鼻の先には、クリームがちょんとついてしまっている。フィオレッタはそれを微笑ましく思いながらやさしく拭った。
(ああ……本当に、穏やかで、あたたかい時間ね)
広場の昼下がりは、とても幸せな色をしていた。




