02 温室
人が集まっているエリアを抜けた先、まだ花の時期ではない薔薇園の奥側にその温室があった。白いガラスの壁面が光を反射して輝いている。
扉をそっと押すと、温かな空気が肌を包み込む。
温室栽培の色鮮やかな花々の香りが鼻をくすぐる中、フィオレッタは中を見回した。
(殿下はどこにいらっしゃるのかしら?)
そっと奥へ歩みを進める。ガラス越しに揺れる光がドレスの裾を照らし、刺繍が眩しく煌めく。
けれど、彼の姿はどこにもなかった。
その代わりに、花の陰で何かが動いた気がした。
「ルシアン様ですか……?」
呼びかけた声に応えたのは、聞き覚えのない男の笑い声だった。
「おや、こんなところに来るとは。やっぱりお好きなんですねえ」
フィオレッタが目を向けると、そこには若い男が立っていた。整った顔立ちだが、酒の匂いが強く、胸元のリボンも乱れている。
どこかで見たことがある――そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなった。
(……まさか)
白い革靴の金飾り、侯爵家の紋章入りのブローチ。
その特徴に、心当たりがある。
ロズベルト侯爵家の次男、クラウディオ。社交界では放蕩者として有名な人物で、女遊びと酒癖の悪さで幾度も噂になり、侯爵夫妻が頭を悩ませていると聞いたことがある。
「何をおっしゃっているのかわかりませんわ」
「初心な演技は結構です。ここに来たと言うことは、そういうことでしょう」
「私は人を探しているのです。お引き取りを――」
言いかけた瞬間、男がぐいと距離を詰めた。酒の匂いが鼻を突く。
じろじろと検分するように頭のてっぺんからつま先まで眺められて気分が悪い。
「そんなに構えないでください、フィオレッタ様。あなたのお噂はかねがねお伺いしていますよ」
「……噂ですって?」
「ええ、男を翻弄する悪女だとか。これほど美しければ、それも仕方ないねえ」
その言葉とともに、伸ばされた指先が肩にかかる。
ぞっとするような感触に、思わず手が動いた。
「お戯れはおやめくださいませ!」
――バンッ。
乾いた音が響く。
男の頬に、鮮やかな朱が浮かんだ。
「っ、この……! 売女がお高く留まりやがって!」
男の目が凶暴に歪む。まずいと思ったのも束の間、振り上げられた手が今度はフィオレッタに向かって来る。
(叩かれる)
フィオレッタはそう思ってぎゅっと目を閉じた。
だが、痛みは訪れない。
代わりに、鈍く低い声が空気を裂いた。
「やめないか」
がしり、と何かを掴む音。
恐る恐る目を開けると、目の前で男の腕がありえない角度に捩り上げられていた。
「ぐっ、痛っ……な、何をするっ!」
「女性に手をあげるなど、男のやることか?」
低く唸るような声とともに、男の手首がさらに締め上げられる。
苦痛に顔をゆがめた男は、捻られた腕を抱えてその場に崩れ落ちた。
視線を上げると、黒衣の軍服に身を包んだ長身の男が、花々の間に立っていた。
銀の髪が光を受けてきらりと光り、青い瞳が鋭く光を宿している。
その存在感に、フィオレッタは思わず息を呑んだ。
先ほどまで甘い香りに満ちていた温室が、一瞬で戦場のような緊張に包まれている。
「どこの家の者か知らないが恥を知れ。さっさと失せろ」
「くそっ! 覚えてろよ!」
腕を放たれた男は、顔を歪めながら後ずさり、走るように逃げ出していった。酒を飲んでいるからか、足がもつれて一度転び、また何か悪態をつきながら走り去ってゆく。
(助かった……のね)
残されたのは、身構えた時にうっかり倒してしまった鉢植えと、男に殴られそうになったことへの恐怖感。
フィオレッタはしばし言葉を失い、胸に手を当てた。
指先が震えている。けれど、恐怖よりも――助けられた安堵が勝っていた。
「あの……助けてくださりありがとうございます」
ようやく絞り出した声にその人はゆっくりとこちらを見た。
その瞳が、静かにフィオレッタを射抜く。ほんの一瞬だけ、淡い光がそこに宿った。
「……あなたも気をつけたほうがいい」
「えっ?」
「この庭、やたらと入り組んでいる。迷子になると、厄介だ」
その言葉に、フィオレッタはぽかんとしたまま瞬きをした。
まるで助けたことなど取るに足らないような口調で、男はくるりと背を向けた。
「お待ちください……あの、あなたは」
呼び止めようとしたが、彼はもう扉の向こうへ消えていた。
黒衣の裾が花弁を巻き上げ、そのまま外光の中へ溶けていく。
(迷子とは何のことかしら…… ?)
意味のわからない忠告が耳に残る。
先ほどの男のことや、叩かれそうになったことには触れもせず、ただ颯爽と去って行った謎の男性。
フィオレッタが把握していないということは、貴族ではないのだろうか。
先ほどの出来事が現実なのかどうかもわからない。
ただ、確かにあの手が自分を守ってくれた――その感触だけが、まだ腕に残っていた。
(そうだわ、殿下と合流しないといけないわ)
きっと手違いで、別の場所に行っているのだろう。
小さく息を吐き、乱れた髪を整える。袖口の汚れを払い、崩れたドレスの裾を直して、姿勢を正した。
温室の壁に映る自分の姿を見て、ふっと苦笑する。
(まるで、何事もなかったかのように……振る舞わなければね)
社交の場に生きる者にとって、動揺は弱さと同義だ。唇を引き結び、顔を上げる。
外ではまだ音楽が鳴り、貴族たちの談笑が続いているはずだ。
こんなところで怯えていては、噂の種を与えるようなもの。
フィオレッタは背筋を伸ばし、そっと扉に手をかけた。
温室を出ると、やわらかな風が頬を撫で、乱れた心を少しだけ落ち着かせてくれる。
(一旦、元の場所に戻ろうかしら)
胸の鼓動を抑え、庭園へ戻ろうとしたそのとき。
「まあ、お姉様?」
振り返れば、噴水のそばにルシアンとエミリアの姿があった。
エミリアは心底驚いたように目を丸くし、次の瞬間には駆け寄ってくる。
(どうして二人が一緒にいるのかしら)
フィオレッタはルシアンがいると言われた場所で大変な目に遭ったのに、二人は談笑をしていたように見受けられる。寄り添うように立っている姿が、フィオレッタの心に刺さる。
「どうしたの、お姉様。すっごく顔色が悪いわ!」
「そう、かしら」
「ええ、とっても酷い顔よ。帰って休んだ方がいいわ。ルシアン様ぁ、フィオレッタお姉様をお送りしましょう?」
「いいえエミリア、私は大丈夫よ」
「ええっ、無理をしてはダメよ、お姉様! ルシアン様もそう思うでしょう?」
ようやく目が合ったルシアンが、眉を寄せる。その瞳は心配よりも、どこか冷ややかな色があった。
「倒れられては侯爵も迷惑だろう。すぐに馬車を手配させる。一人で帰れるな?」
「……ありがとうございます。申し訳ありません、それでは先に帰らせていただきます」
「ではな、フィオレッタ。ああ、明日も執務があるんだ、今日中に治せよ」
「……はい」
「フィオレッタ様、こちらに!」
ルシアンの言葉に、侍従の一人がフィオレッタを馬車の場所へと促してくる。フィオレッタは丁寧に頭を下げ、二人から離れた。
「気をつけてね、お姉様っ!」
背後でエミリアの優しげな声が響く。それが本心かどうか、もはや考える気力もない。
用意された馬車に乗り込むと、疲労がどっと押し寄せる。
瞼を閉じると、温室での出来事と、青い瞳の残像が交互に浮かんだ。
――あの人は、誰だったのだろう。
答えのない問いを胸に抱えたまま、馬車は石畳を静かに進んだ。




